People's Plan Forum Vol.1 No.1 (Oct, 1998)
むかし、「プランを持った執行委員」という題の労働者作家が書いた小説を読んだことがあるが、武藤一羊氏はさしづめ、ヴィジョンを持った民衆運動家といえよう。おなじ民衆どうしとして、こういう存在が、親しいなかにも頼もしい仲間とおもえることは、昔も今も変わらない。縁あって、またこういう出会いがあった。ありがたい。
二一世紀目前のいま、民衆運動にとってありうべきヴィジョンとは、どんなものか、それを運動をすすめる側、すすめなければ、自らをふくむ人間社会と地球の総体が壊されてしまう、と考える立場から、くりかえし巻き返し問い、問いつづけ、実例、実見、実行をふまえてこたえようとする、その思索と実践報告と提起の書だ。著者が九二年から九七年にかけていろいろな国際会議でおこなった報告四つを中心に据え、それに「序章――問題の提起」と、著者を囲んでの座談会「だれが世界を変えるのか」を前後に置き、巻末に九六年三月にネパールで開かれた、ピープルズプラン二一世紀大会の「サガルマタ宣言(アジア太平洋民衆の合流――わたしたちが未来を創る)」を付してある。「ヴィジョンと現実」のうち、現実についての理解は、この「ピープルズ・プラン研究」を読む人びとのあいだではそうとう程度、共有されてきているのだろうと思う。しかし念のために、僕がこの武藤さんの本を通じて整理してみた理解を簡略に記しておこう。――ソ連解体、冷戦構造の崩壊後のいま、「地球的権力構造に編成された資本主義」(グローバリゼーション)のもとで、人間社会にとっても地球環境にとっても自己破壊的な状況が全世界に拡散している。今という時代、今の世界をこうとらえるところから探求ははじまる。すなわち、(1)人間の社会・経済活動が地球環境の限界にぶつかり、地球・生態系の破壊が加速度的に進んでいる、(2)「経済大国」「消費大国」としての「北」の諸国ではもちろん「南」の内部でも、急速な都市化がすすみ消費指向の中産階層が出現しつつあるが、他方で農村の崩壊・貧困化と南北格差の拡大はますます広がっている、(3)世界市場における資本の無制限の自由を求める権力システムは、邪魔になる制度や社会慣行や文化を破壊し(国民国家をもそのプロセス推進の機関と化し)、人間社会と地球環境に対する破壊的な影響力をさらに拡大している、(4)かくて、大規模な分業関係の再編成と人間諸集団の再配置が世界大でおこなわれ、一国内部あるいは国境を越える移住労働が飛躍的に増加している、(5)剥奪と蓄積を繰り返すこの支配的プロセスは、その矛先を地球の、また人間社会のあらゆるところに向け、またその矛盾のしわ寄せ先を、もっとも弱いところへ振り向け集中する、すなわち物言わぬ地球環境へ、少数民族へ、農村へ、女性へ、(6)これに対抗して、支配的プロセスの決過程に民衆集団(たとえばNGO、民衆連帯運動など)が介入し、下から換骨奪胎して決定権の実質を民衆が奪権していくこと、これはいまの権力構造の下でも〈いま・ここで〉始め、すすめることができる、(7)こうして、民衆が地力をつけ、課題の多様性に応じて自らの政治的役割を表現する新しい方法を見いだし、国境を越えた多様な連合を創りだすことを通じて、民衆自身による地球規模のオルタナティヴな世界空間をつくる展望がひらけてくる。
こういう話は具体例をまじえてするほうが、わかりやすく伝わりやすいのはいうまでもない。じっさい、そういうところは、ちょっとかしこまって報告をきいている教室に風が吹き込んできて、ひと息つけるような心地がする。それがかりにイサーンとよばれるタイの東北地方の悲惨な現実を具体的にかたりかける話であれば、苦しんでいるそこの農民の姿が近づいてくる分、いっそう説得的になる。モノクロ映像の連続に、スッスッとカラー場面が混じるような。
