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2004年8月10日発行196号ピースネットニュースより

〈非暴力連続講座第1回〉(後)
2004年6月12日 文京シビックセンターに於いて

非暴力とは何か? 私の体験から

非暴力トレーナー 阿木 幸男

疑問を持ち続け、あきらめないことの重要さ
 ちょうど大学一年生の時にこのフレンズ国際ワークキャンプに参加して、最初は養護施設とか身体障害者の施設に行ったんですけれど、ある時に先輩がですね「御殿場と草津にライの療養所がある。そこに行きましょう」と言うんですね。この話をうちの両親にしました。「ライがうつるからやめなさい」ということでした。ライは恐い、そんな所に行ったら大変なことになるという差別と偏見があって、一般の人たちはまだうつるんじゃないかと不安感がある。でもそういうことはないんだという話を聞くんです。父親が反対するんですけれど、行きました。
 自分も理論的には大丈夫だと思いながらも、行ってみると不安感があるんですね。草津の療養所で、児玉さんという方がお茶を出してくれる。その時に、手が震えてしまったんです。それを児玉さんが、「阿木君恐いだろ、初めてくる人はみんな恐いと言う。自分たちは手もこう指がなかったり顔がこういうふうに恐い。恐いと思うのが普通だよ。だからそのことは別に恥ずかしがらなくてもいい。ライのことはみんな知らないから恐いと思うんだよ。でも実際に話してみてどうですか?」 と言われたんです。いろんな話をしていると普通なんですよね。その体験が自分を変えていくきっかけになりました。それまでは恐い恐いと思った差別、偏見があったんですが、やはり出会うことによって自分の中にもすこしづつ変わっていくものがありました。それからライの療養所に通い始めるんですね。
 そのうちにライ予防法というのがあるけれど、これは読んでておかしいなぁと思ったんですね。薬で治るとはっきりしているのに、なぜこういう人たちを隔離するのか、なぜこういう法律があるのかと疑問に思いました。しかもね、みんなへんぴな所にいるわけです。草津もそうだし、たとえば瀬戸内海の離れ島とか、そういう遠い所にいるわけです。しかし、この法律に対して、変えようという動きはなかったんです。自分たちも勉強していてこの法律は間違っていると思いながらも動きが作れない。フレンズ国際ワークキャンプはずーっとライの問題をやっていましたが、95年に管直人さんが厚生大臣になった時にこれを廃止することになったんです。その後すぐに関西と東京でシンポジウムをやりました。私たちの団体の先輩で若い頃この活動に参加していた鶴見俊介さんと筑紫哲也さんが、そのシンポジウムで、「このライ予防法を撤廃するというのはできないと思いこんでいた。国家が法律で決めたものだから無理だと思っていた。だから積極的にこの法に何かをするということはなかった。ただ、ここで苦しんでいる人たちに対して、何かできることをしようと活動していただけでした」と話しました。その話を聞いた時に思いました。私たちは何か決まったことに対してはどうにもできないと思い込んでいる部分がどっかであるんですね。その時に思ったのは知識も大事、分析も大事だけれども、これって本当なんだろうかと、疑問を持ち続けることが大事じゃないかなあと思ったんです。どっかでいろんな知識をもってしまうと納得しちゃうんです。これはこういうもんだからしょうがないと。それから自分の考え方がこの一件から少し変わったんです。やっぱりあきらめちゃいけないということと、先入観を持ってはいけない、人間が作ったものは人間が変えることができるんだと思わないかぎり物を変えることはできないんじゃないかなぁと思いました。

