わたしの雑記帳

2000/12/12 笹川尭・総合科学技術担当相の「いじめは絶対なくならない」発言について


12月6日、笹川尭・総合科学技術担当相は「容認はしないが、いじめがなくなる世の中は絶対ありえない」と発言。さらに、「競争して勝っていけば、いじめにあわないという可能性も出てくる。(中略)ある程度。精神的ないじめというものは、どこでも・・・。自分が『いじめじゃないかなぁ』『やだなぁ』と思えば、たとえば『学校の先生が嫌だなぁ』と思って(学校へ)行かないということも、本人は精神的にはいじめと解釈しているところがあるんでしょうな」と述べたという。その後、「いろいろな競争に負けない強じんな精神をもつ重要性を申し上げた。いじめを容認する趣旨ではない」と釈明するコメントを出している。

こういった考えは、なにも笹川氏だけのものではない。いじめの問題を話していて、教育委員長の肩書きを持つ人からも同じようなことを聞かされたし、学校の先生、カウンセラー、父母、若い人からも聞いた。
建前的には、「いじめはいけない」と言うひとでも、本音の話になると、「いじめられるほうにも問題がある」「いじめは昔からあった。みんなそれに耐えてきたんだ」「弱い奴がいけない」「やられたら、やり返せばすむことだ」と必ずのように言う。

そう、大人たちがそういう考え方だから、いじめはなくならない。オブラートに包んでいても結局は、「いじめる理由があれば、いじめていい」「強いものは、弱いものをいじめる権利がある」と言っているように聞こえる。まるで、いじめっこの代弁をしているようだ。
子どもたちは、大人たちの本音を敏感に感じ取る。大人たちが本気で「いじめはいけないことだ」と思わないなかで、どうして子どもたちが「いじめはいけないことだ」と学ぶだろう。
いじめる人間がこれとターゲットを定めたとき、自分のことは棚にあげて、いじめる理由ならいくらでもつけられる。世の中、完璧な人間がいるわけがないし、万が一完璧だったとしても、今度はそれが「自分を見下している」とかなんとか、理屈なら10でも20でも、いくらでもつけられる。
そして、「こういう人間はいじめられる」というパターンの大いなる偏見。教育やいじめ問題を研究している専門家たちですら、もっともらしくいろいろあげる。現実には、いつも誰かが順繰りにいじめられていて、その人間がいなくなったら代わりの人間を探す。要は誰でもいいのだ。ストレスをぶつけられる相手なら。

本人の思いこみもある?そう、それこそがつよ〜い思いこみ。
学校の先生がなぜ、いじめに気付かないのか。大きな原因のひとつに、この思いこみがある。うちのクラスに限って、いじめがあるはずがない。あんな勉強ができて、親や教師の言うことをよくきく良い子が、いじめるわけがない。みんなが寄ってたかって、理由もなく一人をいじめるなんて考えられない。
見たくないものを見ようとはしない。だから、自分の目の前でいじめが起こっていても気付かない。遊んでいるだけ。ふざけているだけ。それにほら、いじめられている人間だって笑っている。

いじめられている人間の気持ちなんて、けっしてわかろうとしない。泣き顔を見せれば、いじめはさらにエスカレートするから、そして何より、笑ってでもいなければ自分があまりにみじめになるから、無理して笑う。道化師になることで、演技することで、みじめな自分を切り離す。「平気だよ、このくらい。耐えられる」自分にウソをつく。そうしなければ、これ以上、耐えられないと思うから。
もっとも、もしもみんなの前で暗い顔をしていたら、「ほら、暗い性格の子はいじめられるのよ」。なぜ、暗くなったのか、考えもせず、そう思う。
生徒が訴えにきても、「あなたの思い過ごしじゃないの?」「あなたにいじめられる理由があるんじゃないの?」「気にするな」と、いじめる側の性格の問題や心の持ちようの問題にしてしまう。生徒の気持ちに寄り添うことがない。
生徒は二度と教師には、あるいは、大人には相談しようとは思わなくなる。

文部省がしきりに導入を進めている学校カウンセラーにしてもそうだ。本当はいじめる側に問題があるのに、いじめられる側の心のありようばかりを問題にする。まるで、そのひとの心の持ちよう次第で、いじめが解決するかのように。いじめは、単なる被害者意識の妄想の現れだと言わんばかり。いじめられる側の努力が足りないと言わんばかりだ。

「強じんな精神をもつ重要性」とはなんだろう。世の中をよくする努力より、どんどん悪くなる世の中にあわせて、叩かれ強くなれということだろうか。
いじめられて傷つくのは、ましてや自殺するのは、弱い精神の持ち主だということだろうか。
いじめる人間と、いじめられる人間、そしてそれを見ている人間。一番心が弱いのは誰?いじめる人間や傍観者は、いじめられる人間より強じんな精神を持っているとでも言うのだろうか。誰にも相談できず、ひとりで黙って耐えている子どもたちは、弱い精神の持ち主だろうか。
いじめられている友だちをかばったことがきっかけでいじめが始まることが実際によくある。けっして、弱いからいじめられるわけではない。一対一なら勝てても、相手の数が多ければ負ける。逆らったために集団リンチのあげく殺された子どもたちがたくさんいる。強さは、現代のいじめを解決するキーワードにはならない。

弱い人間が強くなるいちばん手っ取り早い方法が武器を持つことだ。少年たちは、自衛のためと称してナイフを持ち歩く。いじめる相手をけん制するためにナイフをちらつかせる。自分のほうが強いんだということを相手に示すためにナイフを使用する。刺してしまう。
いじめられている子どもたちに強さを要求すれば、果ては殺し合いになる。強いものが弱いものを支配できるのなら、子どもたちは武器を携えて、大人たちに支配されまいとするだろう。

競争に勝ち抜いていけばいじめられない?そうやって、常に勝ち抜いていかなねばならない。強くならねばならない。息をつく間もなく歩き続けねばらない。こうしたいくつもの「ねばならない」が子どもたちの心にストレスとなって、いじめや“良い子が突然キレる”という現象になるのではないだろうか。達成しつづけることの苦しさと、達成できないことから来る挫折感。どちらも子どもたちを苦しめる。
もうこれ以上、子どもたちを鋳型にはめようとするのは、やめにしたい。

「どんなに強い人間がいようと、そして、どんな理由があろうと、いじめはいけないんだ」大人たちが断固と示さなければ、子どもたちには、絶対に伝わらない。
こういう理由なら、ああいう理由ならと、大人たちが子どもたちに逃げ道を示してはいけない。
ましてや政治を担う人間や、教育に携わるものが、いじめを容認してはいけない。

いじめがなくならないのは、大人たちの努力が足りないせいだ。昔からあったから、どこへ行ってもあるから、いじめられる経験も人を強くする経験になるから、そんな理由をつけて本気で取り組まないからだ。
「仕方ない」「仕方ない」と理由づけしているうちは、絶対にいじめはなくならない。子どもたちを先導しているのは、大人たちの考え方だ。大人たちが考え方を変えない限り、いじめはなくならない。増え続けるだろう。

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