わたしの雑記帳

2001/ 4/ 9 キシコのNGO『カサ・ダヤ』と日本の児童養護施設


「日本には措置制度というものがあって、保護者のいない児童や虐待されている児童、そのほか事情があって親が養育することのできない子どもたちは、国が保護し児童養護施設に収容されるから、メキシコのようなストリートチルドレンはいません」メキシコや日本で聞かれるたびに、こう答えてきた。

一人あたりに投入される税金の額や、施設の建物、衣食に関して言えば、日本の児童養護施設の子どもたちは、メキシコのNGOが運営する一時保護施設や自立支援施設にいる子どもたちより、はるかに恵まれているだろう。しかし、それだけで果たして、日本の子どもたちのほうが幸せだと言えるだろうかと、ずっと疑問に思ってきた。

千葉恩寵園の事件を発端に、最近でこそ、ようやく施設の問題、虐待の実態などが取り沙汰されるようになった。しかし今でも、それはごく一部の施設のできごとであると多くの人は信じている。
「福祉」という言葉の中には、献身的で愛情溢れた、人権が守られた場所であるというイメージがある。

しかし実態は、プライバシー保護という名のもと、世間の目から閉ざされた空間の中で、子どもたちは、「子どもの権利条約」などとは、ほど遠い扱いを受けている。子どもたちはメシの種であり、管理はしやすいほどよい、そう考える大人たちの手で不当に扱われている。
児童養護施設の元職員は言った。ほとんどの施設で、体罰などの虐待が昔から今に至るまで、平然と、あるいは公然と、行われていると。頼るべき保護者もいない、自立する術を知らない子どもたちは、それでも、路頭に迷うよりは、親元で虐待されるよりはマシと、じっとガマンしている。声をあげることさえできずにいる。

生まれたときから、不当に扱われてきた子どもたちは、人権とはどういうものなのかすら知らない。「お前たちのため」という言葉を単純に信じる(彼らの多くは自分の親にも、しつけのためと称する虐待を受けてきている)。そして、どこにも逃げ場はないのだからとあきらめる。
元職員は言った。「施設の子どもたちに人権とは何かを教えることがいいのかどうか悩む」と。自分がどんなに不当に扱われているかを知ったところで、解決するすべも、助けを求める相手もいなければ、よけい辛くなるだけ。知らないほうが幸せかもしれないと。

その言葉を裏付けるように、各地の児童養護施設で、常軌を逸した体罰や職員のストレス発散のための暴力、性的な虐待などの事件が報告されている。そして、これは氷山の一角であると、多くの施設関係者が言う。卒園生が言っていた。「卒園した今だから言える、園にいる時は、けっして口に出せなかった」と。しかし、それですら、「施設出身」というだけで、就職や結婚にハンディとなる、何か悪いことをするのではないかという偏見に満ちた世間の目にさらされるという現実のなかでは、施設出身であることを隠して生きざるを得ない。口をつぐむしかない。

告発した子どもたちがその後、どう扱われたか。たとえば、千葉恩寵園から逃げてきた子どもたちがどうなったか。全員、すぐに元の園に戻された。子どもたちが書いた市長への手紙、その必死の訴えに対しても、ただ「頑張ってください」という返事。何をどう頑張れというのか。子どもたちの声も、支援する人びとの声も、ずっと無視され続けた。その間に子どもたちは、園長の息子によって、性的虐待さえも受けていた。

千葉恩寵園だけではない。告発者が現れても、児童相談所は、調査した結果、「誤解があった」「そう言った子どもには虚言癖があった」ですませてしまう。子どもたちの立場にたって、本気で問題を探ろうとはしない。子どもたちの声に耳を傾けようとはしない。「問題は何もない」という希望と先入観が、深刻な問題の発見をも遅らせる。学校と同じだ。

施設内で、何か事件や事故が起こっても、なぜそうなったのか、深く考えようともしないで、ただ子どもたちの責任として、矯正施設送りにして済ませてしまう。
年頃の男女を同じ部屋で生活、就寝させる。大きい子どもに小さな子どもの世話をさせ、小さな子どもが何かミスをすると、職員が大きい子どもを殴る。性的な虐待やいじめ、暴力、原因をつくったのは明らかに大人たちであっても、処罰されるのは子どもたちだけだ。なかには、職員がわざとテーブルにタバコを出しっぱなしにしておいて、それを吸うのを見つけて殴る、子どもを言葉や態度で挑発し、わざと殴らせて矯正施設送りにするなど、悪質なものもあるという。

