重度障がい児をもつ母親に聞く
教育の本質が変わらなければ…
普通学校で過ごした9年間

話し手 杉山 美奈子



 マリイちゃんに初めて会った時、「わぁ、なんて美しい瞳をしているのだろう」と私は思いました。彼女の小さい体は曲がっています。けれども、ぱちっ、ぱちっ、とまばたきする澄んだ瞳に引き付けられてしまいました。

 マリイちゃんは脳性マヒで、身体障がいと知能障がいが重複する重症心身障がい児です。言葉をしゃべることはできませんし、とても強い光以外はほとんど見えません。発作や内臓障がいもあります。

 けれども養護学校ではなく、一般の学校に通っています。15才、中学3年生の女の子です。障がい児にとって教育はどのようであることが望ましいのでしょうか。マリイちゃんのお母さんにこれまでの学校生活等についてお聞きしました。

(聞き手:渋谷 知範)



─ マリイちゃんはどのように1日を過ごしているのですか。   

「薬の関係もあり、決まった時間に食事をするので生活は規則正しいです。食事は流動食です。飲み物は冷たいジュースや牛乳は苦手なので、お茶など暖かいものを与えています。マリイはたった今ニコニコしてたかと思っても、突然大きな声で泣きだし、私の手には負えないくらい突発的な強い緊張がくることがあります。朝など、車椅子に乗れないくらい強い緊張がきて学校に遅刻してしまったこともありました。肝臓障がいがあるということで薬を減らしたので、最近夜眠れないことが多いのです。」


─ 重症児の介護はご家族の方にはとても負担であることも多いと思いますが、どのようなことを感じられていますか。

「マリイの場合は赤ちゃんの時に病気になったので、15年間付き合ってきました。中途障がいのように突然障がいをもった方は大変でしょうが、私の場合は当り前になってしまっています。マリイに対しては、介助が必要なので接している時間がとても長く、異常にかわいがってしまったところがありました。それが原因で上の子は体調を崩してしまったこともあります。」


─ どうして養護学校ではなく地域の学校に通わせようと思われたのですか。

「養護学校がバスで1時間半もかかる遠いところにあり、それがどうしても嫌だったのです。車椅子に乗るだけで泣いてしまうマリイをバスに縛り付けて行かせることはできないと思っていました。どうしてこんな遠くまで行かなくてはいけないのか。こんな近くに学校があるのに。後は、こんな例もあるんだよ、という周りの情報でした。」


─ 障がい児が一般の学級で学ぶということはあまり例がなかったと思いますが。

「知的なものと身体的なものとが重複しているいわゆる重症児が普通学校に通うのはマリイの年代が始めてです。同じ学年にはあと2人障がい児がいます。3人は小学校にはいる前には、幼稚園の様な通所施設に通っていましたが、最後まで入学通知書が届くことはありませんでした。けれどその3人が最後まで学校に通い続けることになりました。卒業ももうすぐです。」


─ マリイちゃんの9年間の学校生活はどのようなものだったのですか。

「小学校4年までは楽しい思い出がありました。例えば学校の行き帰りには15分くらいかかるのですが、近所の子どもたちがよたよたと車椅子を押して行ったりしていました。また誕生会に呼ばれることもあっりました。勿論私も一緒に行かなくてはなりませんが。でも養護学校に行っていたら遠いですからその様な関わりはないでしょう。低学年のころはやはりのんびりしていました。たまたま空教室があったのでマリイのためにそこを与えられていたのですが、授業が嫌になってしまった子とか皆がそこで遊んでまた廊下にでたりとかいう、ざわざわとしたいい感じがありました。

 しかし5年生になった時にその様なことが禁止されてしまいました。寒くて外で遊びたくない日にはマリイのいる部屋に来ていいことになっていたのですが、『そこでしゃべってても駄目だ』、放課後も、『そんな暇があったら高学年なんだから委員会の仕事をしなさい』。きまりとか言ってわかるような年ごろになると先生も言うし、他の子も先生に怒られたり言い付けられたりするのが嫌だからそれに従ってしまいます。だんだん来なくなってしまいました。何かぱったりと疎遠になってしまたのが5年生のときでした。

