CDI のロドリーゴ・バッジオさんに聞く
--まず、初めに CDI の活動について教えてください。
CDIとは情報技術民主化委員会のことで、CDIの使命は情報技術と市民の権利に関する学校を所得の低いコミュニティの中に作ることです。私たちの使命はファヴェラ(スラム)のコミュニティに情報技術に関すること、Word, Excel, PowerPoint,コンピュータの保守、子供たちへのコンピュータ教育を教えることですが、ただ、それだけでなく、同時に、市民の権利について、人権や健康、セクシュアリティ、エコロジーなどを教えたい。つまり、貧しい層の子どもたちはコンピュータへのあこがれを強く持っています。この彼らにコンピュータを教えることを通じて、自分たちのコミュニティのおかれている問題についての問題意識を育てることです。
CDIが発足したのは1995年3月ですが、僕は93年の末からこの問題について関心を持つようになりました。僕はそのころ、コンピュータの教師で、リオでもっとも高い学校でコンピュータを教えていました。また、テレビ局や大きな企業のコンピュータのコンサルタントなどとして働いていました。僕は12歳から社会的な運動に関わっていたのだけど、この時期はお金をかせぐために働いていました。でも、まったく自分に満足できず、不幸でした。
ある夜、夢を見ました。その夢は貧しい子どもたちがコンピュータをBBS(パソコン通信局)につなげ、市民の権利について議論をしているのです。この夢を見た翌日、「この夢を現実にすることは可能だろうか、僕には何ができるだろうか」、ということを考え始めたのです。そうして始めたのが、コンピュータをスラムに寄付するキャンペーンでした。
中古のコンピュータを集めて、それをスラムの中にある団体、コミュニティのセンターや住民組合の事務所などに送りました。これが94年です。最初に僕らがコンピュータ置き場を獲得できたのはここのIBASE (ブラジル社会経済研究所、ブラジルのシンクタンク的NGO)でした。IBASEはこのキャンペーンのために大きな部屋を提供してくれました。
しかし、94年半ば、こうして集められたコンピュータはコミュニティによって必ずしもうまく使われていなかったことに気がつき始めました。というのも、コミュニティにはコンピュータをどう使うか、十分な情報がなかったからです。そこで、新しいアイデアを思いつきました。スラムの中に学校を作ればいいではないか? このアイデアはさまざまな団体の賛同を得ることができ、1995年3月、リオ中心街に近いサンタ・マルタのスラムに最初の情報技術と市民の権利のための学校がスタートしました。
揃えたコンピュータは最新式のもので、リオの他の学校にあるものよりもいいものでした。落成式にはリオやサンパウロから11の新聞社、4つのテレビ局、3つのラジオ局、2つの雑誌社が取材に来ました。翌日から、このアイデアを理解した人たちはボランティアを志望したり、コンピュータの寄付をしようとして僕を探し始めたのです。こうして、コンピュータもボランティアも集まってきました。
こうなると僕や僕の友人が小さな規模でこの運動をやっていくのは無理という結論になりました。すぐに僕はトラックにコンピュータをいっぱい積んで運ぶようにまでなりました。そこで3月末に会合を持って関心のある人たちに集まってもらいました。そうするとこのサンタ・マルタの経験を他のスラムでもやってみようという気持ちのある人は70人も集まってきました。
こうしてその後9ヶ月で15のスラムに一銭もかけずに学校を作ることができたのです。すべて無償労働と寄付で作りました。
そのうちに、他のさまざまな団体や財団が、僕らの活動の重要性に理解を示すようになりました。というのも当初は僕らは「馬鹿ものたち」と呼ばれていたのです。つまり、貧しい人たちが必要なのは食べ物であって、コンピュータではない、というのです。しかし、僕らにとっては人間は文化や技術が必要で、コンピュータもその1つだと考えていました。
でも、スラムの学校に通いたいという子どもたちが列を作っているということが知られるようになって、ようやく人々の意識も変わりだしたのです。つまり、現代は情報の時代です。私たちは技術的な世界から閉め出されている人たちにアクセスを与えなければならないんだ、ということがわかってきたのです。
3年半の活動で、私たちはリオデジャネイロに46個の学校をスラムの地域に作ることができました。また、32の学校をリオデジャネイロ州以外の8つの州に作ることができました。私たちは今9つの州で活動しています。リオデジャネイロ、サンパウロ、ミナスジェライス、バイア、エスピリトサント、マトグロッソドスール、ペルナンブーコ、リオグランジドノルチ、パラナ州。1月にはリオグランジドスールのポルトアレグレに学校を開くので、10個目の州になります。1万人の貧しい子どもたちがコンピュータを学んでいます。そして多くは労働市場で職を得ることができるようになります。しかも、プロフェッショナルとしていい職を得られるのです。
