TURMA DA TOUCA
  サンパウロのこどもたちと
    私たちを結ぶ糸



 サンパウロ市のカンポリンポ区。貧しい住民が多く、犯罪も多いこの地域に、トゥルマ ダ トウカ(TURMA DA TOUCA=帽子の仲間)という名前のグループがあります。1974年に、スタートし、現在は7つの保育園を中心に、学童保育、文化・スポーツ活動、職業訓練、成人教育、地域福祉などの活動をしています。



やっと会えた!

松本 乃里子



 摩天楼が痛い陽射しにそそりたつ春、11月。サンパウロ。道行く顔は、ありとあらゆる民族の歴史を物語っています。友人たちのおかげで私はあのこどもたちに会う日を迎えました。



 市の南部カンポ・リンポ区にあるそのこどもクラブのことは日本で発行しているブラジル人向けの新聞で2年前に知りました。創設者のひとりが日系ブラジル人アメリア・ワタナベさん。彼女とこどもたちの写真がまん中にありました。内容は、少年犯罪の多いその地域で、こどもたちに芸術や職業指導の活動を続けてきた話と、17歳でここを巣立った少年たちが路上に出て悪の手に落ちていくケースへの嘆きでした。彼女は地域との連携をはかり、市や民間の援助を得て親と子の識字やアートの機会を作ってきたのです。大工仕事やミシン仕事の指導は、最近は低賃金や治安の点から教え手を確保できずに困っているということでした。託児施設はたくさんありますが、「私はこの人たちが好き」と、いわば一目惚れしてしまいました。ひとりでは何も進みそうになかったところへ、友人たちが手紙を出してくれたり、会いに行ってきてくれたりで、グループとして応援する交流が始まりました。

☆到着してみると

 あの辺は相当危ないよ、そんな話ばかりでイメージは灰色でしたが、実際着いてみるとそこはカラフルで光のあふれた場所でした。アメリアさんとお姉さんのマリーナさん、そして古くからのスタッフに会い、助けられ、クリスマスまでのひと月余り、何度か保育園でこどもたちと過ごすことができました。

 1歳のこどもたちの部屋。小さな洗面器にそれぞれがすわってトイレのけいこ。じょうずに歌いながらハンカチ落としをしている少し大きいクラス。手あそびと歌を何度も何度も披露してくれたクラス。みんなそろって大きな口の大きな笑顔で大歓待してくれました。

 3歳から6歳のこどもの建物。丸く座って先生に本を読んでもらっています。「ねぇねぇニッポンてどこにあるの?」「きいた?いまニッポンって夜なんだって」もうたいへんな騒ぎでした。

 大きな建物が点在し、園全体でこどもの数はおよそ600人。次の年度からの入園待ちは乳幼児の建物だけでさらに500人とパンク寸前。残念だけどもう断わっています。そばで私も途方に暮れるばかりです。そんな時、職員と親たちと市との会議がありました。市は5歳以上の子を入園させるなと言ってきています。父親たちが抗議をしました。住民の数はふくれあがっています。こどもはどんどん生まれます。預かってもらえなければ親は今までのようにこどもを放ったらかしにして働かなければなりません。

 家庭の人たちにも会う機会がありました。この地域には保育園の運営に積極的に関わるお父さんもいれば、酔っ払ってこどもたちの面倒をみられないお母さんもいると聞いています。けれども私の会った人たちは職員となってここで働くお母さんや、運転手として信頼されているお父さん、誕生会に小さなパイをたくさん焼いてきたり、走り回るこどもたちの交通整理をしたりするお母さんなどでした。

 12月で年度が終わり、就学前のこどもたちの卒園式がありました。夕陽がファヴェーラと呼ばれる貧しい煉瓦の丘に美しく映える6時。講堂いっぱいにサンバが溢れます。おめかししたちっちゃなこどもたちが踊りだしその頬は上気しています。後ろでは家族がにこにこしています。この時、私は閃光のように知りました。この天使たちこそが私をここへ連れてきてくれたのだということを。

☆経済を支えている人たち

 まず気になっていたのは食料のことでした。足りなかった話を聞いていたからです。けれども厨房では準備も整って、豊かな給食をいっぱいご馳走になりました。食料庫には基本的な米もパスタも充分でした。今は市議選前で市の援助がきちんとしている時期である上に、スーパーマーケットが週一回、処分していた売れ残りを届けてくれるルートができました。これはスタッフが交渉した賜物です。去年は年がら年中、米と豆と卵だけだったそうです。こうしてこどもたちは朝6時から夜7時までここで無料で食事やおやつを食べて過ごすことができます。次の1月いっぱいは夏休み!この言葉はここでは重く厳しいものです。休み明けにはすっかり痩せて戻ってくるこどもも多いのです。

