日本とメキシコ―
子どもの居場所

工藤 律子(ジャ−ナリスト)



 先日テレビ番組で、「いじめ」をテ−マに子どもたちの声を紹介していた。なかで、いじめに悩んでいる或る少女が、こんな言葉を吐いた。
「私、家にも学校にも、どこにも居場所が見つからなくて・・・」
 彼女はそう言うと、黙って泣き続けた―



●自分の居場所

 東京での下宿暮らしを始めて6年目。大学院3年目を迎えようとしていた春休み、私は久しぶりにメキシコを訪れた。大学2年の時に10か月間留学して以来のことだった。 2か月ほど滞在してメキシコシティをあちこち歩きまわり、大学生や若い芸術家、貧民街に暮らす労働者や主婦など、様々な人たちと知り合った。

 帰国前夜、友人たちが開いてくれたお別れパ−ティ−の席で、私は突然「帰りたくない!」とつぶやき、泣きだしてしまった。

 「どうしたの。また来ればいいんだから、さあ泣かないで。ね?」 みんながそう言って慰めてくれる。が、私の寂しさは消えなかった。日本に帰れば大学の友人たちに会えるのに、なぜこんなに帰りたくないのか?自分でもよくわからなかった。

 翌朝、私は渋々飛行機に乗った。

 その年の秋、そして翌年の春と夏、そのまた翌年の春と秋と、私はメキシコに通いつめた。行くと必ず、メキシコシティ南西部にある貧民街「ドス・デ・オクトゥ−ブレ」を訪ねた。それは、当時私の研究テ−マが「都市貧困層の生活改善運動」だったせいもあったが、何なによりそこが居心地がよかったからだ。

「ドス・デ・オクトゥ−ブレ」の友人たちは皆、手に職がないために良い仕事につけず、日本円で1万5千円にも満たない月収で、粗末な家に暮らしていた。地方の農村出身者が多く、幼い頃から働いているため、小学校も卒業していない人がざらだ。今や「総中流層」と言われ、収入や教育の面で世界的にも高水準にある日本人とは、全く異なる環境で育った人たちだった。

 にもかかわらず、彼らは、まるで昔からの知り合いのように私と親しくしてくれた。お互いの育った環境がひどく異なることは、話せば話すほどよくわかったが、それは一つの「デ−タ」に過ぎなかった。彼らは、日本同志にありがちな、おたがいの立場にこだわったり、共通の環境・認識という枠に頼った人付き合いはせず、ただあるがままの自分を表現し、相手を理解しようとした。そのおかげか、私たちはお互いに褒めたり、批判したりできる、とても正直で自然な関係を築くことができた。だから、居心地がよかった。  日本人は今、子ども時代から、余りに多くの共通認識や型、知識を押しつけられ過ぎている。自分自身で模索して得た結論でもない事柄に、無意識のうちに振り回されて過ぎている。人間関係のつくり方までが一種のマニュアル化しており、「とんでもないヤツとのとんでもない友情」といったものが生まれにくくなっている。

 子ども同志ですら、○○塾に通う子、成績が○○な子、○○を持ってる子、というふうに、大人と同じように相手の立場や条件を意識して、付き合い方を決めている節がある。あるいは意識する以前に、大人の意図や教育制度によって、付き合う相手が選択されていることもある。今の日本では、あらゆる前提条件を抜きにして、自然に相手と知り合い、接し、心を通わせるという事が、とても難しい。

 もちろんメキシコでも、貧富の差をはじめ、社会的条件を意識する傾向は強い。特に裕福な人たちのあいだでは、それが顕著だ。しかし、貧しい庶民のあいだでは、少し違う。彼らは、いい加減な教育制度と生活に追われる親たちのおかげで、子どもの頃から誰にも何の細かい指導も(おせっかいも)受けずに生きているため、物事はすべて、生活のなかで自分自身や仲間同志で体験し、考えた事に基づいて判断し、行なう。だから、人間関係も、共通のデ−タやマニュアルなど抜きの、個人と個人のふれあいを通して築く。