非暴力との出会いと訪米
 それからいろいろあって大学は出ますが、生き方として自分はどうしていいのかと悩みました。結局入った出版社も一年で辞めてしまいまして、ぶらぶらしている時に非暴力トレーニングセミナー東京という、昨年お亡くなりになった石谷行さんが行っていた団体を知りました。日本で初めて非暴力を掲げて活動していて、しかも「社会変革のための非暴力トレーニングセミナー」をやっていました。それが72年の夏だったんです。その時はどういうものかまったくわからなかったんです。ただ、自分が出てみようと思ったのはここに「チャック・エッサーとクリス・モア」と書いてあったからです。チャック・エッサーと自分は早稲田時代に1年間一緒だったんです。彼が早稲田に留学していてその時に友達になったんです。そのチャックが来るということですごく気持ちが動いたんです。大学1年で出会った人がなんかわからないけれど非暴力トレーニングセミナーという聞いたことないようなセミナーをしにくる。何をするんだろう? それで決意して4泊5日のセミナーに参加しました。
 その会場に集まった時に食事のこととか寝る場所、寝袋のことから話し合うんですよ。普通セミナーというのは食事とか寝る場所とかは全部最初から決まってるわけです。議題は最初暴力とか非暴力について話し合うと思ったんです。そうじゃなくてどういう食事にするとか、食事当番、いつ食べるかということでした。私は聞いていてなんでこういうレベルのことを話すんだろうと、最初疑問に思ったんです。そういう経験ないですからね。なんでこんな細々としたことを、誰か決めれば済むことじゃないかと思いました。それがチャックとクリスが丁寧に通訳をまじえて「じゃぁ朝食は7時にしましょうか、7時半にしましょうか?」と聞いてきます。他の参加者も私と同じ気持ちだったと思いますが、そのうちにこのセミナーというのは、全員が参加して全員が決めていくんだとわかっていくんです。すべてのことを誰かが決めるんではなくて、自分たちが決めるんだとわかりました。そのことがショックだったですよね。そこからあらゆるプログラムもそれをするかどうかということも参加者の意見を聞いて決めていくんですね。「あ、これは新しい形だなぁと」と私は思いました。自分は学生運動に参加して、フレンズ国際ワークキャンプに参加して、べ平連に参加しましたが、べ平連でも小田さんとか吉川さんとか優秀な人がいて、大体こういう人たちが中心に物事が決まったわけです。その人たちからいいアイデアが出て決まる。でも一人一人のメンバーに一つずつ聞くというのはなかったですね。あぁこれはすごいことだなぁと思いました。
 チャックを見ると、表情が生き生きとしているんです。やっぱり自信を持っている。自分にとっては当時自分がどう生きていこうか自信がなかったですから、彼の自信に溢れた姿勢に、あっ、これは何かもう彼はつかんでいるんだ、それなのに自分はまだ何もつかんでない、と思い知らされました。それでチャックがいるフィラデルフィアに行ってみようと、セミナーが終わってすぐに決意したんです。自分の就職がどうなろうと、これはやってみる価値があると思いました。自分で思うのは非暴力もそうですけれど、大事なことは感覚的にわかるんですね。心の中でストンとして迷いがないんです。自分がやったっていうことは結局やりたくてやったってことなんですね。
 72年の8月にそのセミナーに出て10月にアメリカに行っちゃうんです。約1年半そこで住みました。半分の人はクエーカー教徒で共同生活を一軒の家でします。当時私はお金も持ってなかったのでアルバイトをしたんですね。それがまだ英語力が不十分でチャックに相談したら「そうだなぁ、英語力が不足しててもできるベビーシッターがいい」と言うので、「なんで」と聞いたら、「赤ん坊だと日本語しゃべっても何でもいいから」と言われました。それでベビーシッターをやりましてね、それが時給1ドルで、1日働いても8ドル、今からすると900円くらいですね。それで生活したんですね。だから全然無駄ができなかったです。生活の中でいつも試させられると本当に自分が何をやりたいのか問われます。でもすごく充実してました。あんまり先のことを考えるよりも毎日次の日をどうしようかと思っていました。言葉も覚えなくてはいけないし、非暴力の本も読む。そのうちにいろいろなキャンペーンに参加をするわけです。

