2004年7月10日発行195号ピースネットニュースより
未来を切り拓く非暴力へのいざない
ピースネット・市民平和基金 青山 正
この間私たちは非暴力について考える連続講座を「非暴力平和隊」と一緒に開いてきました。非暴力については何度かこの誌面でも触れてきましたが、これから私たちはさらに非暴力の思想と行動を広めていこうと考えています。それはひとつには、多くの人たちの非暴力の捉え方があまりに一面的過ぎるのではないかと思うからです。スローガンとして非暴力という言葉が掲げられていても、その本質はよく理解されていない場合もあります。
私たちは非暴力という考え方が、これからの地球の未来を切り拓く重要なカギになるのではないかと考えています。それはもちろん単なる非暴力による直接的な抗議行動・抵抗運動のみを想定しているのではありません。戦争・紛争をなくしていくことは言うまでもありませんが、政治や経済やあるいは日々の暮らしそのものの非暴力化とでも言うものが今、求められているのではないでしょうか。つまり私たちを取り巻く社会全体の非暴力化です。そしてそれを実現するためには、私たち一人ひとりの内にある暴力性も問われてくると思います。そういう大きなテーマとしての非暴力をこれからじっくりと多くの皆さんと探っていきながら、非暴力の輪を広げていきたいと思います。
しばらく本誌では非暴力連続講座の中身の報告や、先月から掲載しています清末さんの世界の非暴力運動ニュース、及び非暴力に関連する情報や様々な意見などを積極的に取り上げていくつもりです。今号から阿木さんの講座での話を連載していきます。
〈非暴力連続講座第1回〉(前)
2004年6月12日 文京シビックセンターに於いて
非暴力とは何か? 私の体験から
非暴力トレーナー 阿木 幸男
複合的な社会の暴力性
今日は自分が体験してきたことを反省を込めていろいろお話をしながら、皆さんと話し合うという形で進めていきたいと思ってます。今日はビデオを抜粋して後で短く上映しながら、自分自身が非暴力で影響を受けた部分を見ていただいて、解説を入れて皆さんと一緒に考えて行きたいと思います。
今非暴力ということを考えると、社会全体が非常に暴力的になってきていると感じます。もともと社会というのは暴力的な要素が非常に強かったんですが、イラク戦争やアフガンの問題、そういう戦争という形だけではなくて、少年犯罪、この前の佐世保の小学6年生の同級生殺人事件など、社会の暴力性というのが子どもたちの心にまで入ってきて、いろんな形で暴力が形を変えて現れてきているという気がします。私も不登校の若者と付き合う機会が多くて約10数年間不登校の人たちとの授業とかゼミとかをやってきましたが、以前は暴力というのは若者の中では、物を壊したりだとか、窓を壊したりだとか、もう少し外に出る形であったんですね。90年の始め頃は学校を辞めた人たちのクラスだとよく壁が壊されたりだとか黒板が壊されたりだとか非常にはっきりした形であったんです。ところが95年前後からそういう形じゃなくてこもる形になってきた。この8年くらいは物が壊されるということはほとんどないです。ところが若者たちの間で薬を使って精神を安定させるとか、引きこもるとか、そういうことがすごく増えてきました。社会の暴力が複合的に絡みあって、非常にナイーブでいろんなものを素直に受け止める若い人の中に入ってきて、それをどう受け止めていいのかわからないとう状況がある気がします。
今回の佐世保の事件ではインターネットのチャットとか、交換日記だとかいろんなことが言われてますが、深いところでこの日本の社会が持つ暴力性というのが、やはりあの少女だけじゃなくて同年齢から上の人たちに入りこんできている気がします。ひとつだけの要因じゃないので分析しにくく説明もしにくいという状況にある気がします。
一方でイラクの状況というのも、自衛隊を派遣してさらに小泉さんは多国籍軍にも参加するということを言明したと伝えられています。けれども日本国憲法の第9条で、自衛隊を海外に派遣するということは長い間タブーであったわけです。これが破られたのは1992年のPKO法案でした。PKO法案で自衛隊を当時のカンボジアに派遣するためでした。92年はこのPKO法案に反対するということで私も動いたんですが、結局は法案が通り92年の秋から93年まで自衛隊がずっとカンボジアのタケオに行ってたんですね。それでこれはぜひ現地を訪れて自衛隊の活動をまず視察し、カンボジアの状況を見なくてはいけないということで、私は河合塾という予備校で教えていたんですが、生徒に話をしまして5,6人で行こうということになりました。それがきっかけとなってカンボジアにかかわって、今はカンボジアにNGOで学校(中学校と高校の一貫校)を作っています。
