さあ、まずは長田の子供の話をしよう。
神戸市長田区は、元気な子供が多い。これは実感。なんせ、ちょっと仲良くなると油断するたびに、背骨に飛び蹴りがとんでくる。女の子たちが男の子を「コラ−、ワレ−」と叫びながら追い回している。
震災の都・神戸市は、山口組の御蔭でヤ−さんの本拠地として知られているが、長田区はその神戸市の中でも、いわゆる特にガラの悪い土地として市民に認識されている。また長田は最も低所得層の人が多く住む町で、その構成は約半分が在日韓国・朝鮮人、ベトナム人も1000人ほど居住し、神戸市の中でも一種独特な雰囲気を持つ下町として、アウトサイダ−にも生活しやすい土地柄を維持している。その空間は外部から見ると好ましくないものに思われることもままあるが、内部に身を置く者たちにとっては離れがたい魅力をたたえている。この町で育った子供が、ほかの子供よりたくましく見えるのは当然かもしれない。
震災前から巷でよく知られているエピソ−ドをひとつ紹介すると、小学生が高校生をカツアゲするという実話がある。それはこんな風に始まる。ある日、某小学校の先生がやってきて言ったことには、「ママレモン持った子供に注意してください」だった。先生の説明によると、その小学校の子供たちは、道をやってくる高校生を見つけると、その高校生の目にママレモンを発射して、あまりの痛みにうずくまったところをサっと財布を盗んで逃げていく。これはほんのいち例で、小学生の授業中の集団脱走から始まって、こうしたたくましい子供の話は枚挙に暇がない。そうした話の数々と、生きるエネルギ−に満ちた顔をみていると、今回の震災で子供たちがどんなトラウマを抱えているのか想像もつかない。
でも今回の震災は、子供たちにとってもとても辛い時期だった。その素顔は時々チャンスがあれば垣間見ることができる。今でも忘れがたい震災後の記憶の中に、ひとりの7〜8才ぐらいの少年の顔がある。その子は、ダンプカ−はゴ−ゴ−うなりを上げ、もうもうと大量の埃を舞い上げて走り抜ける商店街の道端に、ボ−ッと立ちつくしていた。その傍らには焼け落ちたア−ケ−ドの残骸が、山になって積み上げられている。彼の目線を追うと、片側半分が焼け落ちた5〜6階だてのビルの3階当たりを見つめている。
その子を見て、思わず話しかけた。
「なにしとんや。そんなとこ立っとったら、あぶないで」。
その子はしばらく無言でいたかと思うと、こちらを向いて目があったとたんに呟いた。
「あそこでおじいちゃんが死んでん」。
そのビルの残った片側は完全に焼け焦げて、煤で覆われている。この地域では多くの人が生きたまま焼かれた。その子の目に、あのビルの煤はどんな色に映っていたのだろうか。そしてビルの周辺の光景は?その区域には、かつて軒を並べていた商店や家が全て焼けつくされて、だだっ広い空間が生まれていた。焼け跡の土の色は茶色で、その上に青い空が広がっている。
救援活動の基礎として、いまも現場での取り組みを続けている西神戸YMCA災害対策本部では、同時に学童保育プログラムも行っている。その子供の集団の中で、震災前と震災後で変わったことのひとつに遊びがある。
例えば震災後にメジャ−になった遊びのひとつに、地震ごっこというのが含まれている。それは机の上に作った模型の町並みを、子供たちの力で叩き壊すというもの。また、生き埋めごっこというのもある。これは、ボランティアのお兄さん、お姐さんを砂場で待ち構えて、埋めてしまうというもの。このどちらも、子供たちが心のうちにある怖いものを表現することで、必死にバランスをとろうとしている行動だと思う。しかし、子供たちの恐怖心が最も強く現れるのは、夜になってからという。
