「プラッサ」では「子供」を「子ども」と表記していることにお気づきでしょうか。「供」という漢字に「従者」の意味が含まれてることに抵抗を感じたからです。言葉へのこだわりは、一歩間違えれば言葉狩りの危険性も含まれます。しかしそれでもなお、こだわりを捨ててはいけないこともあると思っています。
4号の特集である「障害」の問題もその一つでしょう。「害」という文字を嫌い「障碍」という表記をなさっている方もいらっしゃいます。また具体的な言葉の問題として、「知恵遅れ」「つんぼ」「びっこ」などの差別用語も、わたしたちは日常の会話の中で、不用意に使用してしまうこともあります。特集の中の、マリイちゃんや、ケント君、またそのご両親にとって、こうした言葉の暴力による傷は、わたしたちの想像以上のものだと思われます。こうした例はいくらでもあるでしょう。「ばか」でも「チョン(朝鮮民族)」でも使えるカメラだとして、コンパクトカメラを「バカチョンカメラ」と呼んでいた時期があります。身体への差別と、民族への差別がこの言葉の中には含まれています。あまりにも嫌な言葉です。
ただ、わたしたちが肝に銘じなければならないことは、たんに「差別用語」を使用しなければよいということではなく、わたしたちの内に存在している「差別意識」とどう闘うかということではないでしょうか。
今後、差別用語のみではなく「先進国」「発展途上国」「ボランティア」などの言葉についても、考えていってみたいと思っています。
話は変わりますが、「プラッサ」も一歳を迎えました。多くの方が具体的作業に携わってくださっています。そして当然様々な「プラッサ」の捉え方があります。そういった意味を考え、わたし自身はこの4号から、企画、編集、ページ構成の作業から外れさせていただきました。最終的には会員の方全員で作っていく「プラッサ」となるよう、少しずつ(ポコ・ア・ポコ)歩んで行きたいと望んでいます。
小池 彰
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