僕がとてもびっくりしたのは、スラムの人たちは自分たちでコンピュータを分割払いで買って、自前で生計立てる人まででてきましたことです。僕らの活動は社会的影響力も大きく、信用も高いものとなりました。
スラムで子どもたちの調査をするといつも「何を勉強したいか?」という問いへの答えは「コンピュータ」であることに僕は注目しています。子どもたちのコンピュータへのあこがれを活用して、スラムの問題にめざめさせようとする試みはとってもいい結果を生みます。
麻薬取引に携わっている子どもたちも学校に来たがります。スラムの学校は彼らを受け入れます。そして多くの子どもたちが人生を変えられると実感して、麻薬取引から抜け出せるのです。つまり、職を得られる未来がある、と感じることができるからです。だから僕はこういう言い方をするのが好きなのだけど、「スラムにおけるコンピュータは本当のAR15だ」と。AR15は麻薬取引をするものにもっとも使われる機関銃です。我々にとってはAR15はArma Revolutionaria de 15 anos(15歳の革命的武器)。15歳というのは子どもたちが麻薬犯罪組織に入る歳だけれども、この現実をコンピュータによって現実を変えられるわけです。
活動が拡大していくと、ブラジルだけでなく、米国の大学や企業からも講演依頼が来るようになりました。そして、僕らの活動はユネスコなどの国際機関からもモデルとして注目され、今では他の国にこの経験を伝えることも重要になってきました。
このコンピュータと市民の権利の学校には2つの重要な原則があります。自立できることと自主管理です。コミュニティの人たちが自分たちのお金で自分たちによって運営されることです。この学校は僕らの学校ではありません。コミュニティの学校です。この学校の先生はコミュニティの若い人で、僕らが彼らにコンピュータを教えるのです。学校の事務局をやる人たちもコミュニティの人です。コミュニティの人たちが自分たちで学校を運営できるように、月500円とかのわずかなお金でも月謝を取ることによって、学校は収入を作ることができ、教師に給料を払ったり、フロッピーディスクを買ったり、自分たちでコンピュータをアップグレードすらすることができます。
これは(パンフレットを指して)ある財団の支援を受けて、制作した僕らの活動を説明するパンフレットです。このパンフレットにはこの活動の歴史から、どうやってこうした活動をするための委員会を作るか、どうやってコンピュータと市民の権利の学校を作るかがわかりやすく、マンガで説明されています。
これまで私たちの活動を紹介した新聞、雑誌などの記事はブラジル、国外合わせて300くらいあります。マイアミ・ヘラルドやCNNも取材してきましたが、昨年(97年)クリントン米国大統領がブラジルを訪問した時に、ヒラリー夫人とマンゲイラの学校を訪れました。今年(98年)、ホワイトハウスは10台のPentiumをマンゲイラに寄付しました。
この雑誌、Mancheteにもとてもいい記事があります。タイトルは「コンピュータが丘(スラムの丘)を昇る」。この記事は次のインタビューで始まります。「彼の名はL M。彼の歳は15歳、麻薬取引の兵士だ。昼間は悪夢にうなされ、夜は道路で活動した。母親に説得されて、家のそばにあるコンピュータと市民の権利の学校に通いだした。1年後、彼は自信に満ちあふれている。今日は彼は別の武器を持っている。その武器は未来を知っている。いつ何時頭を銃弾に射抜かれるかわからない生活から抜け出したのだ」。これはとっても美しい証言だと思います。
この写真はホッシンニャのスラムの学校の写真です。ホッシンニャは中南米最大のスラムです。で、この写真がヴィガリオ・ジェラルの学校ですが、5年前、軍警察がこの家に乱入してこの部屋で寝ていた夫婦を銃殺しました。夫婦は抱き合ったまま亡くなりました。今、この部屋で何百もの子どもたちがコンピュータを学んでいます。この写真はストリート・チルドレンのための学校です。この写真はモーホ・ド・マカーコの写真で、インターネットの授業の写真。これはアカリの学校。アカリの周辺には15のスラムがあって、ひじょうに暴力のひどいところです。僕も学校に行くために何度も武装した麻薬組織のそばを通り抜けなければなりませんでした。これはまたヴィガリオ・ジェラルの写真です。こちら側には武装した警官、反対側には子どもたちが武装している、ただしコンピュータで……(笑)。
--先生はどれくらいいるんですか?
