「少年はなぜ人を殺せたか」(2000/10/20発行 宝島社)のなか、藤井誠二さんの「更正施設の矯正プログラム、そのベールを剥ぐ!」に、「役割交換書簡法」(ロールレタリング)というのが紹介されている。「加害少年自身が被害者の立場に立って、あるいは被害者の家族の立場に立って、自分にまず手紙を書く。それに対して、自分がその被害者や家族に対して返事を書き、さらに被害者や家族の気持ちを考え抜いて返事を書く。それを何度も繰り返し、自分の内面を探っていく」方法で、ほとんどの少年院で実施されているという。
これは、少年院にいる子どもたちだけでなく、学校にいる子どもたちにも有効な方法ではないだろうか。
いじめられて自殺した子どもに対して、ほとんどの学校が、「お別れの手紙」だとか「追悼文」だとかの名前で作文を書かせる。理由はいくつかあるだろう。アンケートよりソフトに、子どもたちから情報を引き出す方法として。遺族に対して一応、「みんなこんなに悲しんでいます」と形に表すため。
ところが集めてみれば、なかにはもちろん反省したり、悲しんだりする子どもたちもいるものの、意外にあっけらかんとしている。加害者にさえ罪の意識がまるでない。それから、先生も知っていただのと、遺族には知られてはまずい内容がぼろぼろと出てくる。「これはまずい」ということで、学校は子どもたちのプライバシーを盾に、遺族にひた隠しにする。(それでも、マスコミに出たりするのは、学校もこれだけ一生懸命、原因究明に向けてやっていますというのを他に見せることができないからか)
遺族が「作文」にこだわるのは、その全くの罪の意識のなさから逆に、真実が見えてくるのではないかと思うからだ。数十名、数百名の自筆の作文ともなれば、とても先生たちが統制しきれるものではないから、改ざんされにくいものだから、学校の本当の姿が見えてきやすい。
子どもたちが作文を通して見つめるのは、自分の気持ちだけ。死んでいった相手にさえ、自分の気持ちをぶつけることしか知らない。だから、「チャオ、そっちはどう?」「いじめたからって、何も死ぬことはないじゃないか」と平気で書いてくる。自分たちがしでかしたことによって、どれだけ相手が追いつめられていったか、無念の死を遂げなければならなかったのかに思いが至らない。
だから、本当に必要なのは、死んだ子どもの身になって手紙を書くこと。もう、表現することの叶わない相手に代わって、想像で書く。相手の気持ちに対する想像力に欠けていたから、いじめが起きた。平気で人が殺せたのだから、補うべきは想像力だろう。
本来ならば、小さいときの遊びのなかで、身につけるべきこと。たたいたり、たたかれたりして、自分が痛いと思うことは、相手も痛いんだと、驚きとともに実感として知る。そうした学びをしてこなかった子どもたちには、相手の身になって考えるというプログラムが必要だと思う。
それが、ほんとうの「心の教育」というものではないだろうか?道徳の教科書上でいくら模範解答が出せても、現実に生きている人間の心が読みとれないのでは意味がない。
そして、子どもたちだけでなく、先生たちにも手紙を書いてほしい。被害者の親の立場で、学校にあてて。
その時に果たして、「死んでしまったけれど、子どもがお世話になりました。ありがとうございます」と書けるかどうか。子どもの死の状況を知らされない親が、学校の中でおきたできごと、子どもがなぜ死ななければならなかったか、原因と思われる事柄を何一つ知らされない親が、それでも納得できるかどうかよく考えてほしい。先生たちは知っているのに、自分たちだけが知らされない。我が身の分身ともいうべき、子どものことなのに、赤の他人が知っていて、身内が知らされない。そんなことに納得がいくかどう考えて欲しい。
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