わたしの雑記帳

2000/12/18 児童虐待について


ある方から、児童虐待についてどう思いますか?というメールをいただきました。
私は専門家ではないので(と逃げつつ)、思うところを思うままに書きます。

「親が悪い」「子どもがかわいそう」と言ってしまえば簡単だけど、問題はそんな単純なことではないと思う。
親の立場で言えば、子育てするなかで、カッとすることもある。手が出ることも、足が出ることもある。けっして、模範的な親ではない。(ただし、ケガをしないように気を付けながらやっている)
以前、ある人に、そのことを話したら、「あなた、わかっているの?それって、りっぱな児童虐待よ」と言われたことがある。
一瞬、心臓にズキンときた。私自身はそうは思わなくても、そうかもしれないという一抹の不安がよぎる。
もちろん、手を出すのはよくないことだとわかっている。私の未熟さゆえだ。でも、必要以上に罪悪感をもつことは、かえって親子関係を歪めてしまう気がしている。(今にして思えば)

よく「口で言ってきかせればわかることだ」「子どもはほめて育てなさい」と言われる。(現に、両方の祖母からはさんざん言われた)しかし、時と場合、親子の日頃の関係、子どもの性格にもよると思う。
どの子にも、どの親にもあてはまる子育て方法なんてないと思っている。

心理学を学んだひとが、子どもとの接し方、言葉かけの仕方を「こうしなさい」「ああしなさい」と教えてくれる。
それは一見、心で考えているようで、実はマニュアル化したノウハウ。頭で考えた子育てだと思う。
表面上はそれで丸く収まるかもしれない。しかし、子どもの心は本当にそれで満足するのだろうか。
言葉のウラを一々見透かされるような、先回りした親の言動は、表面上はやさしくても、実は血の通わない冷たいものに映るのではないか。
子どもの直感力は鋭い。コントロールしようとする大人の意志をきっと感じてしまう。理屈では言いくるめられてしまってかなわないけれど、本気で受け入れてもらっていない不満がオリのように心にたまっていくのではないだろうか。

私自身、子育てはもっと動物本能的なものだと思っている。もちろん、親は本能(気分)のおもむくまま、好き勝手をやっていいということではない。
子どもにとって一番身近な人間の存在として、本気のぶつかってこそ、人間というものを学べる。子どもに対する怒りも、愛情も、同じように表現する。子どもとぶつかるときも、きちんと向き合っていきたいと思っている。
包み隠さない相手の感情を知り、傷つけたり、傷ついたりしながらも、その中から、他人との濃厚な人間関係を恐れずに築いていけるようになるのだと思う。

自分のことにつなげて、だいぶ横道にそれてしまったので、ふたたび、虐待について。
虐待する親は、突然変異のように社会に出現したのだろうか?
「昔の親は自分を犠牲にしても、子どもを守った」と言う人がいる。いまだって、そんな親はたくさんいる。一方で、昔も虐待はあった。
間引きは避妊技術や用具が発達していない時代はもっと頻繁に行われていたし、親の借金のかたに、女の子は水商売に、男の子は農家などに労働力として売られた。
子どもは親の所有物だった。そして、親が年老いたときに面倒をみてくれる、経済を支える社会保証のひとつでもあった。
時代が変わっても、その考えは、根本的なところで今でもあまり変わらないかもしれない。
「子どものため」と言いながら、有名校に進学させるのは親同士の見栄のためだったり、良い職業(知名度があって、給料が高く、潰れない)に就かせたいと思うのは、投資した分をできるだけ多く回収したいがためだったりする。

ただ、ここのところの虐待は、確かに昔と違ってきていると私も思う。
自分のイライラをぶつける。子育てを放棄する。しかも、弱い存在に対して手加減を知らない。
直接の原因は、親が親として育っていない、大人になりきっていないからだと思う。
ただ、こんな親たちを大量生産したのは、そのまた親たちの責任、社会の責任だと私は思う。