宝島文庫の『「子育て」崩壊!』に、神奈川県の児童養護施設「鎌倉学園」の幹部や職員へのインタビューが載っている。体罰などの人権侵害が表沙汰になる直前のものだという。
「子どもは愛情飢餓の状態で来ているから、その甘えを受け入れるためにも、縦関係は必要だと思っています。親子間のように縦の立場がはっきりしていれば、子どもは職員に甘えられるのですが、友達づきあいのような横の関係になってしまうと、逆に甘えの感情は出せない。ですから職員を必ず『先生』と呼ばせています」「『洗濯のやり方が悪いと、服を庭の池に捨てるよ』と子どもに言ったことがあります。もちろん本当に実行しました」「本来の家庭で守られないために施設に来ていながら、ここで守られすぎるのも問題」
施設の方針が伺い知れる。

また、同文の著者であるフリーライターの馬場千枝さんは、園の状況を以下のように表現している。
「やることなすこと、システマティックで無駄がない。(中略)なにしろ各当番のマニュアルが細かく決められ、誰にでもわかるように壁に貼ってある」「ここまで行儀作法、家事全般をきめ細かに仕込む場所は、いまどき一般家庭でも学校でもめったにお目にかかれないのではないか」「あちこちに張り出された『指示書』が個性的なインテリアになっている」「すべて命令形というのがお約束である」
「たしかに一般家庭の子どもに比べ、ここでは制限事項が多い。茶髪、ピアス、ルーズソックス、化粧は禁止。テレビゲームもない。夜7時以降は公衆電話の利用は禁止。また子どもたちの個人ロッカー点検も日常の風景だ。子どものプライバシー云々より、「子どもの持ち物を知っておくのも大人の責任。見ないほうが問題だ」という考えなのである」

同園の近くの牧師さんが、「集団生活を送っている園の子どもは適応力があるし、何をやらせてもよくできますよ。ほとんど手がかからない」と評した。
これがもし、報道によって、職員による殴る蹴るの暴行が日常茶飯事であること、規則に違反したものは1カ月間など長期にわたって軟禁・隔離される、持ち物検査や手紙を勝手に読むのは当たり前、吐いた食事をもう一度食べさせる、などの虐待が明らかにならなかったとしたら、私たちはどう思うだろうか。
行き届いたしつけ。手のかからない良い子たち、素晴らしい園という評価を下しはしなかっただろうか。

大人たちの言う「よい子ども」とは、管理のしやすさが評価基準になっている。けっして、その子自身の幸福度や自立度ではない。
最近になって日本の福祉でもようやく注目されてきた言葉に、「ノーマリゼーション(ノーマライゼーションとも言う)」というのがある。「普通の暮らし」という意味。高齢者であっても、障がい者であっても、普通の当たり前の生活ができることがいいという考え方だ。それまでの、福祉は手厚ければ、手厚いほどよいという考え方とは異なる。

児童養護施設の子どもたちに「普通の暮らし」はあるだろうか。
職員の勤務時間にあわせて、つまり管理の都合にあわせて、門限が決められ、食事時間が決められ、就寝時間が決められる。門限は5時〜6時、夕食は6時〜7時、就寝が9時〜10時など、そのために学校のクラブもできない、一般家庭の友人と遊ぶこともできない、好きなテレビ番組、ラジオも聞けないなど、一般家庭の時間とはあまりに隔たりがある。そして、規則に違反すれば、悪いことをすれば、まるで独房、あるいは懲罰房さながらの「幸い家」。鎌倉学園では、罰としてここに入れられた子どもたちは、テレビやラジカセの禁止はもちろん、外出も、電話も、ほかの児童と話すことすら禁じられたという。
まるで、少年院か矯正施設だ。彼らは家庭の崩壊の被害者だというのに、まるで加害者の扱いを受ける。職員は、「恐怖」をもって子どもたちを管理する。

2001/2/14付けの「わたしの雑記帳」、「メキシコから来た少女」を参照してほしい。
メキシコでシングルマザーの自立を支援しているNGO『カサ・ダヤ』の考え方とは、あまりの違いがある。
子どもたちに何が必要か、という視点からスタートした施設との違いであると感じる。戦後の日本で、戦争孤児や貧困で親に見捨てられた子どもたち、当時の言葉で言うところの「戦災孤児」や「浮浪児」を「浮浪児狩り」と称してまで、強制的に収容したのはなぜか。保護者のいない子どもたちは、生きるために、盗みなどの犯罪に手を染めるからだ。犯罪組織の要員として働かされるからだ。
治安の維持・管理のために児童養護施設があったと言っても言い過ぎではないと思う。もちろん、メキシコにもそういった考えがないわけではないと思うが。
そして日本にも、ただ子どもたちを見捨てておけず、資材をなげうって子どもたちの保護・養育に尽くした人もたくさんいるだろう。しかし、そちらの光の部分が強調されすぎると、陰の部分が忘れられ見えなくんりがちなのであえてここで提示したい。