 かつて私が「日本に帰りたくない」と感じたのは、そんな自然な人付き合いに、たまらなく魅力を感じたからだろう。日本社会の枠から離れ、ふれあいだけを通じて生まれた人間関係の中に、私は初めて「ここに居たい!]と率直に思える「居場所」を発見した。

●ストリ−トという居場所

 メキシコの都市貧民街に暮らす大人のなかには、「ドス・デ・オクトゥ−ブレ」の友人たちとは異なり、失業や貧乏の苦しみに耐えきれず、アルコ−ルや麻薬に走ったり、暴力をふるったり、夫婦の不和をもたらしたりして、家庭をメチャメチャにしてしまう人もいる。そんな時、子どもは家を飛びだし、ストリ−トで暮らし始める―


 マルセリ−ノはその夜、メキシコシティの北部バスタ−ミナルで一人、大画面テレビの映像を見つめていた。床に坐り込み、水辺を行進する美しいフラミンゴたちに見入る。
「すごくきれいだろ」
 こちらを見てそう言うと、すっくと立ち上がり、乗客待合室へ向かって歩きだした。 「あそこのゲ−ムをしようよ」
ゲ−ム機を目指して進む。と、たどりつく前に、脇にあるアイスクリ−ムショップを指さし、甘えた声で言った。
「アイスが欲しいなぁ」
 一つ買ってあげると、壁にもたれてペロペロやりながら、満足げに辺りをキョロキョロ見回した。時々、私のカメラをいじくりまわしては、無邪気な笑みを浮かべる。

 まもなくアイスがなくなると、少年は空のカップを覗き込み、寂しげな顔をした。

 十歳のマルセリ−ノは、家を飛びだし、一人でストリ−ト暮らしを続けていた。バスタ−ミナルに集まっているほかのストリ−トチルドレンたちとも時々は遊ぶが、基本的には一匹狼。ここで働く大人の手伝いをしては小遣いを稼ぎ、ジャンクフ−ドを買って腹の足しにしている。お菓子が欲しくなったら、売店から失敬することもあるが、大した物は取らないので、大人は大抵見逃してくれる。こうして毎日、昼間は街中、夜はバスタ−ミナルをウロチョロして過ごしている。楽しみは、ゲ−ム機で遊ぶことと、バスタ−ミナルのゴミを回収するオジさんの手伝いをすることだ。

 私たちと出会ってから数日目の夜、マルセリ−ノは突然バスタ−ミナルから姿を消した。調べると、政府のストリ−トチルドレン保護施設に入れられていた。施設職員の話では、彼はもう何度もそこに入っては脱走を繰り返しているという。訳を尋ねると、マルセリ−ノはしょんぼり顔で一言、
「バスタ−ミナルに帰りたい・・・」
とつぶやいた。

 施設の所長の説明によると、マルセリ−ノの家庭は父親が長距離トラックの運転手で家にほとんど居らず、母は蒸発したきりのため、彼は二人の妹と共に家政婦をしている祖母に育てられたということだった。

 探してみると、彼の祖母は、メキシコシティの外れにある荒涼とした空き地に、みすぼらしいバラック小屋を建て、今もマルセリ−ノの妹たちと共に暮らしていた。

 マルセリ−ノのことを話すと、まだ五十前の若い祖母は、
「あの子の居場所がわかるのなら、私が迎えに息ますよ」
と微笑んだ。だが、その様子から本気でないことは察せられた。少しでも家事の役に立つ女の子ならともかく、お金と手が掛かるばかりの男の子を敢えて連れ戻したいとは思わない、というのが本音らしかった。そして予想通り、彼女は孫を迎えには行かなかった。

