ウェブサイトを立ち上げてから、いろんな方から情報をいただくことが前にも増して多くなった。それは、ある意味、当初からの目的のひとつで、「情報があるところに、情報は集まる」と思っている私は、自分の持っている情報を吐き出すことで、新たな情報を得ることができるのではないかと考えていた。
実際にウェブサイトを立ち上げて、プリントアウトしたものを配り歩いたりもしているうちに、「このことは知ってますか?」「手元にこんなものがあるのだけれど、よかったら送ってあげるわ」と言って下さる方が多くなって、そうそう資料にお金をつぎ込めない私としてはとてもありがたい。
今回の内容も実は、何年も前からの知り合いがサイトを見て、関連のありそうな情報をたびたび送ってくれる(感謝です!)。そのひとつがとても衝撃的な内容だったので、ここで紹介したい。(前置きが長くてスミマセン)
FAXで送られてきた用紙の角に、「致知 2000−9」とあり(2000年9月のことでしょう)、特集「人生を幸福に生きる」とある。機関誌かなにかのコピーと思われる。
女優であり、劇団「目覚時計」代表の稲垣美穂子さんのインタビュー記事の内容だ。
彼女は、子どもたちのためのミュージカルを始めたきっかけをこう語っている。「昭和52年にイランで開催されたアニメーションのフェスティバルに参加しました。そのときに知り合いのドイツ人から、とても気になる言葉をかけられたのです。『君、日本はいますごいけれど、10年たったらどうかなあ。君たちは働き過ぎだよ。必死に働いてものを作っているけれども、次の世代のことを考えているかい。日本の大人は子どもたちのために心と時間をまったく使ってないじゃないか。このままでは日本は滅びてしまうよ』と。」
この言葉をきっかけに、稲垣さんは、「単なる娯楽ではなく、子どもに何かメッセージを伝えられるものをやりたいと思いました。私たち大人が生きてきて、感動したこと、素敵だなと思ったこと、それから悔しいと思ったことも楽しいと思ったことも、いろんなことを含めて、心を震わせたことをそのままストレートに伝える。そんな舞台を、一回だけやろうねって言って。」親と子のためのミュージカルを始めた。そして、1回が2回となり、以来20数年にわたり652回ものステージを踏んだという。
今年、メキシコのNGO「カサ・ダヤ」から18歳のシングルマザーと一緒に来日した(雑記帳の2/14と4/9を参照)スタッフのギジェルミーナさんが言っていた。メキシコでも今、大人たちが子育てに労力を費やすよりも、いかに仕事の能力や技術を身につけるかということのほうが価値があると考えていると。稲垣さんがドイツ人から指摘を受けたのが昭和52(1977)年。20年以上たって、いまだ日本の現状は変わらない。大人たちは子どもたちのために「金」は使うけれど、「心」も「時間」も使っていない。そして、予言通りの危機的状況に私たちは面している。
子育ても、教育も、金さえ出せば、他人が、あるいは企業が開発した様々なソフトがやってくれる。
もっとも基本的な幼児のしつけでさえ、テレビやビデオ、教育絵本やパソコンソフトが担っている。肌と肌を接して、きちんと相手の目を見て、人と人との関係のなかで、何かを教わるという機会が子どもたちから奪われてしまった。遊びもまた同様で、ビデオ、テレビ、ゲーム。誰かが相手をしてやらなくても、一人でも遊べてしまう。企業が競争原理で工夫に工夫を重ねた楽しい遊び。金さえ出せば、努力せずに、煩わしいことも一切なしに、刺激的な快楽が簡単に手に入る。
縦の人間関係も、横の人間関係も、どんどん失われていった。そんななかで、相手の感情を理解しろというほうがむりがあるかも知れない。そういう意味で、稲垣さんの子どもに感情のメッセージを伝えるという試みは大きな意義があると思う。
標題のショッキングな言葉はしかし、そんなミュージカルの現場でのできごとだった。
「『にんぎょ姫』のクライマックスシーン−−死を逃れるためには愛する王子を殺されなければならず、にんぎょ姫扮する私が、眠っている王子にナイフを振りかざし、刺そうかどうしようかとためらっている場面で、客席で見ていた3、4歳の女の子が、「殺せー、早く殺して!っ」て叫んだんです。」「そのときが最初で、その後公演を続けていくうちに「殺せ!」の声が10人になり、30人になり、50人、100人となって、あっという間に会場の子どもたち全員が「殺せ!」と叫ぶようになっちゃったんです。もうそれは本当に怖かった。きょうはどのくらいの子が言うんだろうかと思うと・・・・。それにだんだんと「殺せ!」の声がかかる場面が変わってきたんです。にんぎょ姫が「私には王子様を殺すことはとてもできない」と言ってナイフを下ろそうとすると、「やればできるぞー。殺せー」って。ただ、親が一緒にいると言わないんです。子どもだけになったときに、子どもたちの心がワーッと吹き出すというか、ある種のエネルギーのようなものに気圧される感じを受けました」
