ポコ・ア・ポコ(少しずつ、少しずつ)
あなたは子どもたちを見ているか



女「わたしはヒロシマを見た」
男「いや、きみはヒロシマを見てはいない」


「二十四時間の情事(原題・ヒロシマ わが愛)」というアラン・レネ監督、マルグリット・デュラス脚本の映画のなかの科白です。日本ではあまり知られていないようですが、フランスでは「反核映画」として有名なのでしょう。昨年、国際的反対を押し切って強行されたフランスの核実験のさい、ルモンド紙がケロイド状になったシラク大統領の写真を大きく載せ、その下に「シラク わが愛」と書いているのをテレビニュースで報道していました。

 もう30年以上昔、高校時代に観た映画ですから、内容はうろ覚えですが、次のようなものだったと思います。

 女はフランス人の女優で、ヒロシマでドキュメンタリーの撮影に出演しています。男は、原爆で家族を失っています。女は撮影の為、原爆関連の様々な場所に行っています。だから「ヒロシマを見た」というのです。ではなぜ男は「君は見ていない」と言い切るのでしょう。原爆ドームや資料館、平和公園に行ったからといって、原爆そのものを原体験することはできません。あくまでも知識として見て知っただけなのです。実際に体験したことのない人間が、どのようにして相手の苦しみ、悲しみを理解し、またそれを分かち合うことができるのでしょう。

 男と女はヒロシマで出会い、恋をし、別れます。女は男にヒロシマについて語ります。あるときはベッドで。あるいは街で。しかし男はそれを聞こうとはしません。男が初めて耳をかたむけたとき。それは女が自身の初恋を、戦争体験を話したときです。

 フランス人である女が、ヌベールという村で若いドイツ兵に恋をします。それは反祖国的で狂気の恋です。戦争が終わり、ドイツ兵は殺され、女は頭を剃られて地下室に幽閉されます。女はその恋を忘れようと務めます。生きつづけるために。しかし忘れることはできません。女はその苦しみと悲しみをとおしてヒロシマを見ます。そのとき初めて女にはヒロシマが見えるのです。ヒロシマそのものが。そして、ヒロシマを、ヌベールを見つめきったとき、女は忘れ始めます。狂気の恋も、ヒロシマでの恋も。


女「ヒロシマ。それがあなたの名前よ」
男「きみの、きみの名前は、ヌベールだね。フランスのヌベール」


 わたしは子どもたちの問題を考えるときいつもこの映画を思い出します。子どもたちの苦しみ、悲しみを理解すること。それは、わたし自身の苦しみ、悲しみとしっかり向かい合うことでしか、可能にはならないのだと。

小池 彰




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