本書「砂の戦士たち」の出版は1937年と半世紀以上も前です。しかし、ストリート・チルドレンの姿を生き生きと描いた内容は50年以上の時の流れを全く感じさせない新鮮なもので、初めてポルトガル語で読んだときの感動は今も忘れられません。
作者のジョルジェ・アマードは1912年生まれで、現代ブラジル文学を代表する作家です。その作品は民衆的な題材と巧みなストーリー展開で知られ、世界45か国語に翻訳されています。「砂の戦士たち」は25歳の時の作品で、5作目にあたります。ベストセラーとしてはカカオ景気に沸いた1920年代のイリェウスの町の人間模様を描いた「ガブリエラ、丁字と肉桂」(1958)などがありますが、複数のブラジル人の友人に聞いたところ、「砂の戦士たち」が一番好きだという一致した意見でした。
私がこの作品を翻訳したのは、取材先として訪れた長野県更埴市在住のブラジル人佐藤マーガレット氏から3年前、現代ブラジルの社会問題を浮き彫りにした作品として、翻訳を強く薦められたのがきっかけです(彼女は日系二世で、在日ブラジル人の母親向けにポルトガル語のミニコミ誌を発行しています)。作品自体はその2、3年前に読んでおり、その後現地のサルバドールも訪ねて、その風土に魅了され、いつか紹介したいと思っていたのですが、分量が多いので二の足を踏んでいたのです。
そうして一昨年の暮れから翻訳を始めましたが、順調というわけにはいきませんでした。一つは時間的な制約で、毎日の勤務のうえ、昨年春から週一回地元の短大講師(スペイン文学)を引き受けたこともあり、翻訳に十分な時間をとることはできませんでした。
もう一つは、内容的な問題です。作品はブラジル北東部の古都サルバドールを舞台に展開するのですが、独特の文化伝統を持つ黒人系の人々の世界が描かれていて、アフリカ起源の様々なオリシャ(神)や実在の人物が多数登場します。これは一般のブラジル人に聞いてもわからないし、日本語で書かれた本も見当たらなかったので、結局、上智大学の図書館からポルトガル語の本を何冊も借りて勉強しました。
それでも昨年暮には一通り本文を訳し終え、それから約半年をかけて佐藤氏の協力を得て疑問点を洗い出し、解説も付けてこのほど出版にこぎつけることができました。
訳者としての一番の思いは、作品に登場する子供たちの声にならない声に耳を傾け、そして、痛みを受け止めてほしいということです。この作品はフィクションであり、実話ではありませんが、私はノンフィクション以上の訴えるものを持っていると思います。
登場する8人の少年の結末はさまざまです。グループの首領ペドロ・バラは労働運動家に、読書家で絵の才能をもつプロフェソールは画家に、信心深いピルリトは修道士に、大柄な黒人のジョアン・グランジは船乗りに、一方、おしゃれなガトは詐欺師に、楽天家のボア・ビダはならず者に、奥地出身のボルタ・セカは山賊に、足の不自由なセンイ・ペルナスはエレベーターから身を投げて死にます。また、疫病で両親を亡くし、途中からグループに加わった少女ドーラも病に倒れます。
私がこの中でもっとも印象に残ったのはセンイ・ペルナスです。彼は障害を持ち、幼いころからたびたび虐待され、人生の傷をあまりに受けているので、善意を素直に受け取れなくなっています。そんな彼にも何度かみじめな境遇を脱するチャンスが巡ってくるのですが、世の中のことを誰よりもよくわかっている彼は、自分には居場所がないことを知り、最後にみずから死を選ぶのです。
この作品のもう一つの特徴は、バイア地方の民衆、特に黒人系の人々の世界を描いていることです。黒人というと、音楽やスポーツを連想しがちですが、ブラジルの黒人系の人々は高い文化伝統を持っていることで知られています。ブラジル文学の父といわれ、「ドン・カスムーロ(はにかみ屋)」などの名作を残したマシャード・デ・アシス(1838-1908)は、黒人の血を引く人ですが、ブラジル文学アカデミーの初代会長となり、役人としても農務大臣まで務めました。また、奴隷制自体もブラジルでは、奴隷が主人の単なる財産として扱われた米国と違い、カトリック教会の影響のもとに一定の人権が認められ、法律で決められた公休日があり、奴隷自身が貯めたお金で主人から自由を買うこともできたのでした。そうした歴史が「人種差別が存在しない」といわれる現代のブラジルにつながっているのです。
私は2年前、19世紀スペイン文学の名作「マリアネラ」(ペレス・ガルドス作)を彩流社から翻訳、出版しました。スペイン北部カンタブリア地方を舞台に、みなしごの少女マリアネラと盲目の若者パブロの愛と苦悩をつづった悲恋小説で、作者は科学の進歩と人間の幸福といった問題とともに、孤児をめぐる社会的不公正の問題をテーマに取り上げています。
一方、ラテンアメリカ文学には、「砂の戦士たち」以外にも、バルガス・リョサ(ペルー)「都会と犬ども」(集英社)、ホセ・マリア・アルゲダス(同)「深い川」(現代企画室)、イサベル・アジェンデ(チリ)「エバ・ルーナ」(国書刊行会)、マヌエル・プイグ(アルゼンチン)「リタ・ヘイワースの背信」(同)など、子供を主人公にした名作がたくさんあります。いずれも文学的に優れた作品で、ラテンアメリカ社会の抱える矛盾がさまざまな形で表現されており、読みごたえのある作品です。
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