僕の弟、章吾は僕が生まれて1年もたたない1973年の11月13日に生まれました。僕は物心ついた頃から何をするにもいつも弟と一緒でした。おもちゃなどは、いつもおそろいの物を買ってもらっていました。
僕たち家族は、父のフランス留学のため、僕が4才そして弟が3才の時に、フランスに行くことになりました。その頃には、妹の奈々も生まれていました。フランスで、僕と弟は地元の幼稚園に通うことになりました。引っ込み思案で臆病なところのある僕は、幼稚園に行くのを嫌がりました。初めて母に幼稚園に連れていかれた時、僕は母親の足にしがみついて離れませんでした。弟と違うクラスに入れられてしまったのが気に入らなかったのでしょう。そんな時、弟の章吾は僕の手を引いて、僕を幼稚園まで連れて行ってくれました。弟は僕よりずっとしっかりしていました。僕たちはけんかもしない、とても仲の良い兄弟でした。僕は弟が大好きでした。
ところが、9月のある日、悲劇が弟を襲ったのです。突然、弟に発作が起こったのです。弟はすぐに病院に運ばれました。僕も妹も両親も何が起こったのか全く分かりませんでした。前の日まで元気だった章吾が、突然、意識不明の重体になってしまったのです。弟はしばらくの間、生死の狭間をさまよいましたが、幸運にも一命は取り留めました。しかし、弟は未だ目も見えず、耳も聞こえない絶望的な状態にありました。医者は、両親に弟が回復する見込みはほとんどないと伝えました。しかし、両親は希望を捨てませんでした。きっと、弟が元の状態に戻ると信じていました。僕もそれを信じて疑いませんでした。僕にできるのは唯それだけでした。
弟は小児科病棟の集中治療室に入れられました。フランスでは、小児科病棟には子供は入れません。だから、両親が担当医と話している間、僕はいつも病院の庭から窓越しに弟の顔を見ていました。僕は弟をできるだけ近くで見ようと、いつも自分の顔を窓に押し付けて弟を見ていました。弟は、目もみえず、耳も聞こえず、唯ベットの上に寝ているだけでした。しかし、ある日、僕の窓に押し付けられた顔を見て、弟が笑ったのです。弟は確かに僕の顔を見て笑ったのです。その時、弟の目は見えていたのです。それは、まさに奇蹟でした。僕も両親もそれを見て例えようもない喜びを覚えました。希望の光が見えてきたような気がしました。弟はいつかきっと良くなると確信しました。
神様に僕たち家族の願いが通じたのか、その後、弟は、少しずつ着実に良くなっていきました。今では、視力も回復し、耳も聞こえ、話しもできます。また、多少の障害はありますが自由に体を動かすこともできます。普通の人にとっては当り前のことだが、弟にとっては大変なことです。それは、素晴しい進歩なのです。今、なお、弟は徐々に回復し続けています。元の自分を取り戻すために日々、彼なりに努力しています。
弟が病気になったことは、僕の人生に大きな影響を与えてきました。僕は、様々なことを思い考えました。入学当初、小学校に友達のいなかった僕は、「章吾が元気だったらどんなに楽しいだろうに…」などと考えたりしました。また、その後も「なぜ、よりによって、僕の弟が、病気になってしまったんだろう」、「これが全部、夢だったらいいのに…」などと後ろ向きなことも考えたりしました。弟を障害児にしてしまった神様を憎いと思ったことさえありました。しかし、病気と一生懸命に戦っている弟を見ると、いつまでもそんなふうには考えていられませんでした。僕も弟に負けないように頑張らなくてはと思い始めました。今でもその思いは強く、僕を支えてくれています。
章吾は彼の人生を通じて、本当にたくさんのことを身をもって僕に教えてくれました。生命の尊さ、人生の素晴しさ、家族の温かさ等々、数え上げれば切りがありません。また、章吾を通じて、多くの人々と出会いました。僕は、今、心から章吾に感謝しています。章吾なくしては、今の僕はなかったと言っても過言ではありません。それ程、章吾は僕の人生において大きな存在だったのです。章吾は、病気になった後も、病気になる以前と同じように、いつも僕の手を引いて歩いていてくれているのです。僕はそんな弟が大好きです。
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