1つの学校に2人から3人の先生がいます。リオには46の学校がありますから、100人以上、先生がいることになります。でもすべてそのコミュニティに住んでいる人が先生になります。
--どのようにCDIは活動するのですか?
私たちが学校の先生になる人をまず、教えます。その人がスラムの先生になります。まずは基礎的なことを教えて、その後にもっと進んだことを教えます。技術の進歩は早いですし、新しいことを先生に教えて、リサイクルするわけです。
もう1つCDIの役割で大事なのはコンピュータの寄付やボランティアを募るためにキャンペーンをすることです。われわれはCPUが386以上のコンピュータを受け付けます。
UNESCO以外に米国の2つの財団が僕らの経験を他の国で適用することに関心を持っています。来年(99年)4月には僕はフィリピンに行って、この経験をフィリピンのNGOと共有することになっています。
--フィリピンですか? ならばJCA-NETが長年いっしょに働いている通信NGOがありますし、日本には多くのフィリピン問題に関わる団体があります。
それはすばらしい。ぜひ、このインタビューが終わったら、その件をつめましょう。フィリピンの他に、ペルーとケニアがあります。ここでわれわれの経験を伝えることになっています。そこでわれわれと同じように委員会を作ろうという話があるのです。
われわれの活動はスラムのコミュニティに学校を立てることが中心ですが、今年は私たちはブラジルで初めて、貧しい視覚障害者の人たちのためのコンピュータと市民の権利のための学校を開きました。視覚障害者のために書かれているものを音声化するソフトがありますが、そのソフトを通じて彼らは書かれていることを知ることができますが、これは彼らの人生にとってひじょうに重要なことです。またミナスジェライス州に身体障害者のための学校を作りました。またリオで最初の知恵遅れの子どものための学校を作りました。そして、私たちはラテンアメリカで初めて(世界で初めてとは言いません、知りませんので)先住民の村にコンピュータの学校を作りました。グアラニ民族の村です。電気がなかったので発電器までもが必要でした。ここでは先住民の文化を救いだし、肯定するために先端技術が使われているのです。グアラニの文化を。
以前にはグアラニの村の中にはコンピュータが入ったことがありませんでした。だから、彼らはまず、コンピュータを指す言葉を作らなければならなかったのです。彼らにとってはコンピュータは「アエルリルリレー」といいますが、その意味は「言葉を蓄積する箱」です。なぜなら、彼らはコンピュータで彼らの文化を保存しようと考えているからです。ウィンドウズは「ウンベンタン」、マウスは、「アングジャ」。こうしてコンピュータは彼らの文化の中、語彙の中に受け止められていったのです。
これが僕らの活動のあらましです。
--95年以来、爆発的に広まったのですね?