非暴力は具体的でわかりやすくが基本
 今日はちょっとビデオを持ってきたんですが、これがガンジーの皆さん知っている塩の行進です。これを実際に撮ったフィルムが残っていて、当時のインドでの行進です。いつも先頭でガンジーが裸足で歩いていました。これが集会ですが、マイクがないんですね。ガンジーは周りの人にしゃべっているんですね。そうすると周りの人がどんどん伝えていくんですね。ガンジーが今こういうことを言ったと、数千人に伝わるわけです。それでガンジーは海に行って塩を採るんですね。これは違法行為ですが、どんどん人々が参加してくる。これは条件は一つだけです。絶対に暴力を使わない。3週間前に138人で始まっているんですが、最終的には6000人以上、約1万人になってしまうんですね。思うんですが、正しいこと、正義は人の心を動かすんですね。イギリスに支配されているという共通の思いがある。人々がどんどん海辺で塩を作るんですね。それで逮捕されちゃう。わかりやすい形ですよね。難しい言葉で説明するのではなくてわかりやすく非暴力、人にとって必要な物は何かということを、塩を採ることによって説明している。あとは対話ですね。当時からガンジーは女性を大切にしていて、他のインドの運動ではあまり女性を前面に立てるというのは少なかった。
 さっきのフィラデルフィア・ライフセンターという所は、ベトナム戦争の時に非暴力で戦争に反対する活動をしていました。60年代というのは若干運動が暴力的になることがあったんですね。その時にホワイトハウスの前で亡くなった兵士の名前を読み上げて、みんな捕まっていくんですね。もう一つ象徴的なのは、ライフセンターを作ったジョージ・レイキーという人は、非暴力トレーニングの本を書いている人ですが、大型のヨットを借りてこれに医薬品を載せて南ベトナムと北ベトナムに送るというキャンペーンを始めるんですね。この時にアメリカ政府は困るんです。アメリカはキリスト教の考えから人道的には怪我をした人たちを救うという立場です。政府はジョージ・レイキーたちが南ベトナムに行くのはいい、でも北ベトナムの怪我をしている人に医薬品を送るというのは問題があると言いました。政府は許可しないんですけれど強行するんです。フェニックス号というヨットでベトナムまで行きまして、北ベトナムと南ベトナムに医薬品を送り届けるんです。これが象徴的に人々の心を動かすんです。こういう運動のあり方もある。それがきっかけとなってフィラデルフィア・ライフセンターというのを作ろうという動きになってくるんです。ただベトナム戦争に反対するというデモや集会ではなくて、積極的に非暴力を表現する何かを作る方法があるとわかったのです。

非暴力直接行動が示した反原発の実践
 フィラデルフィア・ライフセンターが1971年にできます。私は72年にここに行くんです。トレーニングをいろいろ受けまして、このフィラデルフィアで原発の問題が74、5年からでてくるんですね。アメリカでもエネルギーの問題で原発をどんどん作ろうという動きがある。1976年にラブ・ジョイという一人の青年がいるんですね。ペンネームですけれど、ラブ・ジョイ=愛と喜びと名乗るんですね。最初に会った時びっくりしちゃった。この人がすごいのは、70年に無農薬農業をやってるんです。一人でアメリカの農業はおかしい、生き方を変えなくちゃいけないということで、無農薬で野菜とかつくってるんです。そして自分の地域に原発ができるということで一人で反対運動をやるんです。ところが彼はボストンから来たインテリなんです。だから村ではみんな村人から拒否にあっちゃう。「なんだよ、ボストンから来てハーバードだかどっか出た男が無農薬だと」と反発されます。みんな村中農薬使っているんですね。原発がくればお金が入るじゃないかと村人は考えていました。そういう中で原発反対のために一人で立ち上がって、原発の問題を訴えかけるんですが、なかなか聞いてくれない。彼はある時、原発敷地内に入って原発を建てる気象塔を倒してそのまま警察に出頭して「自分が倒しました、捕まえてください」と言って、それで裁判になるんですね。これにハワード・ジーンとかいろんな教授が裁判を支援するんです。最後にお母さんが出てくるんです。敬虔なクリスチャンなんですね。裁判官が言うんですよ、「お宅の息子さんは、法を破って気象塔を倒して、いま捕まってます。こういうことをどう思います?」そうしたらお母さんは「息子は神の法に従って人の法を破っただけだ。しかも自分で出頭してる。ですから私は誇りに思う」と言うんですね。すごいお母さんもいるもんですね。結局1年間裁判して、最後にラブ・ジョイが要求していた「原発が安全であれば内部資料も設計図も全部出してください。それから廃炉になったらどうするのか計画を出してください」ということに対して、電力会社は最終的に資料の提出を拒否するんです。そうすると裁判が成立しなくなり、結局彼は無罪になるんです。その時に一人でやった行為が全米の新聞に出るんです。
 76年に全米に広がって、「あ、原発にはそういう問題がある。非暴力直接行動でやれば何かが変わるかもしれない」とラブ・ジョイの影響を受けて、23人がシーブロックという原発に座るんです。次が158人。3、4ヵ月ごとに座り込みが行なわれました。ついに、77年4月30日、4回目の座り込みでは2000人超。それに私は救援部隊として参加しました。この非暴力直接行動というのはすごく自分に大きな影響を与えたんですね。非暴力で環境問題を変えることができるんじゃないかと思いました。これはシーブロックでの集会のビデオです。これは素人が作った映画なんですね。すごく感動したんでこのフィルムをアメリカで買ってきて、翻訳は私が全部自分でやったんです。米国ではだんだん若者が参加して原発を止めてもっと代替エネルギーにしていく必要があるんじゃないかと動きだすんですね。これは地方から始まっていくんです。その時に象徴的に木とか花を持って行って植えるんですね。緊張がなくてなんだかのんびりしているでしょ。これが一つの環境運動における非暴力直接行動。これは警察署長ですね。私服を着ているんですね。ここは日本とアメリカの違うとこで、日本はぜったいに制服で来ますよね。アメリカは面白いのは地方に行くとね自分で判断するんですよ。そして抗議行動では障害を持っている人たちを先頭にしています。目の不自由な人たちや車椅子の人や、だからこの時点で自分がすごい考えさせられたのは、いろんな人たちが参加できる運動の形態をですね。私この場面が好きなんですが、警察官に人間としてインタビューしてるんですよね。
 最初は一人のラブ・ジョイという人が呼びかけた行動が、人々の心を動かし、これだけ広がりを見せて原発問題や環境を変えていかなければいけないという思いになったんです。行動自体はすごく象徴的に花とか木とかを使って、ただ言葉で反対とか非暴力というのではやり方で、人々が何かをすれば変わりうるという思いになったんですね。当時私はアメリカ各地を歩いてまわってたんですが、そのころによくリンゴの木を見つけたんですね。ニューハンプシャー州で野生のリンゴが生えていました。このリンゴが地元の人が言うにはジョニー・アップルシードという人が植えたという伝説があるんです。それでその時詩を書いたんで、それを読んで私の話しを終わります。


