もうほとんどの学校で、卒業式は終わっただろうか。このシーズンになるといつも思うことがある。
昨日、テレビで、小学校1年生の遠足の帰りに車にひき逃げされた少女の遺族のことをやっていた。
ひき逃げの時効の5年が成立しても、まだ遺族が犯人を探していること、被害者遺族からすれば、ひき逃げは殺人と同じに思える。それにしては、時効があまりに短いことなどを訴えていた。
そして、この5年間、少女のいたクラスの生徒たちや担任だった先生が、遺族と一緒に犯人探しのビラ配りをしたことや、卒業式にみんなと一緒に卒業証書が亡くなった少女にも出されたことを、映像で追っていた。
このことは、とても素晴らしいことだと思う。
ひとりの友だちの死を悼む心。教師が率先して行動したからこそ、子どもたちは強制されなくとも、自ら協力したのだろう。
一方で、いじめ自殺や授業中の事故、教師による体罰など、学校の責任で、あるいは何割かは責任と思われることで、子どもが亡くなった場合、子どもたちは周囲の大人たちから、亡くなった友だちのことを口にすら出せない雰囲気に追いやられる。
そして、学校の温情で卒業証書が出されるとしても、極めて形式的だったり、遺族が式に出席することを拒まれたり、ということがある。卒業アルバムや文集から、亡くなった子どもの足跡が消される。まるで、最初から存在しなかったかのように。
どちらの場合も同じように、成長の過程で亡くなって、「今、生きていれば、こうしてみんなと一緒に卒業できたのに」「実際には見ることのできなかった姿だけれど、せめて、あの世で卒業式を」という親の想いには、事故死だろうが、病気であろうが、自死であろうが、変わりないと思う。
それが、学校と敵対した途端、亡くなった子どもも、その親も、学校の高い壁の外に追い出される。
遺影と一緒に卒業、あるいは入学。故人の遺志をせめて継ぎたいと思う親の心。しかし、子どもたちは・・・。
以前、歩いていて偶然に、小耳に挟んだ小学生たちの会話。
交通事故で亡くなった子どもの位牌を持って小学校の入学式に参列した両親のことを、「気持ち悪い」と話していた。子どもたちに悪気はないだろう。むしろ、仲間内で話される率直な感想だ。
でも、大人たちはそのことの意味を、子どもたちにきちんと教えているだろうか。死を悼む心というものを教えているだろうか。
テレビで、マンガで、ゲームで、毎日のように死の場面に接しているくせに、実際の死というものを身近に知らない子どもたち。言葉に出して、根気よく、命の大切さ、重さを教える教育は必要だと思う。
もっとも、私自身を含めて今の大人たちに、果たして、それができるかどうか疑問だけれど。
卒業式。多くの子どもたちが巣立って行く。そんななかで、行き場所を失った子どもたちが毎年、増えていることを実感する。大人たちの都合で、ふるいを設ける。、門戸を狭める必要が、この少子化の時代にどれだけ必要なことだろう。
社会的に、不登校も認められるようになってきた。しかし、行かないことを認めても、彼らを受け入れる場所はまだそう多くない。
いろんな事情で学校を追い出された子どもたちにしても同じだ。校風にあわない、不祥事を起こした、本人に原因があるのなら、ある面で仕方ないとは思うものの、社会にポンと放り出されてたくましく生きていけるほど彼らも強くない。
ここのところ少し、いじめをした、あるいは恐喝をしていた少年たちが学校を退学になっている。
今までは、加害者たちがのうのうと学校に通う中で、被害者が学校に通うことができず、転校を余儀なくなれたり、不登校に陥ったり、引きこもりになったり、していたことを思えば、むしろ正常だと思う。
学校は、子どもたちを切り捨てるだけで問題が解決したと思うかもしれないが、子どもたちの抱える問題はさらに大きくなるだろう。
学校から、親から、社会からの見捨てられ感。自分自身を大切にできない。自暴自棄になった彼らは社会に復讐する。より弱いものへと。学校から社会へと場を移しただけで、問題は何一つ解決しない。
喜んで、彼らを受け入れるのは犯罪組織だけ、などという状況になったら、日本の未来はさらに殺伐としたものになるだろう。
学校だけではすでに受け切れなくなった多様な子どもたちの居場所を、今、大人たちがつくってやらなければ、子どもたちはこれからも、さまよい続けるだろう。子どもたちは、自分を受け入れてくれる場所を求めて、日本を捨てなければならなくなる日が来るかもしれない。
残るのは、誰かを自分の意のままに従わせようとやっきになる大人たちばかり。
「愛国心」などと声高に叫ぶ前に、子どもたちにとって、真に魅力のある国になっているのか、反省したい。この国が子どもたちに見捨てられてしまう前に。
そう、外国語教育が進めば、言葉の壁がなくなったら、若者たちはもっと自由に海外に出ていくだろう。そして、二度と戻らない・・・かも。
戦争でなく、災害でなく、国が滅ぶ時代が来るかもしれない。
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