カンボジアの話をしてると長くなるのでまた別の機会に話をしますが、非暴力ということで今日は自分がこれまでかかわってきて考えさせられたこと、疑問に思ったことなどを中心に話を進めていきたいと思います。自分自身が何故非暴力に興味を持つようになったのかということから話しを進めます。
父親の暴力、そして高校での体験
まずレジメにはキューバ危機と書いてるんですけれど、ご存じないと人もいると思いますが、1962年に私がちょうど高校生の時にアメリカとソ連の対立が深まって、ちょうどキューバにミサイル基地があり、ミサイルがあればそれを撤去しなくてはいけないということで、ケネディ大統領とフルシチョフ書記長が動く。まぁ衝突しかかった。どうにか話し合いでこの時戦争は避けられた。その時私は高校2年生だったんですね。この話を社会科の授業の時に聞いてすごくびっくりしたんですね。それまではあまり新聞記事とか社会問題にあまり興味ありませんでした。先生から「もしアメリカとソ連が戦争ということになれば日本も巻き込まれる。第三次世界大戦になるかもしれない」と聞いたんですね。その時にギョッとしたんですよ。自分とまったく関係ない大きな国が対立をし、そして戦争になり、日本とかアジアの国が巻き込まれるかもしれない。まったく自分が関与しないところでいろんなことが起きている。自分の運命というのも、誰かが決めたことに左右されることがありうるうんだと初めて知ったんですね。それがきっかけとなって社会の問題に興味を持つようになったんです。でもその前になぜ暴力・非暴力に興味を持つようになったかというと、やっぱり家庭環境に原因があったと思います。自分の家の父親というのがすごく暴力的で、子どもに対して体罰というか非常に殴る蹴るということで、反抗するとよく殴られたんですね。家庭ではいつも父親が絶対的に強くて、それに従わなければならない。でやっぱり自分は小さいですから恐怖感をいつも持ってたんです。親に従わないと暴力をふるうわけです。母親もそれに怯えている。家族全員が怯えていたという状況があり、それに対してはほとんど自分が何もできない。そういう中で、なぜ父親って暴力的で自分たちは怖がらなくてはならないのかと悩みました。しかしなかなか方法が見つからないんですね。その時一番思ったのは早く家を出たいということでした。大学生になったら家から離れたいという思いがありました。
それと暴力に対する疑問ですが、その頃はまだ感覚的に暴力がいやだという感じだったと思います。それが少し変わったのは浪人していた一年間でした。そのきっかけとなったのは、都立高校に行ってましたが、当時詰襟の黒い制服を着ていたんですね。高校3年生の時にクラス討論で私が発言しまして、こういう学生服を一年中着なくてはいけないというのはおかしいんじゃないかと、しかも夏は暑苦しいし、着ても快適な感じがしないということで疑問を抱きまして、クラス討論していろいろ話し合った結果、うちのクラスがほぼ全員一致で制服をやめようということになったんですね。これが波及しまして他の3クラスも全部制服をやめようとなりました。その4クラスの決議を持って校長先生の所に行ったんですね。そうしましたら校長先生ではなくて教頭先生に呼び出しを受けまして、「高校生が政治運動をやってはいけない」と言うので、私は反論しました。「なぜ制服の問題が政治運動なんですか?」と。ただこういう服装は嫌だと言っているだけなんですね。「こういうふうに、学校なり文部省が決めたことに高校生が逆らうというのは政治運動だ」と言うのです。そして「そういうのは高校を卒業して社会人になってから発言しなさい」と言われたんですね。ぜんぜん納得いかなくて、おかしいじゃないか、制服の問題で話しているのになぜ社会人になってからなんだと思いました。社会人になったころは制服着ていません。どういうことなんですかと言ったら、今度は親が呼び出しを受けまして、父親にボコッと殴られまして「なにやってるんだ」「そんな政治運動をやるとは。自分でお金を稼いでいないのに学校に迷惑をかけるなんて」と怒られました。それで、これはまったくおかしい! 大人が言うことは変だと感じました。ところが今度は高校の方はそういうことをやっていると内申書とかで書くから大学に行く時に、また将来就職する時にマイナスになるとどんどん脅しがかかりまして、クラスの中心となった人たちがだんだんそのキャンペーンからおりまして、結局3人くらいしか残らなかったんですね。私は言い出しっぺでしたが、その頃は確信なんてなかったです。恐かった。それでも言い出した以上やらなくてはならないと思って、受験勉強やる気がおきなくなっちゃった。でもその時に英語の山田実先生が、「阿木君がやっていることは正しい」と言ってくれたんですね。そのことが非常に自分にとって勇気付けとなったんですね。他の人たちはみんな否定したんですが、でも山田先生だけが君の方が正しい、正しいことはそのままやりなさいと言ってくれました。それで自信を持ったんですね。
