わが谷は緑なりき(HOW GREEN WAS MY VALLEY)
監督/ジョン・フォード
出演/ウォルター・ピジョン
モーリン・オハラ
ドナルド・クリスプ
アメリカ:1941年作品 黒白 スタンダード 118分
VIDEO・LD/ CBS・FOX・AVC
この辺で少し最近の映画をと思いつつ、何となく前回の流れにのって、またさらに時間を溯り、今回は「わが谷は緑なりき」についてお話ししたいと思います。
この映画は1941年、ジョン・フォード監督の作品ですが、ヒュー少年によって語られるウェールズの炭鉱町の事どもは名もなき英雄たちの叙事詩でもあり、それらを彩る緑色の谷の輝きはまるで一篇の詩のような味わいを見る者に与えます。人の魂がフィルムに刻み込まれ、今またわたしたちに語りかけてくるような、そんなスピリチュアルで、美しく、ウィットに富む映画で、見るたびにいつも驚かされてしまうのです。日本でも『炭鉱節』なる歌が今も歌い継がれていますが、黒人霊歌しかり、苛酷な労働に従事する人達の多くは歌を作り歌ったように、この町でも歌声は絶えません。最近公開された工藤夕貴主演の「ピクチャーブライド」でもハワイに移民した日本人たちが、厳しい労働を歌い飛ばして耐えていくシーンが印象的でした。
こうして人から人へと繋がれていく歴史の重みや炭鉱町の苛酷さ、自然の美しさ厳しさがヒューという少年のくぐもることのない眼差しによって見聞きし、語られたこともこの映画の成功の大きな要因だったことでしょう。 さて「駅馬車」に代表されるジョン・フォードの傑作揃いの映画の中では、「わが谷は緑なりき」はちょっと小粒で上品ですが、ジョン・フォードの魂ともいえる熱くて深いアメリカの心は、ここでもうねっています。人がある土地に生まれ、その地に根差してしっかり生きていく。何がなくても、たとえ炭坑の煤で薄汚れていようとも、彼らは光り輝いていて、その姿が目に染みる−−その感触をまずあじわってほしいと思います。
この映画は言葉の美しさも印象的なので、言葉を少し引用していきます。
「友は記憶に生きている
覚えていれば戻れる
ウェールズの緑に染まった谷」
すでに年老い、自分の知る多くの人が世を去り、自分もやがて眠りにつくと思われるヒューが、遥か昔の自分の少年時代を回想するところから映画は始まります。
ヒューはまず父親について語ります。父親はドナルド・クリスプが演じていますが、国籍や風貌を超えて、誰もの心にある父親像を作り上げています。少年ヒューにとってはこの父親は神にも勝る大いなる存在で、
「私は子供の頃、全てを父に学んだ
間違いやムダな教えはなく
昨日聞いたかのように、私の胸に刻み込まれている・・・・」
生涯にわたって、彼は心から父を尊敬し、ヒューはこの父と母、四人の兄と姉と暮らしていますが、兄弟たちと年が離れて生まれたのでしょう。ヒューだけがまだ幼く、兄は皆、一端の炭坑夫として働いています。
映画ではヒューと父親の忘れ難いシーンがあります。平穏で美しいこの小さな炭鉱町にも事件は起こります。横暴を極める炭鉱主に労働者たちは意を決してストライキという強硬手段にでるのですが、反対する父と賛成し加わろうとする四人の兄は対立し、ある日、兄たちは家を出て行くと言い、食卓を後にします。広いテーブルに残った父と、それでも食事をしているヒュー。ヒューは詳しい事情はわからないものの、ただならぬ雰囲気の中、不安げに父の方をちらちらと見ます。言葉は何も発しませんが、「僕はここにいるよ、ずっと、お父さんの所にいるよ」という思いを込めて、彼は食卓についているのです。それでも無言の父に、ヒューは無言で食べ続け、さらに落ち着かず、コンコンと咳をしてみせるのですが、すると父は「わかっている、おまえがいるのは」と一言だけ言うのでした。その時のヒューの満足げな顔と言ったら。
そんなヒューから見た父は誰よりも偉大であったことは容易に理解できますが、その存在の大きさはヒューが学問を身につけ、大人になってもまったく変わることはありませんでした。
「あの父に死などあり得ない
目をつぶればいつでも会える
夢の中でも会える」
と、ヒューは晩年に語るのですが、それを聞いていて、こんな幸せな人生ってあるだろうか、とわたしは思ってしまいました。
「父が心臓なら母は頭だ」