 結局マルセリ−ノは施設にしばらくいた末に、脱走し、どこかへ消えてしまった。

 同じバスタ−ミナルには、グル−プで暮らす子どもたちもいた。数人の少女を含む、20歳過ぎから下は10歳くらいまでの子どもたち。彼らは、街の中心にある廃屋をねぐらに、20〜30人で共同生活をしていた。何をするにも一緒、というわけではないが、仕事や遊びの時、大きい子と小さい子が兄弟のように助け合っていた。
「グル−プ名は、ロス・オルビダ−ドス(忘れられた者たち)ってんだ」
 リ−ダ−格のネネ(25)は、誇らしげにそう言った。四六時中チェモと呼ばれる接着剤を吸っている彼らは、目がうつろで、言っていることが時々おかしかった。が、みんな気持ちの優しい子で、案外礼儀正しく、私の顔を見るといつも、
「ジュ−ス飲むかい?]
と訪ねては、大きい子が小さい子にお金を渡してコ−ラを買いに行かせ、御馳走してくれた。そして、自分たちも一瓶をまわし飲みしながら、延々と雑談を楽しんだ。
「よせよ。失礼だぞ」
 小さい子が私に物をせがんだりすると、ネネが怖い顔をして叱った。欲しいものがお菓子や飲み物だとわかると、ポケットからお金を取り出し、
「ほら、これで買ってきな」
と手渡した。

 そして、別れ際には、必ずこう言って私に握手を求めた。
「また遊びに来てくれよ。待ってるぜ」


 マルセリ−ノやロス・オルビダ−ドスの子どもたちは、ストリ−トに自分の居場所を見いだしていた。ストリ−トには、同じ思いで暮らす仲間や、彼らの境遇に同情してささやかな愛情を注いでくれる大人がいるからだ。そこには何かと危険も多いのだが、大切なのは、彼らが少しばかり心を許し、頼りにできる「人との絆」があることだ。

 家族の愛を与えることを放棄した「家庭」や、お役所的なサ−ビスのみを提供する「保護施設」は、ストリ−ト以上の「居場所」を子どもたちに与えることができない。子どもたちが求めているのは、家族の「体裁」や「制度」ではなく、「絆」だからだ。ストリ−トに暮らす子どもたちはいつも、人との絆を求めて街を徘徊している。

●みんなの居場所

 93年の夏、私は生まれて初めて本を出版した。今では共に「ストリ−トチルドレンを考える会」という会を運営することになった相川さんという方の発案だった。

「日本の子どもたちとメキシコの子どもたちの問題を、同時に分かりやすく提起し、考えさせるような話にしたいんだが ―」

 相川さんは、私を前に、熱心に出版の意義を語られた。

 自分にそんな物語を書く力があるだろうか。私は余り自身がなかったが、相川さんの考えには大いに共感を抱いた。日本で育った自分がメキシコを通して学んだこと、疑問に思ったこと、どうしてこうできないのだろう、と焦れったく感じていることを、物語に書き込めたら―。そんな思いで、本の執筆を引き受けた。

 そうして出来上がったのが、日本の高校生とメキシコのストリ−トチルドレンの友情を描いた『とんでごらん!―ストリ−トチルドレンと過ごした夏』だ。この本を書くことを通して、私は改めてこんなことを考えた。

「出身、学歴、職業、国籍など、あらゆる前提を抜きにして、もっと人が考えや気持ちを分かち合い、助け合うことはできないだろうか。そうすれば、より多くの人との絆が生まれ、みんなが居場所を見いだせる世界を築くことができるのではないだろうか―」  メキシコの友人たちとの出会いによって、私は人との絆の大切さを知り、自分の居場所を見いだす術を知った。しかし、日本の子どもたちの多くは今、自分の居場所が見つからず、もがき、苦しんでいる。また一方で、世界のストリ−トチルドレンは、本当に相応しい居場所を見つけることができずに、今日もストリ−トを彷徨っている。

 みんなが居場所を見いだせる世界。それを築くには、まず私たち大人が、お互いの先入観を捨て、もっと自由に言葉を交わし、思いを分かち合い、助け合う努力をすることが必要なのではないだろうか。大人が小さな枠にこだわり続け、人との絆を築く努力をしないでいる限り、子どもは自分の居場所を見いだす機会にすら恵まれない。



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