さよなら「学校」

マリイのいた場所+Someday(いつか)

杉山 美奈子



 わが子を車椅子に乗せて外にでる母。世間の鉛のような重い空気に潰されてしまいそうな、いつもの風景 〜 。
 マリイの車椅子を、ケントの車椅子を押したことがある人は知っている。偏見と差別にさらされている母の辛い気持ちを 〜 。

 2人の車椅子を押すような気持ちで、この2人のおかあさんのこの文書を読んでほしい。



 「この子を残しては死ねない。でもこの子が死んでゆくのも見たくない。」

 タブーであるこの決まり文句が最近たびたび頭をかすめる。今まで何度マリイの死を意識しただろう。夜中に何度か救急車を呼んだ。呼吸が止まるほど激しく突っ張り、40度を超す熱に土気色になった顔。慌ただしく入院の支度をしながらいつも一瞬「お葬式の図」を思い浮かべていた。

 つい先日仲良しだった友達が天国に召された。棺にお別れするとき、花に埋もれた細い体は、決して楽ではなかった19年の重みがあった。その哀しいまでに美しい顔がマリイとオーバーラップした。

 生きていくだけで精一杯だった日々。食べること、“緊張(体を硬直させる発作)”との闘い、移動のむずかしさ。いろいろ楽しいことをする余裕がないまま、やっと命をつないでいた毎日。そんなマリイも就学を迎えるときが来た。

 9年前の4月、区立小学校の入学式。親の私はマリイ以上に緊張し、体が思うように動かないほど固くなっていた。「できる」「できない」で子どもを分けずにどの子も地域の学校にという思いを根底に、教育委員会や学校とたくさんの苦しい闘いを乗り越え、やっと晴れの入学式を迎えたのに、マリイがこの学校の教室でどうやって過ごすのか見当もつかず、不安で身体中ががんじがらめだった。そしてこの不安と緊張は、強くなり弱くなりしながら、中学校を卒業するまで私の身体のどこかに棲みつき、ときどき顔を出してきては苦しめた。

 小学校に入学してしばらくは私が付き添った。母親が付き添うことで入学が認められたからだ。1年生の授業はお絵描き、工作やジャガイモを植えたり、朝顔の鉢を作ったり、昔からある算数セットとかいう恐ろしく細かいもので数のお稽古をしたり。どこか変だと思いながらも私も子どもたちと一緒に遊んでいた。体育では先生はマリイをどうするのかなと見ていたけれど、実際に動きだすとどうすることもできず、ひなたぼっこをしているしかなかった。それでも子どもたちはいつもマリイの存在を気にしていた。車いすも競って押したがった。マリイの控え室にはいつも子どもたちが来て「どうして歩けないの?」「何でしゃべれないの?」などなどにぎやかに質問し、騒いでいった。このワサワサとした感じが私の救いだった。

 教師の何人かは「マリイちゃん」と声をかけてくれたが、殆どは「なんでこんな子が学校に来ているの。」という思いが顔にありありと出ていた。そういう中に入っていくのはとてもしんどい。毎日体のどこかを削って過ごしているようだった。毎日8時に家を出る。マリイの朝食はばっちり1時間がかかるし着替えも歯磨きも全部時間がかかる。食器もそのまま、歯磨きのコップももちろんベッドもぐしゃぐしゃのまま家を出て行き、学校では疎外感をじんわり感じながら、いったいこの先勉強がどんどんむずかしくなっていったらどうやって教室で過ごせばいいのかなと不安が募っていった。ちょっと別の角度から叩かれたりしたらすっかり登校拒否(親が)しそうだったし、既に入学して1ヶ月の時点で学校をやめたくなっていた。けれどあんなに苦労してけんかして入学したんだからとか、私の母校でもあるしとか考えながら、やめるのはいつでもやめられる。とりあえず今日は行くか、と自分に言い聞かせて車いすにマリイを乗せていた。

 それにしても、キンキン体を突っ張ったり、グーグー眠ったりと周りとは関係なく「我が道を行く」マリイ。このたくましさ(?)があったから通い続けることができたのかもしれない。「何ができなくてもいい。ただここにいるということが大切なんだ」と口先で言っていたけれど、何かが始まらなければ本当にただいるだけになる。この問題はかなり大きい。いまだにどうすればよかったのかわからない。どこに行っても、どこにいても出てくる問題だ。

