子どものことを考える図書・資料コーナーにも、横川和夫氏の「仮面の家」を簡単に紹介した。
本書の中心は、1992年6月4日の、高校教師の父親と母親が共謀して、家庭内暴力を奮う長男を刺殺した事件のルポルタージュだ。いろんな側面から分析されている。しかし、この事例以上に、同じような状況に追い込まれながらも、息子を殺さずにすんだ、あるいは息子に殺されずにすんだ比較対照事例「ある夫婦の軌跡」は、非常に興味深い。
小さいときからずっと、いわゆる「いい子」だった息子が中学3年生になって、突然、母親と口をきかないなど、変化し始める。高校2年の3月に家出。4月には「下宿をしたい」と言ってひとり住まいを始める。そして、登校拒否と引きこもり。「音が絶対に入ってこない静かなコンクリートの部屋を作って欲しい」と言い出した息子を心配して、両親は思春期問題の権威のある病院に相談に行く。医師からは、「重傷の分裂病だ」「強制入院の方法を考えましょう」「電気ショックをやります」と言われ、別の病院でも、「それは分裂病で、もう自分では手に負えない段階に入っている。保健所と連絡をとるように」と言われる。しかし、保健所で紹介されたグループカウンセリングのメンバーの紹介で相談に行った先で、カウンセラーに「分裂病ではなく、思春期の問題です」と始めて言われ、母親への依存から自立しようとする「脱愛着行動」だと説明を受ける。
夫婦の面接を通して、家庭に巣くう病理をカウンセラーは読み解いていく。そして、今後さらに長男の行動がエスカレートすることも予言する。言葉通りに異様な事件が続く。激しくなる家庭内暴力。ついには、母親のベッドに包丁を突き立てることも。しかし、その意味するところをカウンセラーから教えられた夫婦はじっとガマンする。夫婦間のあり方を改善しながら、親子の期待のあり方を変えていく。母親は子どもに嫌われることを覚悟し、子どもが親から離れて自立できたとき、初めて、親子の関係が改善されていった。
私自身はどちらかというと、カウンセリングに対してある種の不信感がある。(いつか、そのことについて述べたいと思う)
上記の高校教師が息子を刺殺した事件でも、相談に行った先のクリニックで、「こういう人は自我が確立できないまま大人になってしまった。治療が難しく、このままいけば、お気の毒ですが、悲惨な生涯になります」と言われ、「退却神経症」ではないかと診断されている。
同じように、1996年11月6日、2年間にわたり家庭内暴力を繰り返した長男(中3・14)を父親(52)が金属バットで数回殴ったうえ、縄跳びのひもで首をしめて殺害した事件(1998/4東京地裁が懲役3年の実刑判決)でも、カウンセラーの助言のあり方が問題にされた。
また、今年、2000年5月3日から4日にかけて、福岡県で高速バスを乗っ取った事件では、少年(17)は、家庭内暴力から両親に精神病院に入所させられたことを恨んでいた。そして、2000年6月5日、千葉県富里町で、会社員の父(56)と母(42)が、家庭内暴力に悩み、このままでは、自分たちが殺されたり、バスジャックのような事件を起こしかねないとして、就寝中の長男(高1・15)の首を縄跳びで締め殺害している。この両親も学校カウンセラーなどに相談していたという。
これらの事件を見ていると、今のカウンセリング万能感を疑問に感じる。専門家たちの言葉がむしろ、必要以上に親たちを追いつめ、事件を悲劇的なものにしたのではないかとさえ思える。
しかし一方で、この「ある夫婦の軌跡」で紹介された遠藤優子先生のようなカウンセラーに、もしも巡り会えていたら、悲劇は起こらなかったかもしれないと期待させる。玉石混淆のなかで、いいカウンセラーに巡り会うことができたなら、ひとが苦難を乗り越えるときの助けになるかもしれないと思い始める。
2000年11月15日には広島県甲奴町で、会社員の父親(50)が、「高校生ぐらいの子が大事件を起こすのをテレビなどで見て、娘も事件を起こすのではと心配になり、その前に一緒に死のうと」、中学時代より親に反抗的になり、服装の乱れが目立ち始めた娘(高2・18)を絞殺している。これなどはまるで、子どもたちの間にしばしば起きる自殺の連鎖反応、集団ヒステリーみたいなものだ。父親がもう少し冷静でいられたら、あるいは、第三者の適切な助言があれば、悲劇は防げたのではないかと残念に思えてならない。
このカウンセラーは、子どもの反抗は自然なこと、自立するうえで必要なこととして捉え、けっして病気だと決めつけない。問題行動の裏にある心理を読み解くことによって、適切な対処法を提示していく。感情を無理に押さえ込んだり、歪めたりせずに、本来、少しずつ吐き出されるはずのものが一気に吹き出すことを仕方なしとする。むしろ当然のことと受け止める。正しく導かれることで、親の不安は解消されて、子どもの激しい行動に耐えうる力が沸いてくる。ただ、現象としてのすさまじさは、男の子の反抗とは、これほどのものなのかと思わせられる。
どれだけ多くの家庭が今、この問題に悩んでいることだろう。出口を見いだせないなかで、不安を抱えていることだろう。
子どもの家庭内暴力に悩む親たちに、ぜひ一読を勧めたい。
「家庭内暴力」という言葉から、私はいつも、昔観た映画「キタキツネ物語」(だったと思う)を連想する。
子別れの儀式のすさまじさ。親と子が命がけで勝敗を決める。負けたほうは、その土地から出ていかなければならない。子どもには、どこかまだ甘えがあるが、親は必死だ。そうやって、子を旅立たせ、子は自立して行く。
私には、この親子対決のシーンと子どもの親への反抗が重なって見える。
人間にもまだ、多少、野生というか、本能が残っているのかもしれない。思春期そのものが、ある面で野生の目覚めである気がする。わけもなく、わき上がってくる心のモヤモヤ。14歳から17歳。男の子の場合、性的なピークと動物的な本能とが連動して、より強く現れるのではないだろうか。親の庇護を離れて自立しなけば、女性を獲得できないと本能が教える。
一方で、大人たちは社会に順応しすぎて、すっかり本能をなくしている。経済力があれば、子別れの必要性を感じない。子にしがみつき、縛り付けようとする。
人間は自分たちが思っているほど、理屈だけでは動けない。ロボットにはなれない。奥底に秘めた本当の心が、理性の決めた行動についていけなくなったとき、そのきしみが自覚のないまま、様々な心の病、問題行動となって現れる。
そして、さらにそれをこじらせ、複雑なものにしているのが、社会通念や精神科医の言葉ではないか。押さえられてきただけに吹き出す自立へのエネルギー。そして、それに耐えきれない親たち。
人間が人間であることを認める。人間らしさをとりもどす。生き物として、根本的なもの、大切なものは何かを見つめ直すことで、今の子どもたちの心のゆがみ、親子の、家族のゆがみが是正されるのではないだろうか。
しかし、時代はさらに、非人間的、非動物的な方向へ、人をロボット化する方向へと動いている。そして、子どもたちの心の叫びをただ押さえつけることにのみ力を使う。
方向性が間違っている。このままでは解決できない。事態はさらに悪くなる。そんな危惧をいだく。
生産活動、経済のみを優先させた社会に人間がこき使われる。昼も夜もない労働。必要なゆとりさえ、無駄な時間として切り捨てられていく。もうこれ以上耐えられないときしみをあげているのは、何も子どもたちばかりではない。そして、大人たちの心のひずみは、子どもたちに悪影響を与える。雪だるま式の悪循環がとまらない。
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