卒業したのはいいけれど...

ケントのいた場所+Someday(いつか)

太田 智枝美



 わが子を車椅子に乗せて外にでる母。世間の鉛のような重い空気に潰されてしまいそうな、いつもの風景 〜 。
 マリイの車椅子を、ケントの車椅子を押したことがある人は知っている。偏見と差別にさらされている母の辛い気持ちを 〜 。

 2人の車椅子を押すような気持ちで、この2人のおかあさんのこの文書を読んでほしい。



 心地良く頬を撫でる風、ようやく春めいて来ました。ちょうど9年前の同時期、木々のキラキラとした芽吹に見守られながら、建人と私は、人生一番の幸せを、確実に満喫していました。毎日がもう嬉しくて、楽しくて、二人していつも微笑んでいたように記憶しています。区立の小学校へ無事入学するまで、人一倍苦労したぶん、代りに何にも替え難い幸福を、頂戴したのです。満開の幸せの香する、あの頃に、今一度戻りたい、そんな気さえする新緑の頃でした。

 唐突ですが、1996年3月19日、建人は9年間の義務教育を終業し、中野区立の中学校を、卒業しました。余談ではありますが、証書は西暦で!!と、学校へ注文しました。 小学校入学当初、私は義務教育期間の長さの中に、何かを期待していたようでした。ところがいざ就業してみると、たった9年間では、なかなか思うようにことは、運ばないものだと、実感したのです。

 その根元は、いったいどこにあるのかと、考えてみますと、いき当ったのは、やはりいつまで経っても変らない障害者差別に他ならないのではないかということです。重度障害を持つ一人の人間、建人の存在そのものを、認めないが故に、起った様々な問題。

 「健常者」、「障害者」と区別して、物を考える仕組み。そこから始まる軽率な態度。親への責任転嫁。学校教育として、ふさわしくない先生達、教育委員会、指導室の取る行動。等々、数えきれません。誇らしくも、重度障害を持つ子どもが、区立の学校、しかも普通学級に居るというのに、対応は、恐ろしく人間的ではないのです。それでも救われたのは、わずかながらも良き先生も見られたこと。

 建人に対して、数々の失礼な事件があったけれど、具体的なことは、忘れてしまいました。ただとても悔しい思いをしたということは、しっかり覚えていますが、全てをずっと覚えていたら、苦しくてつらくて、悲しくて、悔しくて、ペシャンコに潰されてしまって、きっとこの世に生きていられなかったと思います。この9年間の経験から「忘れる」という術を、無意識に良きか悪しきか学習してしまったようです。

 がしかし、問題なのは、義務教育だけではないのです。卒業後、15才の建人はどこへ行ったら良いのやら、行き場が無いのです。プー太郎になっても、悲しいかな一人では外にウロウロ外出できる筈もなく、かと言って家に籠ってしまうのは、建人も辛いし、つまらないし、親も困り果ててしまう。仕方がないから、何百メートルか先にある地域センターの成人通所に行くことにしました。私の中ではここに行くことは、最後の最後のすべり止め的選択であったのですが、何と実は、ここに入るのにも大変苦労したのです。

 建人は重度の上に、チューブ(経管栄養)を、付けているということが、ネックらしく、結局母親の私が、管理されてしまう毎日なので、本意ではないけれど、ケイタイ電話を持つことになってしまいました。ここが受け入れなかったとしたらいったい建人はどこへ行ったら良いのでしょう。改めて障害を持つ人々の苦労を痛感しました。何故、弱い者が、痛いくらい、頭を垂れ、底辺のその又、底辺を生きてゆくのにさえ、苦しまなければならないのでしょうか?「弱い者にも力を貸してくれる」なんて謳う行政は、お題目ばかりで、これじゃ、自分も何年か後にやってくるボケにも安心して身を委ねられやしないのです。

 近しい人達と、未来の計画として、素敵なたまり場を作ろうとしています。

「早くたまり場が出来るとイイナー」

 今の建人と私の熱い声です。忘れてしまった小・中学校教育、過去の出来事の数々は、何かの折りに、皆さんにゆっくりと、読んでいただきたいと、思います。又お逢いできる日まで。さよなら。




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