戸塚大地くんの授業中の事故死に対して安全義務を問う裁判の傍聴に行ってきた。
当時、生活指導主任でもあった体育教師。現在47歳で、他校の教頭をしている。
見た目、体育の教師というより、社会科かなにかを教えていそうな雰囲気だ。
通常なら、もっと敵愾心を剥きだしにしたり、自己防衛をはかって攻撃的になったり、必死に言いつくろったりしそうなものだが、「のれんに腕押し」というか、よく言えば正直。
ただ、とても奇異な感じがする。あまりに淡々としていて、感情というものがまったく感じられない。
ある程度、やるべきことはやっている。そうそう間違ってはいない。病院にも行った。お葬式にも出席した。(そこで、大勢押し寄せた生徒たちの交通整理をしていたという)「謝罪がないと言われたので」と一応、謝りにもきた。その後、何度もお線香もあげにきたという。積極的に責めるべきところが見あたらない。
多少は保身に走るところもある。
生徒は、「何をしても怒らない先生だった」「自分も怒られたことがない」と証言していたが、「生徒指導には厳しい」と自ら言う。事故についての箝口令をしいたことも、「そんなことはありません」ときっぱりと否定する。
一時間中に器械体操の鉄棒、マット、跳び箱を一度にやらせていた指導方法には、誤りがないという。一カ所に立っているだけで、十分に全体を見渡せるし、生徒の監視もきちんとできたという。
生徒のマット運動のテスト採点中であっても、全体は雰囲気でわかるときっぱりと言った。
それなら、なぜ、大地くんの事故に気付かなかったのか。まして、プロレス技を真似て跳び箱を跳んで1回目は成功して、級友たちから拍手喝采を受けている。2度目に失敗して、落下したときも、教師は生徒に呼びに来られるまで気付かなかったという。
そして、指導方法に間違いがないと思うならなぜ、翌年から、その方法をやめたのか。
尋問を聴いているとイライラ感が募る。
自分の指導のもとで、生徒がひとり死んだというのに、あまりにも淡々としている。感情の起伏というものが感じられない。
戸塚さんは「無機質な」感じがする先生だと表現していた。ずっとこんな感じだったと言った。
演技をしているとか、感情表現の仕方が下手だとか、そういう雰囲気ではないのだ。
その姿からは、心の痛みが感じられない。ふつうなら、自分の授業のなかで、ひとが一人死んだのだ。たとえ何の落ち度がなかったにしても、もしもあのとき、こうしていれば、ああしていれば、死ななくても済んだかもしれないと考えるのが人間ではないだろうか。
ご両親は、今も、あのとき、ああしていれば、こうしていれば、自分はなんてバカな親だったのだろうと、自分を責めている。それが、理由のないことであっても、甲斐のないことであっても、そう思わずにはいられないものなのだ。
2年生の体育の先生は、大地くんが黒いTシャツを着て、学校指定の体操服を着てこなかったという理由で、体育が得意で、本来はとても楽しみにしていたはずの授業に一度も出席をさせなかったという。そのことを、両親はこの裁判のなかで、相手方の弁護士から聞かされた。明らかに、死者を貶めるための言葉。悪意だ。
裁判を傍聴していると必ずといっていいほど、こうした場面に遭遇する。争っている相手方の弁護士としては当然のことかもしれない。しかし、深い傷を負っている人間の傷口に手を突っ込んで引っかき回すようなことが、被害者の遺族に対して行われてもいいものなのか、死者を冒涜する行為が許されていいものなのか、疑問に思う。
裁判に本当に必要とは思えない。単なる心理作戦によって、遺族の心は深く傷つけられる。
得意なはずの体育が1だった。そのことを気にもとめていなかった。なぜ、あのとき、息子に聞いてやらなかったのか。そうしたら、なぜ1年間、わざわざ黒いシャツで通したのかも聞けたかもしれない。事件とは直接関係のないことではあっても、両親には悔いが残る。今なら、今もし息子が生きていたら、このことで学校と争ってもいいとさえ思う。もしも、生きていたならと。
一方で、この体育の先生は、大地くんに黒いシャツでの参加を許している。それ以外は何の問題もない生徒だったと、自ら証言さえしている。一見、ものわかりのいい先生。でも、見方によっては、生徒にあまり関心がなかったのではないかと思えてくる。
この何の問題もなさそうに見える教師。しかし、もしも彼が、両親と悲しみを共にしていたら、一緒に手を取り合って泣くことができていたら、訴訟にまでは至らなかったかもしれない。
裁判を通して、それでも両親は多くの事実に触れることができている。事故報告書。現場検証。同級生たちの証言。裁判を起こさなければ触れることの叶わなかった事実。事故は、どういう状況のなかで起きたのか。その時、先生は、生徒たちはどうしていたのか。
学校を信じて我が子を託して、遺体となって戻ってきた。その間、何があったのか、親ならば知りたいと思うのは当然だ。それが、目を背けたくなるような事実であっても、それでも知りたいと思う。
どこかに心を落としてきてしまったような教師たち。ひとの死を心底悲しむことのできない人間に、命の尊さを教えることができるだろうか。生徒の心に寄り添うことができるだろうか。
次回は、3月8日(木)1時30分〜3時。東京地方裁判所八王子支部にて。引き続き、体育の担当教師と、当時の校長の尋問となります。
|