哀れなブラジルの子どもたち
crianca noticia 14より
(Movimento Republica de Emaus)

翻訳:冨田 洋平



貧しさとは、絶望と対をなす言葉でしかないのでしょうか。貧しさと言う言葉の意味を、どんな風に考えたらよいのでしょうか。ブラジル、ベレンで活動しているNGO「Movimento Republica de Emaus」発行の季刊誌「crianca noticia」の記事の中にヒントが隠されているかもしれません。



もし私たちがブラジルを詩ったとき
貧しさという言葉に対し
韻を踏む言葉はどんな言葉だろう

貧困  放棄  最低給料
ドラッグ  栄養失調  暴力
文盲  麻薬の密売  失業
医療ケアの不足  奴隷労働  売春
サバイバル


 でも、コントラストの点からいえば、富かも知れない。IBGE(ブラジル統計院)とUNICEFは3月に、1980から91年にかけて行われた調査結果を発表した。これによると、ブラジルの子どもたちはより貧しくなっている。それは最低給料以下の収入しかない家庭の子どもたちの数が増加していることで明らかである。ブラジルは世界で63番目に貧しい国なのである。

 今回の調査でも、北部および北東部地方における貧しさが際立っていたが、子どもたちの貧困化傾向は全ての地方においてみられ、彼らは家計を補うために学業を放棄せざるをえなくなっている。ブラジルの貧しさは具象詩なのだ。

 新聞の調査報告関連記事がデータの分析をあまりせず、単に数字の羅列に終わってしまったのが悔やまれる。ほとんどの新聞が同一通信社の記事を、一字一句変えることなくそのまま転載し、異なっていたのは写真のみというありさまであった。数字だらけの記事は読者を疲れさせるものである。また数字だけでは何の感動も生み出せない。解説があってこそ、読者の反省を促すものである。ピアウイ州テレジーナ市の児童人口の62.5%とは何を意味しているのか。それは1991年度において、テレジーナ市の子どもたちの親の半数がわずか最低給料の2倍の収入しかえられなかった事を示している。それで子どもたちは?路上にいたのか?学校?それとも安価な労働力として搾取されていたのか?つまり、数字の擬人化が必要なのだ。

 では反省タイム。歓びは貧しさと韻を踏めるだろうか?

 貧しい子供たちとその家族の事を語るとき、なぜ私たちは重苦しい気分になるのか。貧しさに関連した現実の多くは、我々を元気づけるものではないのは明らかである。なぜならば、貧しさの定義は歓びの不在と重複するからである。

 中産階級にとって貧しさとは恐ろしい魔物なのだ。資本主義が理想的な社会を形成できずに更にもう1世紀を費やそうとしている今日では尚更である。失業者の存在は、資本家が労働の搾取すらできなかった証である。利益もなく、銀行が倒産するような社会なぞ受け入れる事ができようか。

 どうやら悲しさも貧しさと韻を踏む運命にあるようだ。中産階級の潜在意識にある貧困感も同様であろう。貧しさとは街角に潜む三頭の魔物、すなわち、汚れ、無知、悪臭。

 しかし、である。貧しさは希望とも韻を踏む事もできるのだ。もし政府がこの問題を無視せず、信頼できるまじめな機関が人々の自尊心を呼び起こさせることができれば。ブラジルで今不足しているものはまさしくこれなのである。自尊心は市民権、自立、文化とも韻を踏むものである。

 なんで夢物語を長々と、と誤解される前に本題に入る事にしよう。統計的な数字を否定することなく、現実を軽視することなくオ・グローボ紙に掲載された繊細かつ聡明な記事が、貧しさと韻を踏む事のできる素晴らしい言葉を見つける手助けをしてくれるであろう。

 新聞に載った2ページの記事、“アスファルトの花”は先入観というものを覆してくれる。おもてはグスターボ・ステファンが撮った、リオの養護施設の二人の貧しい少女。彼女たちは素顔で(美しい)、目を覆う黒い帯もなく、頭文字だけでなく実名で紹介されている。ページをめくると、内容を的確に凝縮したタイトル、サブタイトルがある。“見栄も、レイション(注:政府が貧しい人に支給する基本食料品)の仲間入り―少女達は泥棒や乞食に間違われないよう、外見に気を使っている”

「貧しさと見栄は相容れうるかの問題ではない。見栄は無用ものどころかレイションの一つとなりうるのだ・・・歩行者が、意識的に攻撃的な態度を取る少女達と出会えば、恐怖感を抱くのは当然である。狙いは反対の態度を取れば効果がある事を教える事であった。つまりより女性的であるほど社会に参加できるのである」

 貧しさは欲望を疎外するものではない。欲望の実現の障害となる事は当然だが、自尊心を持てば潜在的に信念を得、人種差別(少女達の多くが黒人である)など、貧しいがゆえに倍の重さで圧し掛かってくる諸々の偽善的価値に打ち勝つことができるのだ。もし人が自分自身を楽観視できれば隠れみのや仮面など使わなくとも世に存在できるのである。“少女である事”“もしこの道が私のものなら”両プロジェクトで少女達はこうした事を教わっている。

「あたいが汚かったら、みんなにドロボーって言われる。きれいになった方が、みんな怖がらずにあたいに寄ってくるから、その方がいいもん。マクドナルドのお姉さんはあたいを嫌ってたけどお話するようになったの」

 15さいのアーナ・ネリーはその秘訣を明かしてくれる。リップスティック、シャンプー、香水、ファンデーション、それに青いマニュキア。

 18さいのマグレッチ・ロペスはFORD(ブラジルの一流モデルスクール)に通っている。他の生徒からは差別されたが、先生に励まされたと語ってくれた。

「クラスメートはあたいが止めればいいと思っているけど、絶対止めないから」

 ここに紹介したのはプロジェクトのごく一部でしかない。プロジェクトが目指しているのは、ファベーラを黄色に塗れば都市の美化につながるとしたあの天才的な現状の化粧政策と事なり、今まで世の中に自分という人間が存在していた事すら知らなかった人々に、“人”を取り戻す事なのだ。




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