もしも、「あなたのお子さんは白血病です」と、医師に宣告されたなら、あなたはどうしますか。ここに白血病と闘い続けているある家族がいます。その絶望と希望が交差する狭間で「何」を見、「何」を悟ったのか・・・。発病と告知、闘病生活、そして現在の子どもとの日々をおかあさんに連載で書いていただくことになりました。
白血病 ― この病名には、幼い頃からいろいろな思いを抱いてきました。
コマッシャクレ小学生だった私が憧れたドラマや漫画の中の恋人達の多くは、この病によって永久に引き離される。イタリア映画では、かわいい子どもが、この病気にかかり父親の腕の中で死んでいきます。何か、美し気な悲し気な、そしてちょっとカッコイイかもしれない不治の病。それがその頃の私にとっての白血病でした。
その白血病も、必ずしも不治の病ではなくなった。それを知ったのは、いつの頃だったでしょうか。「え、あの白血病が治る!?」そうなるとなんだか、とたんに大したことない病気のように思え、白血病で死ぬのはよほど運が悪い人なのだと感じてしまう。人間の印象なんて、殆どこんなものではないでしょうか。
実際には、白血病はまだまだこわい病気です。治癒率は、子どもで7割、大人で3割といったところでしょうか。しかも、「治癒」と見なされるまでには、数々の化学治療、それによる副作用との戦い、好虫球現象に対処するための個室隔離、そして場合によっては骨髄移植と、かなり険しい道のりが続きます。運良く退院できても、再発例を目のあたりにするにつけ、ちょっとした疲労や出血斑(アザ)、鼻出血、微熱などにも、相当に心乱れます。当人にとっても、また家族にとっても、かなりのストレスと言えると思います。
我が家では3年前の夏、当時4歳だった一人息子が白血病にかかり、1年3ヶ月の入院の後、退院しました。現在は元気に小学校に通っていますが、未だに3ヶ月ごとの通院、検診があります。日常生活に支障はないとはいえ、わずかな体調の変化にも、ビクビクものの毎日。退院直前から出たチック症も、事ある毎に悪化はするわ、母親の私にいたっては、息子の入院当時から始まった抜け毛と不妊症に、今も悩まされている始末。それでも亡くなってしまったお子さん達のことを思うと、この幸せに感謝せずにはいられません。この経験は私にとって、非常に沢山の意味を持っています。多くの経験がそうであるように、子どもの入院もまた、人に何ものをももたらさずに過ぎることはありません。
私は自分の子どもを持つまでは、決して子ども好きとは言えない人間でした。小さな子は、確かにかわいいけれど、それ以上にうるさい。世話は面倒くさいし、何と言っても彼等には理性がない。できればあまりお近付きにはなりたくない存在だ。それにしてもこんなことでは、将来子どもを産むなんてとんでもない話なのでは―そう思っていた私でしたが、結婚し、妊娠ということに相成りました。
好きな酒が飲めない、重い、オシッコが近い、足の爪が切れないなど、不平不満を言いながらも、大きくなるお腹や、その中でたまに蹴とばし手をふりまわす存在が珍しく、なんだかだんだんと、その気になっていきます。出産は死ぬ程苦しく、母子手帳に「安産」と書かれても、全然納得できない。「冗談じゃないよ。死ぬとこだったよ」などと思いつつも、お風呂に入れられて上気した、まだ目も開かない我が子を改めて見たとき(生まれた瞬間は、自分のお腹に入っていたのがスイカとかではなく、本当に人間だったという驚きと、長年の便秘がやっと通じたかのような安堵感で、それどころではなかった)私はなんてこの子を愛しているのだろう、と突然強烈な思いが胸にこみ上げ、その瞬間に私は、イキナリ普遍的な母親になりました。
普遍的―というところがミソ。もう、どんな子どももかわいくなり大事になり、子どもが死んだなどという新聞記事には、涙まで流すといった有様。6月の出産から2ヶ月後に、広島、長崎の原爆の日や終戦記念日があり、その手の番組がよくテレビで放映されたりしたのも災いして、私はすっかり鬱状態になりました。当時タレントのアグネス・チャンが、アウシュビッツなどに行き、子どもの遺品を見ては泣いていたのを、新聞、雑誌で批判する投稿等よくありましたが、私には彼女の気持ちがとてもよくわかりました。とに角、子どもがひどい目に遭うのは許せない。皆、うちの、このかわいい息子と同じなのだ。そう思うこと自体は善いことなのでしょうが、でも、実際には多くの子どもが日々死にます。そういう世の中、自然のしくみであるということは否定できないわけですから、どうしても落ち込むことになります。