 マリイが普通小学校に入ることはマリイにはもちろん私たち家族にとっても大きな出来事だった。それと同時にこれからどんなに重度の障害を持っている子どもでも、あたりまえに近くの普通小学校に入っていける、その突破口を開いていくつもりだった。そのやり方はつねに閉ざされた扉をこじ開け、ノーという答をイエスに変えるべく、学校や教育委員会のしつこい説得に、もっとしつこく反論していかなければならない。小学校の6年間はもっぱらこのやり方でやってきた。たとえば介助のため親が同伴するという条件をはねのけて、介助者を付けるとか、もしくは学校で対応するという要求をしたとき、教育委員会は「お母さんが付いていないと危険です。教師にオムツを替えさせるんですか。途中で泣いたら他の子の授業を放って付いているんですか?もっと教師のたくさんいる、目の行き届いた学校に行くのがお互いのためです。」と言ってきた。それに対して私も一つ一つ返していく。「母親が付いていても危険はあるし、親が付いていなければ危険なら他の子どもの親もみんな付いてくるんですか。」「学校の先生はオムツを替えてはいけないんですか。」さすがに「途中で泣くようなつまらない授業をしているんですか?」とは言えなかったが…。この9年間でオムツ替えをしてくれた教師はK先生だけでした。プールに入るときも「オムツをしている子どもはみんなとプールに入るのは衛生上の問題があるんですよ」と言われれば、「あれ、みんな絶対にプールでおしっこしないんですか」と言うしかなかった。

 初めての“移動教室(林間学校)”では頑としてマリイを同行させようとしない校長や学年主任、担任と、絶対に参加するという私との間に2ヶ月間も平行線のままの冷たい闘いが続いた。そしてその間も重い足を引きずり登校した。実はその頃マリイの体調が思わしくなく、このままではもし参加を認めさせても、結局行かれなくなるのではないかという状況だった。せっかくの身を削るような交渉も無駄になるのではないかしらと、ヒヤヒヤしながらマリイの体調を見守っていた。一応親無しでの参加を認めさせることができ、無事に行ってきた。そしてこれ以降の宿泊行事については、それまでとは打って変わって、マリイが参加できるために介助者を2名付けるなどいろいろ配慮をするようになった。これはまさに勝ち取ったというべきなのだろう。

 しかし、学校の中での孤立感は強まるばかりだった。このときはPTAのクラスの役員をやっていたので、他のお母さんたちに話す機会もあったのだけれど、学校に「歯向かう」ということは別世界の話のようで、賛同は得られず、私も強いて求めなかった。これは今でもとても残念に思う。普通校に通う障害を持つ子どもの親がしばしば孤独な闘いを強いられるのは、他の親たちに、地域で生きるという意味の根っこの部分が分かってもらえないからだと思う。

 実際そのときはこのようにしなければ乗り越えてこられなかったのだろうけれど、今思うと、学校から徹底的に嫌われてしまうというのは得策とは言えないと思う。ある人が「教師ってね、人一倍プライドが高いんだからある程度持ち上げなくっちゃやっていけないのよ。絶対ゆずれないところははっきり言っても、ただ要求するだけじゃ相手だって人間なんだから」と言っていた。なるほど…。中学校に行ったらそうしよう。ただし中学まで私の神経がもてば。

 きっと私は、しらっとした顔をしたとてもふてぶてしい、強い人にみられていたんだろうと思う。自分の心の底の思いとは裏腹に意地悪く粘ってしまうんです。私だって人の目は気になるし、嫌われたくもないし、教師とだって和やかに話してみたかった。

 中学校生活は殆ど変化も進歩もなく、惰性に流された感じで過ごしていた。友人関係ができるでもなく、もちろん授業中はただじっと耐えているだけであったでしょう。行事も楽しく参加するわけでなし。朝8時に家を出て、2時頃まで教室か控え室で過ごすという(緊張が強くてまったく教室には行かれず、終日控え室で介助者と2人きりで過ごす日もあった)、消極的な毎日であった。しかしその疎外感を親の私は直接感じずに済んでいた。何かを要求しようにも、教師とは価値観があまりにもかけ離れていてしようがなかった(教育効果が期待できないことはやってみる価値がない、と言う教師ではやりあう元気も湧いてこなかった)。それでも課外活動や宿泊行事などにおいては、あたりまえのように参加が認められていた。前例をつくることの効果ってすごいなと改めて見せ付けられた。このほとぼりの冷めないうちに誰か入学してこないかなと焦っている。

 この3年間で、介助者には恵まれた。みんなそれぞれのやり方でなんとか学校に対してマリイをアピールしてくれたし、体調を気遣いながらもみんなの中に入れようとしてくれていた。私がそれまで嫌というほど味あわされていた疎外感を、いくら仕事とはいえ骨身にしみさせられたのではないだろうか。また、介助者が半年で強制的に交替させられるシステムには、あまりの不合理さに腹を立てた。

 どんな障害があっても、親と子がある時期が来たら離れる時間を持つことは大切であり、お互いに知らない世界を持ってもそれは当然のことと思う。この中学の3年間は、私とマリイもそのような関係を持てたと思う。

 マリイはいつでも、そしていつまでもマイペースで生きていくのでしょう。最近4年間は、緊張が強すぎるのかウィルスも寄ってこないらしく、熱も出さず平然と突っ張っている。まん丸とかわいかった面持ちも、ぐんと大人びて15歳の春を迎えている。

 いろいろな思いはあるけれど、とにかく小学校6年間と中学校3年間、通い続けたという達成感はある。先日の卒業式は、まあ穏やかな気持ちで迎えることができました。でも、マリイの人生も、私の人生もこれからです。




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