アマゾン・シングーの旅

熱帯雨林保護団体  南 研子



'89年5月、イギリスの歌手スティングが“アマゾンを救え”という旗を掲げ世界16ヶ国を行脚しました。アジアで唯一の訪問国が日本でその際、このワールドキャンペーンツァーのほんのちょっとしたお手伝いがその後の私の人生を大幅に変える事になろうとは・・・



 その一行の中にアマゾン・カヤポ族の大リーダー、ラオーニがいました。私はそれまで誤てる認識の下、アマゾンはアフリカにあり、アマゾン川はナイル川と平行して流れているのかなあ・・・。ただアマゾンという響きは妙に耳に心地好く、三次元的な生々しさがない異次元空間のような神秘性を感じていました。本物のジャングルの化神のようなラオーニの前に始めて立った時、不思議と彼の背後から森の鳥やヒョウの鳴き声、そして風の匂いを感じ「こんな素敵な人がまだ地球上にいたんだ。この人たちが困っているなら一肌ぬいでもいいぞ」という想いにかられこの活動を日本でも始めることにしました。

 '92年、ブラジル、グローバルフォーラムの後、現場シングーに初めて入りました。マトグロッソ州とパラ州に掛かる18万・(日本の国土の約半分)の広大な面積に、約20部族、2万人近いインディオと呼ばれる先住民の人々が暮らしています。シングーは外部との初接触が約40年前とまだ日が浅いことと、セルタニスタといわれる接触官であったヴィラス・ボアス3兄弟がキリスト教を持ち込まなかったことが幸いし、未だに独自の文化を継承し、貨幣経済も導入していないブラジルインディオ社会でも特殊な地域です。

 未来都市のような味気無いブラジリアから夜行バスに乗り17時間。開拓の町カナラナに着き、又そこからスピードメーターも車の鍵穴も壊れたようなオンボロトラックに揺られる事6時間。やっとシングー川の源流に近いクルエニに着いたぞー。小さなアルミボートに25馬力のエンジンを付け、ガソリン、オイルetc.を積み込み5時間川を下り初めてインディオの集落タングルにやっと到着。ブラジリアを出発して3日目でした。

 シングーの人々の暮しは、集落によっては耕作もしていますが、主に狩猟採集でその日暮し。お金を稼ぐ必要性が無いので人々ものんびりおおらかで平和です。金持ちも貧乏も権威も地位も名誉も無用。集落は円形に十数軒建ち並び、マローカと呼ばれる日本のわらぶき農家に似た大きな家に血縁の人達が20人近く住み、必ず村の中央に“男の小屋”が建っていて政事をここで行います。村人は300人程度でそれ以上になると他へ新たな村を作ります。一集落に長老一人とパジェと呼ばれる呪術師二人位が存在し集落を守っています。集団と個の絆は堅く小さな国家が形成され全てがこの世界で展開され、解決されます。

 クイクル族の集落にいた時の事、通常私はこの地に入ると村人と同じ生活を心掛けます。長老のお宅におじゃまして、川の水を飲み出されたものを食べます。主食はマンジョーカ芋のセンベイ状のもの。おかずのメニューは、“猿のそのまんまゆで”“羽アリの踊りぐい”“亀の姿焼き”その他ピラニア、パク、ピラルク等のおいしい魚。しかし長いジャングル暮し、アメの一つも食べたくなりポケットに忍ばせ多少の罪の意識はあるもののこっそり口にします。人が居ない所でアメを口にほうり込んだ瞬間なんと3人の女の子達に見られていました。ツカツカと近くに来て私の口をジーっと注目。照れかくしにポケットに手を入れると一つしかアメは無い。まあいいか後で二人にあげればと、いちばん身近な子に渡すとその子はポンと口にいれ3ツに割って他の2人にあげました。己れのいやしさ、恥ずかしさを悔いることしきり。彼等は何でも平等に分けるという習慣があり、あたり前のことなのでしょうがただただ感心するばかり。シングーの人達は自分の子どもだけでなく他人の子のめんどうも良くみます。又、年端もいかぬ子がもっと小さな子どもの遊び相手になっています。苛酷な自然との共生ではお互いが本気で助け合っていかなければならないのでしょう。