とくにこの本では、支配的プロセスに対抗し・介入していく民衆主体が生まれる契機とはどのようなものが(とくに「北」の社会内部での)、また民衆運動どうしの連合の可能性をどう切り開くか、民衆連合を必要とする運動的根拠はどのようなものか――つまり総じていって、未来のヴィジョンへの架橋にかかわる部分で、議論が抽象的でわかりにくいと思われるところがあった。たとえば、〈オルタナティヴな民衆の間の関係を実現可能なものとする根拠〉として八九年のPP21で出された「民衆性」(Peopleness)という概念。「それを何と呼ぶかは別としても、人間の間に、憎しみと同じように相互の結びつきが存在しうるし、……この結びつきはコミュニティの中にも個人の中にも働いているし……」〈だぁれが風を見たでしょう?/ぼくもあなたも見やしない/けれど木の葉をふるわせて/風はとおりぬけて行く〉(クリスチナ・ロゼッティ「風」、長谷川四郎訳)というようなものではないか。風を見せるのには、ふるえる木の葉そのものを見せるにしくはないのではあるまいか。だから肯定的な、「検討に値するケース」として、山形県置賜郡にある人口三万三千人の小都市、長井市の「レインボープラン」が、詳しく紹介されているのはよかった。
問題点、というより、われ人ともに今後さらに突っ込んで考えるべきではないか、とこの本に触発されてぼくが思ったところがある。座談会でも問題にされている主体の問題だが、これがとくに問題なのは、「北」の民衆、ことにわれわれの足もとの日本のような国だと思う。具体的にはどうすることが、この日本でほんとうにオルタナティヴな世界を切り開いていく民衆主体を生み出すことにつながるのか。さっきの「民衆性」という概念と関連するが、武藤さんは、民衆による対抗的プロセスがすすむ過程で、民衆をつなぐ〈相互関係の鎖が広がっていくにつれて、それぞれのパートナー集団から見える「世界」というものが、しだいに人間で満たされ、広がり、豊かにされてゆく〉と述べ、これを〈媒介された普遍〉とでも呼んで、〈それはちょうど数百の小さな目から構成されたトンボの複眼のようなもの〉だと、イメージしている。ぼくの懸念は、ここで〈周囲の環境をそれぞれ少しずつ違った視点から〉とらえている〈個々の小さな目〉、つまり単眼が存在していれば、複眼的=普遍的世界像は成立しうるが、はたして日本ではこの単眼がそうとう程度いびつに壊れているのではないか、というところにある。
目としての機能をもつ目を健康に育て、それが〈個々の小さな目〉でありながら、すぐ前にいたり横に(あるいは地球の裏側に)いたりする、もうひとつの〈小さな目〉と協働することで、もっと本当の、おもしろい、われわれの生きている世界の実相が、テレビや教科書で見るよりずっと豊かに見えてくる、ということを、どうやって若い世代に教えていけるのか。生協運動だとか、都市消費者と有機農民との連帯とか、ネグロスのバナナをそこの民衆の希望のメッセージとして味わうとか、すべて賛成だけれども、もっとはるかに手前のところで、〈物との関係を失った製品咀嚼器〉〈電波メディアの「情報」の一方通行的な受信器〉としてわれわれを扱おうとする文明に、生まれたときから取り囲まれている子供たち(および子供のまま大人になった人)の主体喪失をどうやって防ぐのかと、考えざるをえない。藤田省三氏が〈かくて今日の精神状況の特質の深部には経験と思考の疎外が完成した形で存在〉すると指摘したのは、八〇年代の初めだったが、オウム真理教事件や、中学生が小学生を殺した神戸の「酒鬼薔薇聖斗」の事件を見ると、この社会のど真ん中にいてこの状況から逃れる(さらには対抗する)方法論において、われわれはまだかなり弱いのではないかと思う。
唐突なようだが、最後にひとつ。ぼくは座談会で中村尚司氏がいっていた〈自営業のネットワーク〉というのがおもしろいと思った。その自営業のなかに、生協運動とか消費者運動には飽き足らず、みずから田舎に入って、自律的・自給的(しかし完全自給は不可能だろうからネットワークをつくるほかない)農業生産者になろうとする人なども含めて考える。思えば、ぼく自身は今のところ、自律的・自給的・文章生産者にすぎないのだった。〈トンボの複眼〉もいいが、支配的システムを食い破って自活・自生し、ネットワークをつくって集団化しはびこる、竹の地下茎的な連合のイメージもおもしろい。
ピープルズ・プラン研究所では、独自の企画でブックシリーズを出版してまいります。発行はインパクト出版会です。今回ご紹介した『ヴィジョンと現実』、既刊『平和をつくる―「新ガイドライン安保」と沖縄闘争』(天野恵一編・2000円+税)のご注文は、ピープルズ・プラン研究所(169-0072 新宿区大久保2-4-15-3F/e-mail: ppsg@jca.apc.org)へどうぞ! 会外の方々にもご宣伝ください。