そんなヒューの観察がありましたが、ヒューと母親はある日、冬の吹雪の日に、凍った川に落ちてしまいます。ヒューの叫び声を聞き付けた村人に助けられはするものの、ヒューは寝たきりになってしまいます。母親の方は回復の見通しはあるものの、やはり床についたままで、寝たきりの2人が杖を使ってコミュニケーションをする場面がありました。階下のヒューが杖で天井を叩くと気づいた母が杖で床を叩き返す、またはその逆というシンプルな方法ですが、いろいろと面倒な物を取り払っていくと、親子のみならず一対一の人の関係は実はこんなにシンプルなんだなあと思わせてくれました。
ところでヒューは医者に再起不能にも等しい診断をくだされるのですが、そんなヒューを救ってくれたのが教会の牧師クリュフィドでした。
父の最初の教えは教会への敬意でしたが、彼の村の教会の牧師クリュフィドはヒューをとても大事にしてくれました。
クリュフィドは苦学して牧師となり、生涯を神に捧げ、献身の人生を送っているのですが、なかなか渋い男性で、この映画にただならぬストイックゆえの色気を添えています(とわたしは思っている)。
少々余談になりますが、演じているのはウォルター・ピジョン。この人がもっと油が抜け切った人だったら話は別ですが、心優しく精悍で苦悩の人という三拍子そろった(何のことやら)男性で、このクリュフィドとヒューの姉のアンハード(魅惑の人モーリン・オハラが演じている)はお互い惹かれ合ってしまうのです。
「わたしはあなたが・・・・」
「いけません。わたしはあなたを幸せにする資格がないのです」
台詞にしてしまうと三文メロドラマみたいですが、なかなかこの2人のやりとりがロマンチックで、クリュフィドの気持ちもわかるものの、煮え切らない態度にジリジリしてしまいます。そんな折、炭鉱主エバンスの長男がアンハードにほれ込んでしまい、求婚。アンハードはクリュフィドの心を確かめに行きますが、クリュフィドは一生苦労することがわかっている自分と結婚してくれとは終に言えず、あきらめてくれと言われたアンハードは炭鉱主の長男と結婚してしまうのです。結婚式の日、オープンカーに乗ったアンハードをクリュフィドは陰ながら見送るのでした。(ちなみにスクリーンは本当にシルエットだけ。シルエットの感じとその動作からクリュフィドだろうと思わせ、ちっともクサくならない。この辺の演出はまったく見事!)
そんな辛い日々の中ではありましたが、クリュフィドは、一生歩けるようにならないだろうという医師の診断を聞いてしまい、気落ちしているヒューを「心を強くもて。医者が何と言おうと歩けるようになる。山に水仙が咲き始めたらきっとみに行くだろ」と励ますのでした。
勇気の出たヒューは「はい、きっと」と答えるのですが、やがて春が来て、約束どおりクリュフィドに背負われ、花畑に行くのです。クリュフィドは少し離れた所にしゃがみ、ヒューに歩くよう促し、ヒューはクリュフィドを信じて一歩を踏み出します。水仙の花畑の中、歩き出すヒュー。モノクロの画面の静謐な美しさは眩しいばかりです。もちろんヒューが歩けたことはすばらしいのですが、そのことより、ただただクリュフィドを信じて、一歩を踏み出した、二人の間で交わされる信頼関係の確かさがどこまでも気持ちがよいのです。
その後、ヒューは多くの人に慈しまれますが、そこに止まることなく、村で唯一の学校に通い学問を修めます。最初は苛められ、辛い毎日でしたが、次第に成長したくましくなっていきます。
村の外の広い世界を知り、立派に成長した後もヒューの中には自分を育んだ村そのものが血潮となって流れ続けていったことを後で知りますが、それこそが誰もが懸命に生きた証なのかもしれません。
どんな教えよりもありのまま、そこにあり続ければ、子供は自然とその地に根をはって、真っすぐに生きていき、その子供が大人になりまた別の子供へと綿々と繋がっていくことができるのだと思わせてくれました。
そういう確かさこそが現代のわたしたちには必要なのではないかと思いますが、どうやら大人たちが既にないがしろにしているように思えて仕方ありません。しばし美しき緑の谷に思いを馳せ、子供時代からの来し方を再確認してみてはいかがでしょうか。
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