アップルシードの夢

その時僕は29歳だった

アリゾナの砂漠の道を自転車こいでいた

プロジェクトアメリカ

アメリカ建国200周年

市民との会話の旅をスタートさせて1ヵ月

自転車でアメリカ大陸を横断しますとの宣言に家族友人は唖然

ある日心に動いたものに従っただけだった

できるかできないか

やってみなければわからない

足を一歩前に進めるだけ

旅行資金を作るため金になる身の回りのものをすべて売り払った

友人達のへの押し売りだったのだが何もなくなるとすっきりした

電車を1日8時間乗った

ものすごく腹が減る毎日だった

旅の各地で野生のリンゴをずいぶんほおばった

うまかった

地元の人はジョニー・アップルシードが蒔いたリンゴだと言う

昔、村に60歳を過ぎた老人がいた

孫が庭で遊ぶのを眺めながら

この子や次の世代の人たちに何を残してやれるかなぁと思い巡らしていた

お金も学歴も財産もない自分に何ができるのであろうか?

ふとリンゴの種を各地に蒔くことを思いついた

それから老人はリンゴの種を集めては各地へ出かけた

リュックにいっぱいにリンゴの種を担いで

いつしか人々は彼のことをジョニー・アップルシードと呼ぶようになった

素敵なニックネームじゃないか

できるかできないかの岐路では信じて心をこめてやってみろ

それしかない気がする

誰も歩かない道も

僕が歩けば後ろに小さな道ができる

ちっぽけでも

最近平和のために軍隊戦略資金が必要と専門家が言う

僕はそれを信じない

平和のための戦争があるとコメンテーターは言った

僕はそれを信じない

この国を守るため憲法改正が必要だと大学教授が言った

僕はそれを信じない

僕が信じるのは世界で初めての非核憲法を制定した時に

パラオのキッタレン(心を一つにの意味)のおばちゃんたちの言葉

ロシアでもどこでもパラオに軍隊がやってきたら

まずは武器を下ろしなさい

ようこそパラオへと握手して海辺にピクニックに繰り出すよ

お魚も鳥も世界のすべての人々は友達だよ

お魚のようにパスポートなしで世界中の海を仲良く泳ぎましょうってね

 こんな詩を書いたんですけれど、いま自分が信じるのは暴力を使わないで何かができるということを信じて、行動をできるだけして広めていく。やはり、一見実利的であったりだとか、一見論理的に見えるものってのは危うい気がするんですね。そういうものを疑ってかかって、本当に何が必要なのか、そこから出発しなくてはいけないと思います。それからもう一つは、平和運動は私なりに思うのはいろんな考え方がありますから、意見は意見としてお互いにいうのは大事ですけれど、誹謗中傷になったり批判し合ったりしても仕方がないと思うんですね。何か積極的にプラスになることでお互いが協力しあっていくことを作りだす事が大事だと思います。それには非常にわかりやすいメッセージが必要じゃないかなぁと思うんです。それが今私が思っている非暴力とか平和運動のありかたです。そのためには皆さんやいろんな人と関わりを持って、そして多くの人たちが納得するような形のものをねばり強く作り出していく必要があるんじゃないかなと思っています。

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