子どもを通じて知らない世界が見えてくる。ここでは難病と闘う小さな命が、この世界の陰に光を燈している。
子どもが白血病になったのは、母親である私のせい──当然のことながら、医者はそんなことは言いません。本にも書いてありません。むしろ、誰のせいでもないのだから、自分を責めるのはやめるようにと書いてあります。(このへんの、患者や家族の心情に対するフォローや、病気のわかりやすい説明は、日本のものよりアメリカの本のほうが一歩進んでいます。)
にもかかわらず、私は心の中で、私のせいだと言い切っていた。私の作った食事のせい。子どもに「ママ悲しいよ、助けてよ」などと言わせるほどに、ひどく叱ったせい。そして何よりも、私の暗い、絶望に満ちた思いのせい。役にも立たない漠然とした恐れのせいで、私が、子どもを白血病にした。
でもそれは、私にとってはむしろ、良い方向への一歩だったのです。そう。私が病気にした。私が病気にしたのだから、私が直すのだ。私の中で何かが変わりました。その時の気持ちは、ただ自分を責めるといった、非生産的なものではありませんでした。
病院に預けて、医者が息子を治してくれるのを待つなどという気はさらさらなかった。自分には何ができるのか、たとえちょっとしたことでも、できることは何でもやろうと決心し、私はじっと考えました。「祈り」の効力については、TV番組や本で知っていたので、神だのみとて馬鹿にはできなかった。私は、水ごりをして体を清めてから、千羽鶴を一人で折るということをまず考えついて、ほんの少し気が楽になりました。するべきことがひとつでもあるというのは、たいそう心強いものです。それではずみのついた私は、私を本当に好きでいてくれる、念力の強そうな何人かの友人に、手紙や電話で訳を説明し、祈りを依頼し、ガンから生還した体験談や潜在意識の活用法などに関する本は片っ端から読み漁り、木や土からエネルギーを分けてもらった手で息子を抱き締め、ガンに効果があるという食品を調べ──思いつくことは全て実行しました。そうせずにはいられなかった。私にとっても、戦いだったのです。子どもの白血病は、治り易さによっていくつかの群に分かれていますが、息子の場合は最も治りにくいと言われるベリーハイリスク群に属していました。そのため最も強い薬で治療に入ったのですが、強すぎて膵炎が出てしまい、その薬が使えなくなった上に、まだ病院になれてもいない、友達もいない、家族から引き離されたかわいそうな息子は、たったひとつの楽しみであった食事まで禁止させられたのでした。面会に行った私の顔を見たとたん、「ボク、ごはん、食べられなくなっちゃたの」と言って泣いた姿を今も思い出し、胸が痛みます。
出だしはそのようにシビアでしたが、運良く弱めの薬でも良く効くことがわかり、やがて食事も再開されて、病院にも慣れていきました。
治療は主に、多種多様の抗ガン剤の投与と、その副作用に対する対処療法になります。抗ガン剤を投与すると、白血病細胞ばかりでなく、正常な血液細胞も手ひどい打撃を受けてしまうので、当然のことながら貧血状態になってしまいます。そこで、感染防止の為に1〜2週間個室に隔離され、輸血をしながら血液が増えてくるのを待つのですが、その間に感染症などにかかると、敗血症を起こし重篤化することもあるので注意が必要です。また、子どもが暴れて頭を打った場合、脳内出血を起こすと血が止まらなくなるといった危険もあります。
抗ガン剤自体も、吐き気などの副作用がありますが、吐き気止めの点滴(薬名はカイトリル。ちなみに息子の名前は海斗です)などもあり、子どもであるという強さもあって、そちらの方面ではあまり苦しい思いはしませんでした。はしかや水ぼうそうにかかっても、子どものほうが大人よりも軽くてすむのと同じです。以前夫婦でみた、ジュリア・ロバーツの『愛の選択』という映画の登場人物が、抗ガン剤でひどい吐き気にみまわれる場面を思い出して震え上がっていた私たちは、本当に安堵しました。このカイトリルは、丁度息子が入院する数ヶ月前に認可されたばかりということで、医学は文字どおり、日進月歩といったかんじです。
勿論、もっと辛い治療もありました。白血病細胞がどの位減ったか、また、寛解に入ったあとは、再発していないかを診るために、定期的に腰の骨に針を刺し、骨髄液をとるマルク。これは聞いただけでも身がすくむ思いです。とても痛いそうです。脊髄と脳における再発防止のために、体をエビのように丸くして、背骨の隙間から注射をするルンバール。これに至っては、大人でも失神するほどの痛さとか。そんなことを、しょっちゅうやられていた子どもたち。それでも明るかった子どもたちには、本当に頭が下がります。わたしはもう二度と、歯医者がこわいなどとは言えなくなりました。
また、最近はあまりやらなくなったようですが、息子の頃はまだ、頭に放射線をあてる治療をやっていました。前述のとおり、脊髄と脳での再発というのがあって、それがたいそうこわいのだそうです。脊髄や脳には、抗ガン剤の点滴は届かないのだそうです。そのため、ルンバールと共にやっていたのが、頭の照射ですが、これは抗ガン剤よりもひどい吐き気が長く続きます。丁度正月に外泊で帰ってきたときに、照射の影響で吐き気が止まらず、それでも、吐いても何でも絶対に飲ませなければならない薬というのが何種類かあって、(殆どは感染予防のための抗真菌剤)飲んですぐ吐いたらもう一度飲ませなければならない。同情してても始まらないので、叱りとばして飲ませていたのですが、傍らで涙ぐみながら見ていた私の父は、血も涙もない私の態度が気に入らず、正月から喧嘩になったりしました。
それにしても、子どもというのは、本当に強い。あの生命力といったら我々大人の比ではありません。抗ガン剤を投与されても走る。吐いても遊ぶ。熱が39度でも暴れる。子どもの病院だったこともあって、患者は全員子どもです。知らない人が見たら、なんでこんな元気な乱暴者ばかりが入院しているんだと不思議がるのではないかと思われる傍若無人ぶり。けれども親たちは、それで随分救われたのでした。
まだ小さい子どもも全員、家族から離され、たった一人で病院で生活するのです。お菓子や食べ物の差し入れは原則として禁止でしたし、元気はあっても走ったりできない時期もあってストレスもたまります。そうやって我慢して治療を頑張っても、必ず治るという保証もない以上は、子どもが楽しそうに動き回っていてくれることが唯一の支えだったという親御さんも多いのではないでしょうか。うちはまだしも、白血病よりももっとずっと重い病気の子どもも沢山いました。入院時に、「治療をしても治る確率は低いので、連れて帰って好きにさせるならそれでも構わない」というような宣告を受けた人も少なからずいました。他のお母さんたちと親しくなり、そういったことを聞かされる度に、あの、告知のときの動揺が恥ずかしくなる。うちなんてまだいいじゃないか。治らないなんて言われなかった。これで弱音を吐いたりしたら、それこそ申し分けない──頑張るしかありませんでした。
また子どもが何もかも恵まれていました。
子どもだけの病院で、最初のうちは淋しくても、すぐに大勢友達ができます。そうなると毎日が修学旅行状態。治療がすみ、個室隔離も終ると、次の治療まではずっと外泊で、つまりは入院期間中半分位は家に帰っていたことになります。医師団も、血液では日本で3本の指には入ると言われていたし、看護婦さんも優しい人が殆どでした。
何もかもが有難いことだと感謝して過ごせたのは、私にとって本当にかけがえのないことでした。
(つづく)
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