 市の援助の他に内外の大きな企業や銀行からの援助もあり、この1年は設備も充実しました。壁の一部も塗りかえられ食堂の小さな椅子やテーブルも整って。そのたびにスタッフは「これは誰それからのお金で買った物よ」と話してきたそうです。支えてくれる人がいるという事実をこどもの心に伝えて、将来自分たちでやって行く自信と志を育てる配慮です。

 日本からここに古着を送り続けているグループがあるそうです。古着はこの園のバザーで売られます。ファヴェーラの親たちは貰うのではなく安い値段でも「買う」ことによって自覚を持って施設の経済的運営に参加することになります。

☆足りないなぁと感じたものは…

 職員とオモチャでした。

 職員。古株も何人かは活躍していますが、地方から出てきて少し慣れると次の年には都心の保育園に転職してしまう若い保母さんが多いのです。あるいは「いい保母さん」の中にさえ小さいこどもたちとつないでいる手にいつもタバコが煙をたてているような例もありました。またその日はある建物で給食の作り手が無断で休みました。保母さんはこどもをかまわずせっせと食事作りに励まなければなりませんでした。妊娠を隠して採用された職員が直後に4ヶ月間の出産有給休暇を獲得する例も後を絶ちません。見回しただけでも質の低い職員が目立ちました。

 オモチャ。無きに等しい状態でした。そこまでは手が回らないのです。たしかにここに来られるこどもはまだまだ恵まれていることは事実なのですがそれでも私は頭を抱えてしまいました。

☆私がこのこどもたちに送っているもの

 小さなこどもたちにとってオモチャがどんなに大事なものであるかは私自身の同じ頃を思い出しても確かです。かといって日本から古いオモチャを送るだけでは解決にならない感じがしていました。そんな時NHKの「つくってあそぼ」というシリーズをみつけました。友人の協力を得てビデオにびっしり録画して送ることが始まりました。魚の絵を描いて口にクリップをつけたらハイ磁石の釣針でさかなつり大会!なんて楽しそうです。小さい子の遊び道具はきっと大きい子が作ってあげることでしょう。

 もうひとつ、私は絵をかくのが大好きなので絵本をこしらえてシリーズにして送り始めました。ここのこどもたちが主人公です。私もちゃっかり登場します。ニッポンという国のことや、珍しい画法もその中で紹介していきます。

 そしてはじめから友人たちと手がけてきたのはアメリアさんたちの要望だったお金の支援でした。少しずつでもずうっと続けていこうと思います。

☆ブラジルのこどもの問題に思うこと

 これは日本で考えられているような遅れた国の問題ではないと思います。貧しかった日本からブラジルという富の大地へ夢を描いて多くの人が移り住んだ長い歴史がありました。むしろこれはかつて経済的に栄えた国の未来の姿だと私は捉えています。ブラジルのGNPが世界で十指に入ることはあまり知られていません。ただその富の半分をたった1%の人達が握っているという統計もあります。

 こうした「こどもの問題」を抱える国々が日本と違う共通点のひとつに「相続税がないこと」があります。裕福な層は子々孫々まで富に浸り、学問の機会を得、政治的発言権を持つわけです。今後私たちの力ではどうにもならないことも多いと思います。問題を抱えている社会の構造がそれぞれ異なるからです。自分の立場を踏まえて細く長く交流を続けていきたいと思っています。

☆さいごに…

 私が訪ねたある時のことです。ひとりの男の子が私の前に絵本を持ってやって来て楽しそうに長いお話を読んで聞かせてくれました。6歳だということでした。彼はときどきにっこりして絵本から目を上げると私をみつめました。またあの子ね、デタラメ読んでるわ。先生がうんざりした顔で私に合図しました。とんでもない、私は大喜びでずっと聞いていたのです。どんなにオトナの枠組みで抑えようとしても独創的な方向へ伸びようとする芽は押さえることはできません。私も「あの頃」オトナたちが決めた場所なんかとはかけ離れた世界に住んでいました。かつてあなたもそうだったかも知れません。

 夏至のクリスマス・・・あれから半年余り。サンパウロより暑さの質がズシンと重いTOKYOの空の下、私は今日も歩いています。あのたくさんの笑顔に励まされながら。




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