9月のある日、ふたたび、なつかしい子どもたちに会えた。ペドロ・バラ、ジョアン・グランジ、ガト、ピルリト、プロフェソール、ボア・ビダ、センイ・ペルナス、少女ドーラ、それから、ジョゼ・ペドロ神父にも。バイア市の波止場にある、子どもたちが眠る古い倉庫。それを静かに照らしている月の光と、波の音。いや、プロフェソールはまだ眠ってはいない。彼はいつものようにろうそくの明かりで本を読んでいる。ジョアン・グランジが彼の傍らで待っている。読んだ後で、彼に語ってくれるのを。
ブラジルの作家ジョルジェ・アマードの『砂の戦士たち』に出会ったのは今から2年ほど前のことになる。アマードのいくつかの作品を読み、わたしは彼の目を通して描かれる人間の、命の輝きとも呼べるようなもののとりこになっていた。そして『砂の戦士たち』の子どもたち。アマードは彼らのひとりひとりを実に丁寧に、愛情を込めて描き出している。
「ストリートチルドレン」という言葉を知っていたにもかかわらず、読んでいるときも読み終わってからも、その概念と結びつかなかったのは、いま思うと妙なことだが、これはやはりどこか自然な経緯であった。アマードはこの言葉の私たちに与えるある概念からフォーカスしていく手法を採っていないのだ。いきなり、命の原点に焦点をあてている。そして、私たちがずっと離れて遠くから彼らを見るとき、彼らは「ストリートチルドレン」と呼ばれる群集になるのかもしれない。
ただ一つだけ残念でならなかったこと、それは、感動したからといって誰にでも薦められるものではなかったこと。私の読んだのはスペイン語版で、日本語版は出ていなかったから。「少なくとも『砂の戦士たち』は、翻訳してくれる人が現れるのを期待している」と、私が何度も繰り返していたのを親しい人たちは知っている。そして、この9月、ついに日本語版が出たのだ。
前田 美根子
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