敗戦で大きく崩れたそれまでの価値観。そして、耐乏生活のあとに、突然やってきた高度経済成長、物質時代。
おいしいエサをたらふく与えられたパブロフの犬のように、大人たちの価値観がそこで固定されてしまった。
世界を競争相手として、市場を切り開いていった日本企業の価値観が、そのまま家庭の価値観となった。
高学歴を目指し、生活水準をあげるために、子どもの数は少なくなった。その子どもたちに親は、自分たちが新たに獲得した価値観をそそぎ込んだ。

小さい子どもを見ていると、人間は本来、集団動物なのだなぁと思う。子どもは子ども同士で遊ぶことがとても好きだ。
多少、相手に叩かれて痛い思いをしたとしても、うれしい、楽しいが勝る。共生することの心地よさを本来はここで学ぶ。
しかし、その人間として大切な学びの時間が大人たちのエゴによって奪われてきたとしたら、他人を競争相手としか見ない価値観を植え付けられたとしたら、集団でいることはむしろ、苦痛になるだろう。
人と共にいることに喜びを感じない人間にとって他人とは、自分に利益をもたらすか否かの存在しかなくなってしまう。
だから、結婚はできても、子育てには、マイナス面ばかり感じてしまうのではないか。

子育てをしていて、一番感じたことは、「子どもは思い通りにならない」ということ。
自分から生まれたものなのに、何故か自分とは違う意志を持つ不思議。(私の場合、この不思議さに非常に興味を惹かれた)
学校でも、会社でも、努力すればするだけの成果が得られた。なのに、この小さな生き物には、それが通じない。
労働時間は、朝の6時から夜の10時までと決めておきたいのに、夜中でも、就寝中でも、授乳で3時間ごとにおこされる。ミルクも飲ませた、オムツも換えた。こちらには何の落ち度もないのに、突然、火がついたように泣き出す。
デジタルからアナログの世界へ。無機から有機の世界へ。学校や企業で培ってきた価値観が全て覆される。
そのときに、原体験として、人と人との関わり、肌と肌をあわせるぬくもりに、気持ちよいと感じるものがなければ、子どもはうとましいだけの存在になってしまうのではないだろうか。

また、競争社会に育ってきた親は、自分の子どもの成長を他人の子どもと比較してしまう。何でも早くできたほうがよくて、遅いと不安になる。
小さい子どもと接した経験がないからなおさら、子どもというものがわからない。時には、大人と比較して聞き分けがないとイラつく。(中高生が小さい子どもの言動に腹を立てて危害を加えることがあるのも、小さな子どもの特性がわからないからだと思う)

そして、母親の孤立感。都会のなかで気軽に相談する相手もいない。頼りの夫は仕事を理由に、面倒なことからは逃げてしまう。
聞こえてくるのは、母親の責任を問う声ばかりだ。難産でしたか?母乳でしたか?離乳食は、普段の食事は、どんなものを食べさせていましたか?会話はありましたか?スキンシップや声かけは十分にしましたか?よい音楽は聞かせましたか?
他人ごとと決め込んだ社会から罪悪感ばかりを刷り込まれて、ますます萎縮してしまう。子育てが窮屈なものになる。
緊張の糸が、幼い子どもに手を挙げる行為へと走らせる。

もちろん、社会が悪い、そのまた親が悪いからと言って、虐待していいことにはならないし、虐待した親の責任や罪が消えるものでもない。ただ、よく言われるように、虐待した親を責めたからといって問題は何も解決しない。追いつめることは、問題をさらに深刻化させる。
今、一番大切なことは、親を、特に母親を孤立させないことだと思う。子育ては社会が負う課題でもある。どんな人間を育てたいのか、私たちの価値観が問われている。