元から少々鬱病気味だった私ですから、もう殆ど逃れようがありませんでした。善いもの、美しいもの、素晴らしいもの。いろいろあるけれど、いずれは全て滅びるのだという思い。幸福は長くは続かない、こんないい子を授かったからには、ひどいしっぺ返しをくらうのではないか。そう、この子を失うのではないか―そんな恐れが心に巣くい、私は、かわいい子どもを抱いて、必ずしもしあわせとは言えなかったかもしれません。また、初めての育児に対する不安や、夫の無神経さへの苛立ちから、必要以上に子どもを叱っては後悔する。勿論そんなことは、どの母親にも多少なりともあるでしょうが、私が本当に救われなかったのは、心の底にべっとり貼りついた、暗い思いのためでした。
幼稚園に通い出した息子が風邪をひき、それがちっとも治らない。医者を何度も替えて、やっとマイコプラズマ肺炎に感染していることがわかり、抗生物質が出されてそれはすぐに治ったものの、貧血がひどいと言われました。心配のない貧血とは思うが、何かの拍子に悪化したりするといけないので、定期的に検査をしていきましょう、ということになり、1ヶ月。2ヶ月目の検査では、もう既に白血病細胞が、末梢血中に現れていたのでした。
夏休みの終わり、血液検査のあとすぐに一家で私に実家へ行き、1泊して次の日の夜、帰ってみると、玄関の扉に貼紙がしてありました。検査に通っていた小児科の先生が、検査結果が良くないので、夜中でもいいから至急連絡を、といった内容のメモを、わざわざ貼りに来て下さったのでした。
すぐに電話をかけ、次の朝一番に来るように言われ、その足で、紹介された病院に入院しました。完全看護なので、夫と私は帰らなければならず、4歳だった息子は当然泣きます。でもそのときは子どもがかわいそうよりも、入院は長くなるのだろうかよりも、ただただ、何の病気なのかということが気になっていました。貧血ということから、私の頭には「白血病」という病名が、その時既に浮かんでいました。けれども口に出すのが嫌で、夫には話しませんでした。また、正直なところ、子どもの白血病は7割治ると聞いていたので、最悪でも白血病であってほしい、他の、治らないような病気よりは、という思いもありました。
次の日、私は夫と共に、病名の告知をうけました。「白血病です」と言われ、私の心は何も感じていませんでした。空白でした。予想だにしていなかったらしく、脳天気な夫は、「白血病!!」と言ったきり絶句しています。ふと見ると、横で記録をとっていた四十代ぐらいの看護婦さんが、ハンカチでさかんに目頭をおさえています。甘かったのだろうか、白血病ならいいだなんて。これは、治らないということだろうか。本当にそのとき、比喩ではなく、実際、私の身体から、サーッと血の気が引くのを感じました。けれどもはっきりさせなければならない。夫は黙ったままなので、予測していた分、多少は冷静でいられた私が、「数ヶ月や数年で生命にかかわるというようなことは?」と聞く。「それはおそらくないと思います」―とりあえず、神様、ありがとうございます。「輸血で肝炎やエイズに感染するといった危険は?」「現在はそういうことはまずないと言っていいでしょう」―もういい。もうこれ以上は望みません。
それでも、白血病の詳しい型がまだわからなかったこと、入院はおそらく1年以上になること、治療が辛いときでも、親は病院には泊まれないことなど、不安材料が多く、帰り際、泣いてすがる息子を抱きしめたときは、涙をこらえることに困難を感じました。それでもしっかりしていないと、息子に勇気を与えられない気がして、普段通りに平気な顔で、わがまま言うんじゃないとでもいうように、さあお利口に看護婦さんの言うことを聞いてね、と言うのは、本当に辛いことだった。こんな辛いことがあるのだろうか、どうしてこんなことになったのだろうか。
どうして ― それは勿論、私の責任に決まっていたのです。
(つづく)
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