新左翼・学生運動への疑問
浪人してその時に山田先生に聞いたんです、どこの大学出身ですかと。早稲田大学だと。それで心が決まった。もう早稲田に行くしかないと思いました。それで1年間浪人して早稲田に入って。入ったらちょうど66年がベトナム戦争と学費値上げ反対闘争がありまして、早稲田大学が封鎖されてたんです。早稲田大学の中では入学試験が行なわれなかった。隣の早稲田実業高校で入試が行なわれたんです。それも入試ボイコットという運動があったために機動隊に囲まれて入試を受けたんですね。これは非常に印象的だったんですね。受験番号を機動隊員に見せながら機動隊の隊列の中をずーっと歩いて受験をしました。あぁー大学はすごい所だ、大変なことがおきているんだなぁと思いました。
大学に入ってベトナム戦争反対、値上げ闘争いろいろあります。三里塚の問題もできてきます。授業はまったく行われません。約5ヵ月くらい行われなかった。そういう状況にいますと、当然なぜこういうことが起きているのかという関心が生まれてきます。自分も何かこれにかかわらなくてはいけない。でも確信みたいなものはまったくなくて、たまたま大学に行っている時に自治会の人に呼び止められまして、「君がこれから日本の社会を変える担い手になれる絶好のチャンスだ」とか言われて来なさいというのでついていったのが、「K派」という団体の部屋だったんですね。そこでマルクス主義なんかの講義を受けたんです。まったくわからなかった。「このテキストを読めば君は革命に参加できる。日本の社会は今どんどん変わっている。早く参加しないと、君はもう遅れちゃう」と言われまして、翌日からすぐ通いはじめました。これはやっぱりすぐに何かをしなくちゃいけない。それで先輩に聞きましたら、とにかく参加するためには自治会の委員の選挙があって、それに立候補しなさいと言われました。立候補するといっても立候補の声明文なんて書いたことないですから、書き方を習いまして、それで立候補しまして対立候補が沢山立ちますからそれに対する反論も用意したんですけれど、結局対立候補は一人もたたなかったんですね。私一人しか立候補者がいなくてそのまま当選となりました。それで自治会委員になった。それからビラ配りやいろんなことを始めました。その先輩に習ったことは、「M派というグループは潰さなくてはいけない」「これは革命の障害になっているグループのひとつだ」「これを襲わなくてはいけない」と言われまして、その時にも疑問をもったんです。なぜ襲わなければならないのか。そのために竹槍とか石を用意させられ、ちょうど法学部とかにM派がいたんですね。そこに襲撃をかけたりとかという練習をやって、やってても自分で何でこんなことをしなきゃいけないんだろう。そして両方に怪我人がでましてね、毎日。先輩が怪我人の数で勝敗が決まるというんですね。向こうは6人怪我人が出て、こっちは3人だと。だからこっちが勝ったと。そういうことを毎日やるんですね。
私はそれをやっているうちだんだんに疑問に思って、一番疑問に思ったのはですね、マルクス主義というのは共産主義でみんながともに働き、ともに分かち合う社会だという。理論は正しいんですね。みんなで幸せを分かちあって誰かが得をするという社会じゃないということを習ったんですね。ところがK派というグループの中では決定は全部上でなされて、下に命令が行くんですね。私はある時に「これ、先輩おかしいんじゃないですか? 先輩いつもみんなで話し合って決めるっていうけど、決定はいつも上からです」と言いましたら、「いや、君らはまだ素人だからわからない」と言うんですね。「だから大事なことは上で決めてやるんだ」と。そのうち私もだんだん組織のあり方自体に疑問を持つようになって、一番疑問に思ったのはどこでどう決めるか、ということなんですね。そこに民主制というのはない。そこに最大の疑問を持つようになった。
その時もうひとつ全共闘のほかのグループからもよく意見が出たんですけれど、大変大きな国家権力というものの暴力に対しては、学生とか市民の側の暴力は許されるというんですね。絶対的に強いものに抵抗する時には小さいグループの暴力は許されると。それがひとつの論理となっていたんです。それにもだんだん自分自身が疑問に持つようになったんです。しかしまだ自分がそのことに対して反論するだけの理論的裏付けとか自信がなかったんですね。ですから自分が考えたのはこのK派とか全共闘とかから遠ざかっていかなくちゃいけないという思いだったんです。
