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2004年12月10日発行200号ピースネットニュースより

ピースネットニュース
200号のこれまで、そしてこれから

ピースネット・市民平和基金 青山 正

 1988年4月に「平和・人権・エコロジー」を柱に月刊の市民メディアとして創刊した本誌は、今号で200号を迎えました。伊方原発の出力調整実験をめぐり脱原発運動が大きく盛り上がる中で創刊した当時は、それらの行動に参加し始めた元気な女性たちや各地の市民活動に関わる人々が主な読者でした。本誌のいわば前身は、それまで青山が関わってきた「国歌秘密法に反対する市民ネットワーク」の活動と「エコピース」という小誌を発行していた「反核平和フォーラム」でした。それらの活動での広がりを受け継ぎながら、さらに市民のゆるやかなネットワークを広げたいという思いから、当初は自分たちが直接行動に関わるよりは情報の交換と交流の場作りに徹しようと考えて、各地で生き生きと活動を続ける市民を紹介するなど情報・交流の媒介役としての市民メディアをめざしました。
 その後1990年の8月のイラクによるクウェート侵攻後急浮上してきた、自衛隊の最初の海外派兵法案であった「国連平和協力法案」の反対運動をきっかけに平和活動の発信・呼びかけ役を担うようになり、翌91年の湾岸戦争での反戦行動や90億ドル戦費支出の違憲を問う「市民平和訴訟」の活動などに関わりました。そしてそれに続く1992年には初の全国市民投票もやったPKO法案反対運動で連日の行動に参加してきました。1995年には阪神大震災後に「震災被災者を支える東京連絡会」の活動を始め、そのつながりで被災者の公的支援の法制度の確立を求める市民・議員立法運動の事務局も担いました。またその95年にはチェチェン戦争をきっかけに「市民平和基金」を設立し、平和を創るための新たなNGO活動をスタートさせました。90年代のピースネットはいわば「行動する市民メディア」としての役割を果たしてきたと思います。その過程では渋谷の駅頭でのPKO法案市民投票の初日に右翼の街宣車に取り囲まれあわや襲撃という事態にあったり、右翼からの脅迫電話がきたり、あるいは長年反原発市民グループなどに繰り返されてきたすさまじい嫌がらせがピースネットにも加えられ、各種の嫌がらせの郵便物が大量に届いたり、ある年の新年交流会の時などは頼んでいないお弁当やピザが次々届いたこともありました。
 それ以降は大きな活動はできませんでしたが、非暴力を中心とした内部学習会を経て、この2〜3年本誌でも非暴力をテーマにした記事を増やし、そして今年からは同じ事務所にある「非暴力平和隊」とともに非暴力連続講座を行ってきました。それを受け200号以降はさらに一歩進め非暴力のネットワークをめざす市民メディアとしてニュースを広げていきたいと考えています。
 200号を迎えまず読者の皆さん、そしてこの間様々な形で編集や活動に参加していただいた方々に感謝申し上げます。この間多くの人たちと出会い、様々な活動に関わることができました。いろいろな別れもありました。創刊時に編集に加わってくれた剣持一巳さんや、国家秘密法の運動以来の付き合いで初期の発送作業の常連で、その後市民平和訴訟の事務局の中心を担ってくれた大橋聡美さんはいずれも故人となってしまいました。
 今、日本も世界も多くの難題を抱えています。その厳しい状況を考えるとつい暗い気持ちになりがちですが、だからこそ私たちは希望を求めたいと思います。その希望を創るためのささやかな役割をピースネットは「非暴力」という観点からこれからも担っていきたいと願っています。
 最後に改めて皆さんに感謝するとともに、今後のご協力・ご参加をどうかよろしくお願いいたします。

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