ブラジルの路上で



路上で生活する子どもたち

 第三世界の国の大都市には、路上生活を余儀なくされている子どもたち(ストリートチルドレン)の姿が目立ちます。ブラジルでも800万〜1000万人という東京都の人口に匹敵する数の子どもたちが路上生活へと追いやられています。
 なぜ子どもたちは、路上を生活の場としなければならないのでしょうか。原因は色々あるでしょうが国際的な経済環境もその一つです。富める国と貧しい国があり、貧しい国の中では、ほんの一握りの人たちが富を独占してしまっています。ブラジルでも、貧しい人たちは仕事を求め大都市へ集まり、ファベーラ(スラム)という、今の日本人には考えられないような、ひどい環境の中で生活しています。小さな掘っ立小屋で何人もの家族が暮らし、子どもたちは路上に出て物を売ったり、車が盗まれないように見張りをしたりして働きます。時には、貧しい親よりも収入が多いこともあります。そして貧しさゆえの両親の離婚や、義父の暴力などから逃れるようにして路上へと出ていくのです。

暴行され、殺される子どもたち

 ブラジルの路上の子どもたちは、いつでも「殺される」危険と隣り合わせでいます。少年法が適用されなくなる18歳に近づくと、子どもたちは写真を撮らせようとしません。その写真を手掛かりに殺される恐れがあるからです。殺しているのは、現職の軍警察官を含む「死の部隊」です。街の商店主たちにとって子供たちは、厄介で汚くて邪魔な存在です。「死の部隊」はそういった人たちに雇われています。殺人や暴行は、日常的に起こっています。サンパウロの中心にあるセー広場で、植え込みの中から子どもの骨が発見されました。軍警察は子どもたちの支援者にたいし、それを野犬の骨だと言い張りました。なぜなら彼らは、犯人の側にいるからです。そしてそれは子どもたちに対してだけではなく、子どもたちへの支援プロジェクトへもなされています。支援者への暗殺予告もたびたびありました。1993年7月にリオデジャネイロの中心地カンデラリア教会前広場でおきた虐殺は、世界中の非難を浴びましたが、犠牲者には子どもだけでなく、その支援をしていた若者も含まれていました。

子どもたちの笑顔

 路上の子どもたちを、憐れんだり、特別の目で見たりするのは間違っています。彼らも私達も同じです。笑ったり、怒ったり、泣いたりします。夜の仕事をさせられていた少女は、救いようのない暗い目でインタビューに応じます。路上にいる子は、ひったくりをするため、私たちの隙をうかがいます。でも、私たちを友人と認めてくれると、とても素敵な笑顔で私たちに向かってくれるのです。
 私たちは、「路上の子どもたち」を、死と隣り合わせにいて、夢を持つことのできない子どもとしてではなく、一人の少年、少女として見つめていきたいと思っています。

(プラッサ編集会)



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