本誌発行の一週間前に、淳君事件の容疑者として中3男子が逮捕されました。加害者が少年であったという事実に、みなさんも大きな衝撃を受けられたことと思います。しかし、その後の経緯が、この犯罪を引き起こしたのが他ならぬ私たちおとなではないのかという、深い自省を求められることになったのではないかと私は思うのです。
事件後、初めての登校日に、友が丘中学校校長は全校集会で「教育的配慮」を理由に、事件に関していっさい触れなかったそうです。「教育的配慮」とはいったい何なのでしょうか。テレビや新聞であれだけ大きく報道されていたにもかかわらず、なぜ「事件と向かい合うよう」子どもたちに話をすることができなかったのでしょうか。子どもたちはそれほど「愚か」なのでしょうか。そして生徒たちは校長先生の「命の大切さ」という話を、どんな風に受け取ったのでしょう。また、テレビのワイドショウでは、沈痛な表情をつくったリポーターやゲストたちが、事件の解説を行っています。テレビカメラのスイッチが切られた瞬間、リポーターの人たちはどんな表情に戻るのでしょう。子どもたちはこんなおとなのことを、どう感じているのでしょう。おとなの仮面の部分しか見ることのできない子どもたちは、心の中を閉じこめてしまっているのではないか、そんな風に思えて仕方がないのです。「あいつらおとなは、いつもこうだよ」そんな子どもたちの声が聞こえてくるような気がします。
容疑者の少年が逮捕される以前から、同級生のなかでは、「あいつがやったんじゃぁないか」という噂が流れていたそうです。しかし子どもたちは親を含めたおとなに、直接そのことを伝えてはいません。それは何を意味しているのでしょう。
ブラジルでも、裁判所の判事の息子を含む少年たちが、インディオのリーダーを焼き殺すという事件が起こっています。子どもたちと、大人との間にできてしまっている、大きな隔壁を私たちはほんとうに気づいているのでしょうか。
淳君事件の容疑者の少年や、ブラジリアでの事件の容疑者の少年。彼等の「心の貧しさ」。そのことを第三者の視点で見ていられるほど、わたしたちは「善良」なのでしょうか。私たちの中の「心の貧しさ」を見つめ直さない限り、子どもたちとの意識をつなぐ回路は、回復することは出来ないのではないかと思うのです。
淳君事件や、ブラジリアでの事件を皆さんはどう受け止められたでしょう。よろしかったら皆さんが感じられたことをお寄せ下さい。「子どもの世界」と「おとなの世界」。その関係の在り方を、「プラッサ(ひろば)」で考えていきたいと思っています。
(小池)
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