 私はいつでも紙とエンピツを持参します。どの集落でも子ども達の興味の対象となりそばから離れません。紙を出して色々な絵をかきこれは何というのというと一斉に答えが返ってきます。言葉が解らなくても十分にコミュニケーションはとれます。私が疲れたなぁ…っとちょっとでも思うと年長の子が他の子ども達を促し離れていきます。そのタイミングの絶妙なこと。ハンモックにゆられて一眠り。目が醒めて何と静かなこと、と思いきや遠まきに何十人の子ども達が息をひそめて私の目ざめを待っていたのです。それでも近づいては来ません。手まねきをするとサーとかけ寄り遊びの続きでワイワイ、ガヤガヤ。

 又、私が一人でジャングルに入った時、2・位後ろから一人の男の子がついて来ました。小さな湖に丸太が橋代わりにかかり、その幅10・位。カメラを肩にバランスを崩しそうになった時その子がかけ寄りまずカメラをよこせというしぐさ。渡すと次に自分の手を取れというので手を握ると向こう岸まで慎重に私をエスコートしてくれました。この時も感動。十分立派なナイト役を務めてくれました。

 カピバラ村である時きれいなランの花が一輪咲いていたのでジーと見とれていると6才位の男の子が私の手をグイグイ引っぱってどこかに連れて行こうとします。彼は口と耳が不自由でしたが、されるがままについて行くとそこにはなんとランの花が一面咲き乱れていました。感激する私を彼は得意顔で見ています。そしてジェスチャーで何やら私に云いたい様子。同じ事を何度も繰り返し、やっと意味がわかってきました。人はお日様と共に起き、行動し、日没と共に休む。それを何回も重ね死ぬ。それが幸せでそしてここには全てがある。と・・・。なるほど意味が深い。教えられることばかり。一集落に2人位は何らかの障害を持った子どもがいますがそれはあくまで個性としてとらえ、区別はあっても差別はありません。当然いじめも自殺も皆無。この地に10回近く通っていつも思うことはここは龍宮城だなあ・・・と。子ども達は私達の世界のようなおもちゃは何一つありません。しかし目は輝き生き生きとし、この自然で生きていく知恵を親からきちんと習っています。マッチが無く火をおこせず泣きべそをかいていた私に手際よく火を付けお湯をわかしてくれたカマユラ族の4才ぐらいの可愛い女の子。お礼にビスケットをあげたら自分用の小さなヒョウタンで出来たスープを恥ずかしそうにくれたあの笑顔。“今度はいつ帰ってくるの”と親にはぐれたヒョウの赤ちゃんを育てていたチカウン族のアレイちゃんの真剣な顔。一人一人をギューと抱きしめたくなるような子ども達がシングーにはいます。

 大人の社会が調和し平和であれば子ども達にも反映し、まさに大人の鏡が子どもの世界。しかし、この楽園も少しずつ文明の波が押し寄せ、数年後には“お金”が入ってくる事が確実に予測出来ます。既に外部から不法侵入者が持ち込んだ病気(肺結核、はしか、インフルエンザetc.)で沢山の子ども達が今年になって死んでいます。緊急支援をインディオリーダー達がブラジル政府に求めましたが予算不足を理由に何の対応策もこうじず最近SOSがシングーリーダー達から当団体へ入ってきました。外部の病気に免疫のない彼等がこのような菌に感染したらひとたまりもありません。加えて医薬品不足の現状。「あの子は無事だろうか?この子は大丈夫だろうか?」日々子ども達の顔が浮かびます。「白人の病で我々が死んでも恨まないが白人は嫌いだ。」ある部族の長老の言葉を思い出します。私はインディオの子ども達がこのブラジル社会で最下層に従属することだけは回避したく、せめて共生の道を選択出来る状況に至るまで何らかのお手伝いを続けていくつもりです。




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