もし、こんな場面に遭遇したら、あなたはどう思うだろうか。
恐ろしい子どもたちだと思うだろうか、自分の子どもには絶対に叫ばせたくないと思うだろうか。親が側にいると出せない言葉。子どもたちはすでに、「殺せ!」と言ってはいけないことを知っている。それでも、抑圧のないところではこみ上げてくる言葉。考えようによっては、主人公であるにんぎょ姫に感情移入して、にんぎょ姫を救いたいがための「殺せ!」であったかもしれない。しかし、それなら他に言い方があるような気がするし、親の前でも堂々と言えるはずだ。
その後、稲垣さんは、子どもたちの事件がいろいろ報道されるようになって、神戸で酒鬼薔薇聖斗事件が起きたときに、「ああ、あのときのあの子たちだ」と思ったという。
それでも、舞台には救いもあった。「殺せ!」という声に交じって「殺すなんてできないよ!」と叫ぶ子どもが出てきたという。
ここまで読んで私が思い描いたのは、ミュージカルの舞台ではなく、学校の教室という舞台だ。教師や親など大人たちがいない空間で、子どもたちは「殺せ!」と叫んでいる。舞台中央に立たされているのは、役者ではなく、生徒のひとり。いじめの光景。強い誰かが振り上げたこぶしに、「やっちまえ!」の声が飛ぶ。今時のいじめは、加害者と被害者の関係だけでなく、それをはやし立てる大勢の観客と傍観者でなりたっていると分析したのはたしか、森田洋司氏だったと思う。
傍観者のなかにはおそらく、「いじめるなんてできないよ!」と思っている子どももいるだろう。しかし、周囲に気圧されて、あるいは今度は自分がいじめのターゲットになることを恐れて声は出せない。
舞台のなかで、大人の役者さえ脅威を感じた子どもたちの声。周囲に「やっちまえ」「殺せ!」とはやし立てられたら、一旦振り上げた腕を下ろすことができるだろうか。
子どもたちの心の病理は、数人のいじめグループにのみあるわけではないことを、ここで改めて実感した。テレビやビデオ、マンガ、ゲームでの殺人シーンの影響もあるだろう。しかし、それだけではない鬱屈したものが小さい子どもたちにもすでに芽生えている。そして、それを抱えたまま、ますます負のエネルギーをため込みながら、彼ら、彼女らが14、15、17歳に達したとき、何かのきっかけで表出しはじめたら、もう自分でも止めることはできなくなっている。
本当はその前に大人たちが気付かなければならないのに、無言の圧力で、あるいは実力行使で押さえつけられている子どもたちは、大人たちの前で、声を押し殺している。
子どもたちの心の奥にわだかまっている強いエネルギー。
「殺せ!」と叫ぶ子どもたちに脅威を感じた大人が、「これからは、このような場面のある演劇を上演するのはやめましょう」ということになったとしたらどうか。大人たちは子どもたちの恐ろしい声を聞かずにすむかもしれない。しかし、子どもたちはエネルギーを蓄積したままだ。
演劇を観て子どもたちが「殺せ!」と叫ぶ。テレビやビデオにはない、生身の人間の力というものをそこに感じる。口に出せない言葉を子どもたちから吐き出させる素晴らしい力だと思う。
それによって、いくらかでも子どもたちの心にカタルシス(感情の浄化)作用を及ぼすことができるのではないかと思う。
大人たちが、自分たちにも様々な感情があるということを子どもたちに伝えていくことは大切だと思う。それを抱えながら、日々を生きているということも。そして、負の感情だけでなく、素敵だなと思うこと、感動、様々な感情を体験する機会を子どもたちにも、積極的に与えていきたい。
それぞれの方法で、大人たちがもう少し、子どもたちのために心と時間を使って、自分たちの心のメッセージを伝えたい。でなければ、この国は滅びてしまう、その警鐘を重く受けとめたい。
5月5日、子どもの日の新聞に、総務省のまとめた統計によると、4月1日現在の15歳未満の子どもの数は1834万人(男子941万人、女子893万人)で、前年より24万人減り、20年連続の減少。総人口に占める割合も14.4%で前年より0.3ポイント減り、戦後最低を更新したとある。
子どもたちのために時間も、心も、金さえも使わないですむ究極の選択が、子どもを生まないことなのだ。
子どもはその国の未来だ。そして、高齢者も大切にされない国、日本。過去も未来もいらない、現在だけに生きる、刹那的な生き方を私たち大人がしている。自分の「今」しか見ることのできない殺伐とした生き方をしている。どんな犯罪が起こっても不思議はないだろう。
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