そうです。なぜなら、まず、お金がかからない。寄付されたコンピュータにボランティアで委員会を作ることができます。そして次に社会的な効果が絶大だったこと。今の労働市場は情報技術を持った人を必要としています。たとえ、事務所の補助的なスタッフであっても、コンピュータを使えることが要求されてきます。もう一つの要素は子どもたちがコンピュータに感じる魅力です。リオ市の社会開発局がストリート・チルドレンに「もしもお金があったら何に使いたいか」ということを聞いたそうです。そうしたら、テレビゲームが一番だったのです。テレビゲームで遊びたいというのは決して中流上流の子どもたちだけではありません。
--CDIとコミュニティの関係はどうしているのですか?
僕らはスラムのコミュニティの中にある住民組合やセンター、教会関係施設などそのコミュニティで信頼されている組織から提案を元に、チームを選び、電源を確保したり、安全を確保できるところを決めます。そして、そのスラムのチームの人にコンピュータを教え、市民の権利について議論し、われわれはコンピュータを寄付して、学校を立ち上げるプロセスに同伴するのです。
いくつかのコミュニティではインターネットへのアクセスもあります。でもこれは一般的にはまだブラジルでは難しいです。ブラジルでは電話線がひじょうに高いですし、スラムからの電話回線では実際につなぐのが大変難しいということもあります。
--フィリピンに行くということでしたが、その途中に日本に寄ることはできませんか?
ぜひ、日本に寄りたいと思います。あなたからメールをもらったときにとても興奮しました。というのも今年、私は日本だったら、コンピュータがいっぱいあるだろうと思って、リオデジャネイロの日本領事館に電話したのです。もし、日本からコンピュータの寄付が得られるならば、ブラジルに持っていくだけではなく、ユネスコなどの団体の支援を得て、他のアジアの国に寄付することも可能ではないか、と思ったのです。たぶん日本で486の機械は捨てていることでしょうが、僕らにとっては立派な機械です。
--可能性はあると思います。問題は機械を集める場所ですが。あと、CDIはどのように活動を展開しているのでしょう? 日常的にスラムのコミュニティと連絡を取る必要があると思いますが、スタッフは何人くらいいるのですか?
リオには7人のスタッフがいます。2人はコンピュータの保守のスタッフ、1人はコンピュータ教育をするスタッフ、一人はアメリカ人でファンドレイジングなど担当、会計が1人、1人の秘書に僕です。リオにはボランティアが100人います。リオ以外には専従スタッフはいません、すべてボランティアです。企業家であったり、スラムの活動家であったり、教育活動している人だったり。学校の数が多くなってきましたからスタッフが学校まで常に行くことは難しくなってきました。それに情報技術の進歩は早く、それについていく必要があります。これを僕らが学校に行く代わりに、彼ら教師の方がCDIの事務所に来るのです。彼らが来るたんびにいろいろ相談しますし、電話でももちろん、話します。そして僕は定期的にスラムの学校を回っています。
CDIはコミュニティの人たちが使えるようにさまざまな情報が納められたCD-ROMも作りました。このパンフレットやCD-ROMを使って、スラムの人たちが自分たちの力で進む方向を決めることができます。これはとても重要なことです。というのも下手すると私たちの活動はスラムの人たちに僕らにすべてを頼る消極性を作りかねません。スラムの人たちが自己決定していくことは僕らの活動にとってもひじょうに重要なのです。だから定期的に問題を協議するための会議を持っています。肝心なのは学校の進む方向を決める権限をスラムの人たちが持っていることです。
--活動上で何か難しいことはありますか? 寄付は継続的に来ますか?何か難しいことはありますか?
寄付に関してはすでにそういう文化を作ってしまったといえると思います。だから継続的に集まってきます。ボランティアも問題ありません。問題は今後、専門性を持ったスタッフをどう確保していくかということでしょう。どんどんさまざまな要求が来ますので、それに応えていくためにも、必要なのです。
あと、僕らの活動を海外に伝えることに挑戦していかないといけません。来週、実は合衆国に行くことになっていますが、国連の機関によって計画された会議で、世界中44カ国の若者60人が選ばれ、経験を交流することになっていますが、ブラジルからは僕が出ることになっています。
(聞き手/印鑰 智哉 @tomo_nada, 1998年12月31日、ブラジル、リオデジャネイロ、ボタフォーゴ地区にある故Betinhoさんの自宅をお借りして)