最善を私はえらぶことはできない。最善が私をえらんでくれるのだ。─ タゴール
入院当初は、骨髄移植は考えていないとのことでしたが、ある日突然夫と私は主治医の先生に呼ばれ、「海斗くんに末梢血幹細胞移植を考えています」と告げられました。
末梢血幹細胞移植というのは、自家移植(ドナーを必要とせず、自分自身の細胞を採取して移植を行うもの。拒絶反応や、GVHD―移植片対宿主病―の心配はない)の一種で、ある特定の治療の後にのみ、末梢血中に出現する造血幹細胞(血液成分の元になる細胞)を、特殊な機械で採取し、移植に使うという方法です。急に決まったのは、幹細胞を採取する機械が病院に入ったこと、病院で始めてその移植を受けた女の子の経過が極めて良好であることなどから、治りにくい型の海斗にも受けさせた方がいいと、病院側が判断した―といったところではないでしょうか。夫と私は少しとまどいましたが、迷うことはなくお任せすることにしました。
移植をするにはまず、胸の静脈に、カテーテルという細い管を通す手術をしなければなりません。全身麻酔なので痛くはありませんが、子どもにとっては少々緊張を強いられる処置です。息子は、わりとそれまで、大人っぽく聞き分けの良い部類に属する子どもだったので、先生方も軽く考えていたようですが、実際、マスクと手袋に身を固めた数人の先生に囲まれて、ズシンと閉まる重い扉の手術室に入り、意識を奪われて何かをされる―という初めての経験にすっかりおじけづいた息子は、麻酔が醒めた時点で半狂乱になり、まず担当の看護婦さんが呼ばれ、次に私が呼ばれ、それでも落ち着かずに夜まで泣き叫び続けました。けれども先生が、「海斗くんは、本当はこわかったのに平静を装っていたんですね。麻酔が醒めきらないので本心が出たんでしょう。将来、お酒に酔ったとき、本心が出て暴れるタイプかもしれませんよ」と言って笑って下さったので、少しほっとしました。「将来」という言葉が有難かったのです。
その後、2、3日息子は、首から胸のあたりがつっぱたような不自由なかんじで動き回り、「ボクの病気、もう治らないんじゃないかな」などと弱気になっていましたが、その状態にもすぐに慣れてしまいました。
そして何ヶ月間か、十回位に分けて幹細胞を採取し、ようやく移植用の個室に入ったのが十月の初旬。入院してから実に一年以上も経っていました。
完全な無菌状態に消毒された部屋。おもちゃなど、持ち込むものも全て消毒されます。部屋に入る全ての人は、手を消毒し、靴を履き替え、割烹着のような白衣と、ヘアーキャップとマスクをつけなければなりません。(男性の先生も例外ではないので、結構オモシロイ)これをA級隔離と呼んでいました。通常治療後の感染防止のための、二人部屋のB級隔離とはレベルが違います。友だちとも遊べず不自由も多いので、その分、テレビ一台独り占め、ビデオ付き、ファミコン持ち込みOKなどの特典もつきます。
海斗の場合は、まず九日間、抗ガン剤の超大量投与を受けました。これは致死量と言われる量です。抗ガン剤は、言うまでもなく一種の「劇薬」です。それを通常の何倍も、一気に投与するのですから、骨髄は完全に破壊され、体もある程度参ってくる。身体を一巡りした抗ガン剤は、逸早く大量の点滴によって体外に出され、身体への影響をなるべく少なくするように取り計らわれます。
幸い息子の場合、抗ガン剤の副作用による吐き気が出たのは、最終日九日目になってからでした。あまりの吐き気に、「こんなに吐くんじゃあ、ボク移植は無理だと思う」などと言い出すので笑えます。「残念でした。治療は今日で終わりですっ」
その後、カラになった骨髄に、新しい造血幹細胞を何日かに分けて入れ、それが定着し、造血機能を発揮し、血が増えてくるのを待ちます。息子は高熱も出さず、下痢もせず、まるでだまされたみたいに順調な経過を辿り、約一ヶ月で部屋は開放になりました。
本当に有難いことでした。
それから約一ヶ月後、息子は晴れて退院となりました。入院から一年三ヶ月。五歳の秋でした。
退院後も、しばらくの間はかなり頻繁に病院に通い、一年間は薬を飲み続けます。白血球が急激に増えると、それにつられて白血病細胞までが再発してくることがあるため、白血球の増加を抑える薬と、それによる感染症を予防する薬です。予防薬を飲んではいても、白血球が少ないため、息子はしょっちゅう風邪をひきます。結局、退院してからも、幼稚園は半分は休みました。運動会にも、ついに一度も出られませんでした。
