2000/11/23 | 戸塚大地くんの裁判(12/14)の傍聴支援をお願いします | |
体育の授業中、跳び箱から落下し、第4頸椎を骨折、中学3年生14歳で亡くなった大地くん。もしも、学校の先生方にその死の悲しみをご両親と共有し、二度とこのような事故を繰り返さないための再発防止策がとられていたとしたら、裁判にはきっとならなかったでしょう。 ご両親は、この裁判を始めた理由を、 1.事故の状況の事実を親に知らされなかったこと。説明がなかったこと。 2.授業中の事故であったにもかかわらず、一方的に息子に責任を押しつけられたこと。 3.教育の現場、行政側の「命」に対する気持ちがあまりにも希薄であったこと。 4.死に至る事故であったにもかかわらず、そのことをケース・スタディのような形で生かされなかったこと。 等をあげています。 いじめで生徒が自殺しても、学校は、その死を悼み、なぜ死ななければならなかったのかを検証し、二度と再び同じ悲劇が繰り返されないよう防止策を考えることよりも、生徒の死を学校の管理下における汚点とし、ひたすら事実を隠すことで、自分たちへの責任追求を回避しようとする。そのことにのみエネルギーを注ぐ。同じ現象が学校内の事故においても、おこっています。 生徒が死んで、真っ先に連絡した先は家族ではなく、教育委員会だった。遺体が火葬されるまで死因について一切、遺族はしらされなかった。目撃した生徒たちに箝口令が敷かれた。言質をとられることを恐れて、一切の謝罪の言葉がない、死んだ生徒の過失部分だけを言い募る。死を持ってしても生かされるかとのなかった教訓、またどこかで同じ事故がおきて若い命が犠牲になる。そんな例が掃いて捨てるほどあるのです。 「死んだ人間に人権はない」と言い切る学校・教育委員会に、生きている人間に対する人権意識が果たしてどれほどあるのでしょうか。 事故死した子どもの遺族が声をあげることは、とても勇気がいることです。なぜなら、周囲の理解が得られにくいからです。「事故=仕方ない」という意識が私たちの頭の中にあって、罪のない第三者に責任を転嫁している、賠償金目当てではないかと勘ぐられるからです。他人の非を責めないのが美徳という風潮も根強くあります。「死んだ人間は生き返らない」「そんなことをして何になるの」という声が聞こえます。 しかし、安全と信じて、我が子を学校に預けていたのです。そこで何があって、死ななければならなかったのか、親には知る権利があっていいはずです。尊い命が損なわれたのです。人間として、共に悲しむのは当たり前の感情ではないでしょうか。それを、子どもたちが動揺するといけないからと、悲しみを共有する前に、忘却を強いる学校のやり方。自分たちの正当性を強調するために、亡くなった生徒のことを悪く言う先生たち。そして何より、一度おきた事故は、再び起きる可能性が高いのです。このまま放置されて、新たな犠牲者が出たら、亡くなった子どもは無駄死にになってしまうのです。 残された親ができることは、たとえどんなに辛くても、どういう状況下で事故がおきたのか事実を知ること。子どもの名誉を回復してやること。その死を教訓として、同じ悲劇を他の誰にも味あわせないようにすること。そして、その存在を忘れず、胸に抱き続けること。それだけです。 生きていれば、もっともっと、いろいろしてあげることができたでしょう。そのお金も労力も全てをかけて、裁判を闘います。死んでしまった我が子には、これしかしてあげられないから。他の誰もしてくれない、親にしか、してやれないことだから。今からでもいい。戸塚大地くんのことを知ってください。その死を悼んで下さい。死の悲しみを共有することのない、「命」の尊さを子どもたちに教えることのできない、学校という場の問題点を共に考えていきたいと思います。 裁判を起こしたくて起こした遺族の方を私は知りません。「この方法しか残されていなかった」とみな、口を揃えて言います。そのことの問題点を私たちはもっと深く考える必要があるでしょう。 |
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