日本の養護施設職員の待遇の悪さや勤務の厳しさがよく問題にされる。(現在は、ずいぶん改善され、けっして他の職種に比べてまさるとも劣らないとも聞くが・・・)だから、虐待がおこる?ほんとうだろうか。そのことを理由に単に逃げてはいないか。施設長や副施設長が率先して体罰を行い、虐待を繰り返していた例が多いのはなぜか。
メキシコのNGOの施設職員の仕事も、同じようにけっして楽ではないし、危険も伴う。そして、待遇は最低ラインだ。挫折するものも多いと聞く。それでも、子どもたちのために何かをしたいという情熱だけで、国内だけでなく、世界各国からボランティアや職員希望者がNGOを訪れる。その中には、日本人も含まれている。
子どもたちのプライバシーの問題は確かに大きいと思う。しかし、日本でも、もっと養護施設を解放すれば、そこで働きたいひと、真に子どもたちと接する仕事をしたいひとはたくさんいると思う。

ある児童養護施設で、施設長が新任の挨拶に、「施設を出た子どもたちはろくな大人にならない」「だからビシバシと厳しくしつけなければならない」というようなことを発言したということを聞いた。
「愛」ではなく、そのような目を自分たちに向けてくる人間に対して、子どもたちが素直に心を開くことができるだろうか。それでなくとも、大人たちから酷い目にあわされ続けてきているというのに。「規律」で自分を縛ろうとする大人たちに対して、信頼して悩みを打ち明けることができるだろうか。堅く口を閉ざしてしまうか、怯えて顔色を窺うようになる、あるいは反発するだけではないだろうか。

メキシコで、子どもたちは、施設にいくこと、どこの施設に入るかを自分で選択する自由がある(日本にはない)。そこにいたくないという子どもを無理に収容することはない。そのために、何かいやなことがあるとすぐまたもとのストリートに戻ってしまう、より待遇のよい施設を求めて子どもたちが転々とするなどの弊害はあるにしても、人間の一番基本的な権利とは、自分のことを自分で決定できるということではないかと思う(もちろん、正確な情報と正しい知識を与えられたうえで)。
そして、その子によって、ここの施設は合わないが、他の施設ならうまくやっていける場合もあるに違いないし、子どもたちに評価されることによって、NGOも自己満足に陥ることなく、改善策を考える。
そこにいたいという子どもと、子どもたちにいて欲しいと思う施設職員がいたなら、施設はきっとよくなるだろう。

力で無理矢理、押さえつけられたものは、圧力がなくなったときには元に戻ってしまう。あるいは反動があらわれる。そんな状態を「自立」と呼べるのか。もちろん、社会のルールを学ぶこと、守ることは大切なことで、そのことは『カサ・ダヤ』でも大切にしている。しかし、一方的に強制するのではなく、日々の暮らしのなかで、根気よく学ばせていく。本人が納得のいく形で、身に付けたものはおそらく、一生の財産となるだろう。

メキシコで、自立支援施設にいた子どもたちの顔は、どの子も輝いていた。
施設の中でも、意見が対立したり、いじめがあったり、辛いことはある。しかし、子どもたちには、自分の意思でそこにいるという誇りと信念みたいなものが感じられる。
ストリートではなく、施設で暮らすことを何故選んだのかを聞くと必ず返ってくる答えがある。ストリートにいる時は、自分のことを愛せない、どうでもいいと思っていた。施設にきて、こんな自分でも愛される価値があるのだとわかったとき、自分を大切にしたい、自分が幸せになるための生き方を選択したいと思ったという。そして、そのための努力を子どもたちは惜しみはしない。

日本の児童養護施設の子どもたちは、自分のことを「大切にされている存在」だと感じることができているだろうか。施設に限らず、日本の子どもたちは、一人ひとりが「自分は愛されている存在だ」と感じることができているだろうか。モノでなく、言葉や態度で、大人たちは子どもたちにメッセージを伝えているだろうか、あるいは伝える努力をしているだろうか。

メキシコでは、「太陽」というのが特別の意味を持っていて、とても大切に思われている。
旅人の衣を脱がせるために、「太陽」と「北風」が競う童話がある。メキシコのNGOが「太陽」なら、日本の児童養護施設は「北風」だなと思う。
これを単に、きれいごとだと、理想論だと言うだろうか。理想を求めずして、子どもたちに何を与えようというのだろう。子どもたちには、思いっきり高い理想を掲げて、それを実現するべく、大人たちは努力すべきではないかと思う。

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なお、児童養護施設の虐待についてもっと詳しく知りたい方は、当ウェブサイトのリンク集にもあるが、

養護施設の子どもたち   STOP! 養護施設内虐待   がんばれ!恩寵園の子どもたち

を要参照。

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