2001年の2月11日(日)に、ストリートチルドレンを考える会で、メキシコのNGO「カサ・ダヤ」のスタッフと、17歳のシングルマザーとその子ども(1歳)を招聘してシンポジウムを行う。
主催者のママ・ビッキーと呼ばれる女性は、家庭内で虐待を受け路上に飛びたし仲間と暮らすうちに子どもができたり、家庭や路上でレイプされて子どもが生まれた幼い少女たちを支援している。幼い母親たちの母となって、その子たちが実の親から受けてこなかった愛情を注ぐ。自立を助ける。生活と子育てをサポートしている。
このイベントに先だって、いろんな機関の人たちに、「メキシコのシングルマザーの少女たちと同じテーブルで学びあう場を設けたい」旨を提案するが、返事は、「メキシコの少女たちと、日本の少女、シングルマザーたちとは状況が違う」と言われる。
メキシコの貧しい少女たちは、同情の対象とはなっても、同じ問題を抱えているという共通の認識には立てないと言う。

本当にそうだろうか?日本の母親たちに、彼女たちと共通する問題はないのだろうか?
それが、なんらかの形で母子の教育に携わっている専門家たちの声だけに、私には、今の日本はまさに危機的な状況にあるように見える。
今の親は昔の親と違って、結婚していない娘が妊娠しても、堕胎を勧めないという。むしろ、本人の意志より、親が出産を歓迎するという。
今の親は、体力があるし、経済力もある。若いときよりむしろ、中年以降のほうが、子育てのゆとりも生まれる。
子どもの責任を親が肩代わりして、子育てをしてしまうという。
だから何も問題がない?

ほんとうにこんなことで、責任を放棄した親の元で、子どもは健全に育つのだろうか。
ミルクやオムツの世話だけで赤ん坊は育つわけではない。そして、親もまた、子どもを産んだという事実だけでは、親としての成長は遂げられない。
思い通りにならない子育てと格闘しながら、自分育てをやっていく。そうやって、やがて力を蓄えてくる我が子と対等に渡り合えるようになる。

私たちがママ・ビッキーに学ぶべきことは、問題が起きる前に対策を立てることだ。その認識が、今の日本ではあまりに低い。虐待があってからでは、親も子も心に深い傷が残る。その心の傷がやがて虐待の連鎖になると言われている。
今、母親たちに必要な支援は、誰かが子育てを肩代わりすることではなく、主体はあくまでも父親を含めた「親」と「子」とし、周囲から孤立させない、悩みを気軽に打ち明けられる、困った時にはみんなで一緒に考えられるような仕組みづくりをすることだ。夫の支援、祖父母の支援、地域の支援、社会の支援。いろんなところで、いろんな形でサポートする仕組みが整っていれば、子育ての孤立感は今よりずっと癒されるだろう。

そういう意味で、政府の「子育て支援策」は賛成だが、本人たちが誰も望んでいないのに、理想の家族像を押しつけることだけはやめてほしい。「仮面の家」の悲劇を繰り返さないためにも。(雑記帳 2000/12/10子どもの家庭内暴力・ある夫婦の軌跡 参照

虐待の問題は、今頻繁に起きている幼児虐待事件の派手な現象にのみ目がいきがちだ。
しかし、もっと多くの家庭で、同じように虐待の芽が育ちつつあると私は思っている。
ママ・ビッキーが幼い少女たちにおこなっているような、愛情あふれた支援、親子の自立に向けた支援が、今の日本にこそ必要なのだと思う。

お金があることで、逆に問題が見えづらくなっている。親も子も、自立することの大切さに気づかない。もたれあいの世界の中で、何かひとつ小さな部品がかけただけで、脆くも崩壊してしまうような危機的状況に、日本の家庭は今、立っていると思う。虐待の芽を摘むのは、早ければ早いほうがいい。そのためには、人間が人間であることを取り戻さなければいけない。いじめも、虐待も、子どもたちを取り巻くすべての問題はそこでつながっていると思っている。

以上、虐待についてと言いながら、子育て論にまで及んでしまいました。(切っても切り離せないものだと思います)
長々と書いてしまいましたが、果たしてHさんの質問の答えにはなったでしょうか?

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