それでも幼稚園の先生が、いつも親身になってくれ、おたよりを届けて下さったり、お友だちも皆親切にしてくれました。世界の全ての人に、いつも、ありがとうと言いたい気持ちでした。それは今も変わりません。
風邪を引くのも、「こうやって、新しく生まれかわった身体に、もう一度最初から免疫をつけなおしているんだ」と思えば有難かった。勿論、息子も私もいろいろなストレスを感じましたが、丁度学校に上がる頃、不思議と風邪もひきにくくなり、食欲も徐々に出て元気になったのです。初めての運動会にも参加できました。現在二年生ですが、小学校は殆ど休まずに済んでいます。
いつもは日々の雑事に追われ、結構イライラしたり腹が立つこともありますが、ふと静かな気持ちになったとき、今の私達家族のしあわせに心から感謝すると共に、海斗と同じように一生懸命病気と闘ったにもかかわらず、力尽きて亡くなってしまった多くの子ども達のことを思わずにはいられません。
海斗に移植が成功し、元気に部屋を出られたとき、「よかったわねえ」と笑ってくれたお母さん。「うちもいずれは移植って言われてるの。海斗くんを見ると励みになるわ」─それなのにその子は亡くなった。お葬式では小さな棺の中に、ランドセルが入っていました。そのランドセルを買ったとき感じたであろう御家族の希望、この子はこんなに大きくなって、いよいよ小学校に上がるのだという喜び。それを思うと胸が痛みます。息子が退院した同じその日、亡くなって病院を出た子もいます。お母さんが抱いて家に連れて帰ったそうです。どんな思いで抱いて行ったのでしょう。どの子もどの子も、静かに眠っているみたい。棺にはおもちゃや、その子の好きだったものが沢山入れられます。寒くないようにと、肩かけがかけてあります。なんて悲しいことでしょうか。
今では、毎日のように息子の友達が遊びに来ます。時には七、八人もやって来て、家を荒します。ケダモノの群れのようだと舌打ちしつつも、ああこの子達は病気じゃないんだ、と思うと、嬉しくて涙が出る。どの子を見ても、「かわいいね、かわいいね」と思う。私達大人がみんなで、君達をきっと、守っていこうと思う。
考えて見ると、世界が、一丸となって海斗を癒そうとしてくれたように感じられます。偶然とは思えない不思議な巡り合わせのかずかず。思いがけない場所でお会いできた昔の恩師が、御自身のお子さんも重い病気にかかったけれど今は元気にしている、きっと大丈夫だと励まして下さったこと。ちょっとしたきっかけで家庭教師をすることになった中学生の女の子が、実は小さい頃小児ガンで、手術と自家骨髄移植を受けた経験があったこと。同じ時期に私の親友の子どもがマンションの六階から落ち、それでも奇跡的に助かったこと。その他にも、いろいろな不思議な出来事が、全て「大丈夫、海斗は治るよ」という宇宙(=神)からのメッセージだったように思えるのです。
適切な治療をして下さった先生方や、迷惑をかけた優しい看護婦さん。「長く入院していても海斗くんのことを忘れないように、いつもクラスで海斗くんの話しをしています」と言って下さった幼稚園の先生、自分のことのように心配してくれた近所のお母さんたち。私と海斗のために祈ってくれた友達。みなさん本当にありがとう。何度言っても足りることはない。そして、私達は一人ぼっちじゃないのだとつくづく思う。世界は丸くできている。必要なときには、手が差し延べられる。息子の闘病を通じて学んだ一番の宝物はこのことです。この明るい信念こそ、私に欠けていたものかもしれません。
今でもやはり、多くの心配があります。子どもが元気になったらなったで、新たな悩みも出てくるでしょう。それでも私が得たものは、失うことはない。そして、多くの人や世界が、私や息子のためにしてくれたことを、今度は私達が、誰か外の人や、世界のためにしたい。必要なときに、私にできるやり方でいいから。今度は手を差し延べよう。そのことを決して忘れないように、たまには心を静かにして、何度も自分に言い聞かせ、思い出すようにしています。
その思いは、私の、大きな支えのひとつとなりました。
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