 教師の在り方で変ってしまったのです。その時の介助員の人の影響もあったかもしれません。『君たちは外で遊びなさい、マリイちゃんは寒いから教室の中』。1度その様な状況ができてしまうと、もう変わることが難しくなってしまいました。

 中学生になってもその様な感じだと思います。ただ、介助員の制度がしっかりしてきたので、学校でどの様なことが行われているのかを私自身で目にすることがなくなっててしまいました。学校に色々言っていく機会もなくりました。お友達との関係など中学校でいったいどの様になっているか、介助員の人から聞く程度でよくわかりません。」


─ 介助員とはどのような人なのですか。

「障がい児の学校の中での生活を任される人です。特にマリイの場合にはおむつがえや水分補給が必要です。急に泣きだしてしまった時など控室に連れて行きます。授業中は必ずしも一緒に教室にいる訳ではありません。ノートを代わりにとってあげるようなこともします。」


─ 中野区で介助員制度が作られたのはいつごろからですか。

「10年位前からありましたが、ちゃんと制度化されたのは最近のことです。最初のころは教育委員会のほうの受け入れ拒否が強く、介助員を付けるということは受け入れを認めるということにつながる為、なかなか簡単にはいきませんでした。急に介助員が来ない場合もあり、空白になってしまうこともありました。元々の法律としては別学なのでなかなか認めたくはないのでしょう。初めはあまり長くいるとは思ってなかったらしく、区の方から介助員を付けるという話も当然なかったです。『マリイちゃんが学校へ来る場合にはお母さんも一緒に来てください』という言い方をされました。マリイの介助の為に親以外の人が入れ替わり立ち替わり学校へ訪れるという方法で、やや圧力をかけたところ、ようやく1学期の終わり頃から介助の人が付くようになりました。」


─ どのような制度になっているのですか。

「今マリイに付いている介助員は19才の女の人です。賃金が安いのでそれだけで生活して行くことは難しいので夜にアルバイトをしています。しかも半年できられてしまうのです。

 介助員は6ヶ月間しか働くことができません。継続を希望しても、もう6ヶ月間待たなくてはならないのです。しかし半年後にまた介助の仕事をするということは大変難しいことです。」


─ 介助員を正規の職員として認めて登録していく制度的保証が必要なのではないですか。マリイちゃんにとっても6ヶ間毎に人が変るよりも継続して同じ人が介助していくことが望ましいと思いますが。

「アルバイトの立場から昇格して1年間できるようにと陳情した人もいます。しかし元々が受け入れを認めていないので、制度として認めてしまうということがないのです。それにある程度勉強ができる子であったら、友達や教師との関係で介助員は付けない方がいいということもあります。また、今の40人の生徒に対し1人の教師という体制では、どうしても介助員が必要なのですが、マリイのような重度の子はとても少数です。その様な子はどうしても養護学校へ行ってしまい、後が続かなくなってしまいました。ここも制度として確立していくことの難しさの一つです。いろいろな問題を積残してしまった気がします。」


─ マリイちゃんたちに対して周りの生徒や先生の様子はどのようでしたか。

「生徒は気持ちのどこかでは、マリイたちが同じ学校にいるんだという気持ちがあるのかもしれませんが、どうも無視しているようにしか受けとれなかったです。それを助長しているというか、その様な雰囲気を作ってしまっているのが教師であるように感じました。挨拶を介助員やマリイちゃんに対してほとんどかけませんでした。

 いじめは一応ないです。帰ってくる反応があまりないので、他の生徒もどのように手を出したらいいのかわからないのではないでしょうか。全体がマリイちゃんのことを無視した状況になってしまっています。

 しかし、車椅子が逆向きされ、1人だけ後ろの黒板の方を向けさせられていたことがありました。これはいじめなのかもしれません。また、給食の時間に1人だけ別の教室で食事をさせられたこともありました。許せないことです。さらには、合唱の練習の為に全員別な教室へ、勿論教師も一緒に移動した際、マリイちゃんだけが1人教室に置き去りにされてしまったこともありました。さらにその教師は教室に鍵までかけてたのです。もしもの場合どうするのでしょうか。火事になってしまった場合や、あるいはマリイに発作が起きてしまった場合に。」