何人ものお母さんたちから聞いた話では、多くの子供たちが寝ることを恐れる。パジャマを着ることを嫌がる。明かりを消すことを拒否する。なかには夜尿症になった子供や、靴を枕元に置いてからでないと眠れない子供もいる。また薄暗い部屋には絶対に入らない子。建物と建物の隙間に入ると、硬直してしまう子。外でにぎやかに、わめきながら走っている子供たちからは、簡単にはその姿が想像できない。
でも、長田の子供たちは本当に元気だ。そのエネルギ−には、ほれぼれする。ここで震災後のエピソ−ドをひとつ。
ある日、その子らは援助物資を貰いに西神戸YMCAにやってきた。いくつかのおもちゃをもって帰ったその子供たちを、つぎに見たのは街の道端。「ひとつ千円、ひとつ千円やで」と道行く人に呼び掛けながら、そのおもちゃを叩き売っていた。当然、いちおう大人の立場としては、怒ったけど。関係者はみんな、その力強さに舌を巻いたものだ。
また震災後には子供たちも水くみなどで大いに活躍した。いまでも、あの頃の一番辛い記憶を聞くと、重い水を運んだことという返事が返ってくる。
長田ではまだまだ子供たちを取り巻く環境はきびしい。失業中の親たちも多いし、学校も避難所になっている所が多い。街の中では工事現場だらけで、遊び場もほとんどないし、工事による空気の汚染や騒音に悩まされている。もともとケミカル産業が主産業のこの街には、シンナ−がたくさん出回り始めているし、友達や肉親を失った記憶は心の中に残っている。そして、どの地域社会にもあるように偏見の目にさらされている子供たちもいる。ベトナム人の子供たちは、そうした意味で二重に辛い環境に置かれているといえるだろう。 どうか、この震災を乗り越えようとする長田の子供たちの姿を見てほしい。その力強さを。どうにもならない辛い環境の中で苦しみながらも、力を振り絞って乗り越えようとする姿を。そして、乗り越えられずにシンナ−や、カツアゲや、その他もろもろの非行という行為に向かう姿を。それがこの下町長田の、本当の復興の意味を語っているのにほかならない。建物が建った、道路が通ったことで、街が復興したことにはならない。この子供たちのそれぞれが、心の中に抱え込んだものを乗り越えられるよう環境を整えてやることが、本当の意味での復興に向かうプロセスだと思う。
以下の「詩」は、長田区の小学校4年生の子どもたちの作品です。
赤ちゃんでも
能美 麻由
一月十七日 じしんがきた
あれから赤ちゃんは音にびんかんになった
ねていてもすぐおきる
だれかが
「じしん」
というと 赤ちゃんは一人で丸くなってかくれる
赤ちゃんでもわかっているんだな
かっこよかったお父さん
楠原 康正
いつもはパチンコ屋で遊んでたお父さん
でも地しんのとき
いつもとぜんぜんちがう
地しんから二週間
まい週日よう
みんなのために見回りにく
さむい中見回っている
お父さんてかっこいいな
阪神大しんさい
伊藤 せり
ねる時 なかなかねられなかった
ねていると
きゅうに地しんが・・・
あわてて ふとんをかぶった
みんなで 下におりた
かいちゅうでんとうをさがした
また 地しんがきた
お母さんが
おし入れの物をほり出して
私たちを入れた
そとへでた
さむかった さむかった
私は 心の中でいいきかせた
さむくない さむくない
さむくないって・・・
水が出た
樽井 暁洋
水が出た
ぼくは じゃ口をひねった
水が出てきた
びっくりした
やっと トイレが流れるようになった
ふるえていた犬
長谷川 麻紀
このまえ じしんがあった
それで おじいちゃんの家にいった
そしたら 犬がふとんをかぶってふるえていた
そのとき犬は いつもよりすごくかわいくかんじた
いためた足 まがるこし
壺井 健輔
じしんがおきた
それからというもの
おばあちゃんは こたつに入らない
「足がいたい」
おばあちゃんは いつもいう
ぼくは その言葉がきらいだ
こしもちょっとまがっている
ぼくは こたつにゆっくり入るおばあちゃんがいい
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