良心的兵役拒否運動の歴史を知る
ちょうどその頃にキャンパスを歩いている時あるポスターを見まして、これはスコップとつるはしが描かれていて「より良き社会の建設」というスローガンがありました。これは「フレンズ国際ワークキャンプ」というまったく聞いたことのない団体でした。今でも思い出しますけれど思想・信条・宗教・宗派を乗り越えて、みんなで働きながらより良き社会の建設をする、という団体でした。社会福祉施設でボランティア活動をしながら社会を少しづつ変えていく。なんか面白そうだなぁと思いましてね、そこに手紙を書いたんです。そうしたら一回目のキャンプがスラムでのキャンプだったんですね。子どものための集まる場所を作るというものでした。いろんな東京都内の大学の人たちと一緒に私もそれに参加しました。このワークキャンプというのは自炊なんです。寝袋を持っていって、広いところで男女別れてみんなで食事を作って食べるんですよね。夜は毎日話し合いなんです。今の社会はどいう問題があるかなどを話し合いました。そこはオープンに誰が発言してもかまわないんです。それが学生運動の話し合いとまったく違うなというのが第一印象だったんですね。 ここでは何をしゃべっても聞いてもらえる。反論も出るけれど意見は意見として聞いてもらえる。そういう実感を持ったんですね。それでこのワークキャンプに何かあるんじゃないかと思って、いろいろ読んでいるうちに、このワークキャンプを始めた人がピエール・セルゾールというスイス人と知りました。
この人はフランスとドイツが戦争をした第一次世界大戦のあとすぐに、フランスとドイツの国境のウェルドンという村に出かけて行って、戦争で破壊された村の復興を呼びかけるんですね。若干5名くらいですね。このピエール・セルゾールはクェーカー教徒でした。この人が「人間が破壊したものは人間が復興をしなくてはいけない。そのためにはみんなが働いて宗教とかそういうものを乗り越えて、そのキャンプにはフランス人もドイツ人もぜひ参加してほしい。と呼びかけるんですね。戦争で敵であったもの同士もお互いに傷ついたわけですから、平和の建設のためには敵見方ではなくて一緒に動きましょうと。実際には1回目のキャンプっていうのはスイス人・イギリス人・ポーランド人などフランス人・ドイツ人より他の国の人が参加して、十数人でキャンプをやるんですね。このキャンプをきっかけにしてピエール・セルゾールは、戦争で破壊された場所にいってはキャンプを呼びかけるんですね。そこにだんだんカトリックの神父や他のキリスト教の牧師さんやユダヤ教の人とかが参加してくるわけです。夜は討論して昼間は肉体労働する。
そしてピエール・セルゾールは平和のために何が必要かということで、やはり軍隊に協力してはいけないんだという考えに至るんですね。それでピエール・セルゾールは軍事費拒否というのを始めるんです。それから軍隊にも行かないことを呼びかけるんです。一見ボランティア活動なんですけれど非常に考え方はラジカルなんですね。良心的軍事費拒否と、兵役拒否というのを世界で始めて呼びかけるんです。「宗教の立場からも戦争に協力しないということは自分の信念からも貫き通さなければいけない。国家はそれを認めなければいけない」と呼びかけるんです。ところがスイス政府は拒否するんです。スイスという国は中立的な立場でヨーロッパの中でも非常にポジションとしても難しいんです。スイスで始まった運動なんですが、最初に良心的兵役拒否を認めたのはイギリスなんです。ピエール・セルゾールの提案を受け入れて、イギリスでは軍隊に行く代わりに選択を与えるんです。例えば森林での肉体労働を1年間やる。社会福祉施設で1年半働く。サービスによって期間が違ったりする。これがイギリスからフランス、ドイツにいくんですね。なかなかスイスまでたどりつかないけれど、そういう運動がたった一人の人の呼びかけで広がって行くんです。私はそれを読んだときに非常に感動するわけです。あっ、こういう風に戦争に対して復興を呼びかけて、今度はただボランティアだけではなくてもっと積極的に平和を作るためにそういう呼びかけをした人がいるんだと。ところが時間が経つとフレンズ国際ワークキャンプの中でピエール・セルゾールの思想とか活動について語られることってほとんどなかったんです。やはりこういう歴史というのを自分たちも学んでいかなくちゃいけないと思うようになっていくんですね。
(次号につづく) |