─ その教師の資質に対して疑問を感じます。

「介助員がいなっかたら、全ての責任が教師に降りかかってしまうので、その様なことはたぶん起こらなかったと思います。しかし介助員がいるということで、教師は一切マリイとの関わりを持たなくて良いことになってしまいました。この点で介助員がいて良いのか悪いのか議論がありました。ただ、マリイの場合は副坦の制度があれば別ですが、一人の先生がうまくとりまとめていくことは難しいのではないでしょうか。また一人の先生の資質というよりは学校全体がその様だと思えてしまいます。」


─ 教師や学校の行事などを通して良かったことはどんなことですか。

「1〜4年のときの養護学校から来た若い先生は、介助員の方が変わる度にお別れ会をやってくれました。その時はマリイが主役になれるのです。写真もとってくれました。今思えばいい先生でした。学芸会で劇をしててもマリイはわからず寝ています。それでも、舞台にあげてくれました。役も付けてくれました。数少ないマリイを中心にしたできごとでした。

 しかし、なかなか参加することはできませんでした。提案もしましたが、学校はやはりすぐに効果の期待できないものはやれないという思いがあるようです。」


─ 一般の学校で重症児のマリイちゃんが学ぶことを通してどのようなことを望んでいましたか?

「1番期待していたことは友達との関係でした。小学校低学年のころ危なっかしいのにも関わらず、車椅子を押して学校へ行ってくれる子もいて、とても希望も持てました。大きくなるにつれてマリイとの体格差もでてきた時、今の介助員がしてくれる様なことをこの子たちがやってくれるのではないかと。しかし、逆にその関係がぷっつり切れてしまったのです。私自身も、学校がだめなら家に友達が来ている状態にするなどもう少し努力が必要だったかもしれません。とても残念です。マリイが1年生になった時はこれからはとても変わっていくのではないかと思っていましたが、現実はそうではありませんでした。教育の本質が変わらない限り難しいです。

 普通学校にも様々な問題があります。養護学校の閉じた生活が良かったのか、普通学校が良かったのか。あまりきれいに言い切れるものではありません。ただ、養護学校は手厚い保護の場所ではないのです。教師の生徒に対する体罰や虐待の例も数多いのです。」


─ 最後に一般の人々、あるいは地域との交流において、この様であったらいいなぁという希望はありますか?

「個人的には何もできないのですが、ちょっとした集まりの中でたまり場を作っていこうということになりました。来年で義務教育も終わるので、学校を出たとき、どのように生活していくかという問題にすでに直面しています。作業所や一般企業に勤めることもできないので、マリイの場合には生活実習所に通うか、在宅しかないのです。その様なとき、毎日をどのように過ごすかとても悩んでいます。『障がい児による作って食べよう』という交流会は、たまり場ができる前にこれから少しずつ初めていこうとする活動の一つです。障がい者と一緒に買い物へ行き、作ったものを地域の人にも配る。今まであまり一緒に買い物に連れて行ったことがなく、近所でもマリイのことを知らない人もいます。それにきっかけがないと関わりあいを持つことは難しいものです。一緒に何かやるとか、どこか行くといった機会があれば付き合いもでてくるのではないでしょうか。

 誰かの家を改造し、そこは誰でも行けるような場所を作りたいと思っています。例えば作業をするとか、能力別の目的を持ってしまうとできる人とできない人がでてきてしまう。だからどんなにマリイの様に何もできなくても、とにかく一緒に買い物に行く、買い物に行って料理を作ったら、今度はお年寄りのところに持っていく。顔を売るだけにすぎないのかもしれないのですが、とにかく『行く』という行為をしようということです。何もできない人に何ができるのか、難しいことですが、話し相手が欲しい方にはそのお宅を訪ね、言葉を話すことはできなくてもその話し合いに参加しているといった、そのようなことをこれから始めて行こうと考えています。」


─ マリイちゃんとマリイちゃんのお母さん、どうもありがとうございました。



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