<非暴力平和隊実現可能性の研究>
クリスティーネ・シュバイツアー
1.1 いくつかの概念の明確化--非暴力、紛争、および紛争介入
1.1.2 社会紛争
1.1.2.1 いくつかの定義
社会紛争について多くの定義がなされているが、この調査は、紛争の理論を深く研究する場ではない。ここではフリードリヒ・グラスルの定義が選ばれた。何故ならば、それが社会紛争のすべてを包含する観点を可能にするのに十分広範囲で中立的だからである。紛争解決について書かれたフリードリヒ・グラスルのハンドブック(1994)は、後で紛争の段階について触れるときに、再び参照することになるだろう。 彼は「社会紛争は、少なくとも一方の当事者が、他方の当事者(ひとつあるいは二つ以上)による障害が存在している、という認識の中で、他方の当事者を、考え方/発想/知覚について、あるいは感情、あるいは欲望について、相容れることはできないと見なしている当事者(個人、グループ、組織など)との間の相互作用である。」と述べている。
紛争は以下の考え方によって分類することができるだろう。
- 異なる目的(例えば、戦略的紛争、係争点をめぐる紛争)。 国際的な分野に対して、クマール・ルーペジンゲは、資源争奪紛争、支配権や権力をめぐる紛争、イデオロギー紛争およびアイデンティティ紛争に区分している。
- 可視性(潜在している紛争と顕在している紛争)
- 紛争当事者の特質、立場、および相互の関係(たとえば、個人対グループ、支配者と被支配者)
- 激化の度合い(以下参照)
- 紛争を実行するために用いられる手段。
1.1.2.2 暴力紛争
紛争が暴力的手段によって実行されると、特別な問題として注目を浴びる。平和問題研究者たちは「戦争」という用語を、ある条件を満たす暴力紛争である、と指定した。 通常は「少なくとも、年間1000人あるいは一つの紛争について1000人の人的被害」があり、かつ、「少なくとも紛争の一方がある種の正規軍と中央組織であること」という条件である。これらの条件を満たさない暴力紛争は武力紛争と呼ばれる。
第二次世界大戦以降、およそ200回の戦争があった。1年間に争われている戦争の数は1992年の合計51か所まで毎年増加した。その後は1997年の29か所まで減少傾向を示していたが、再び反転し1999年には34か所にまで増加した。34か所のうち、およそ75%は、アフリカ(14)とアジア(11)であった。その他では、中東(6)、ラテンアメリカ(2)、およびヨーロッパ(1)であった。 1999年だけで、7か所で新しい戦争が始まった。
今日では戦争の大部分は内戦である。国際的な戦争の数は近年ほとんどゼロにまで劇的に減少した。 (AKUFは、1999年には3か所で国際的な要素の強い戦争があったとして、国際的戦争3と数えている)。 確かにこのことが、紛争介入の問題を扱う際に、内戦に集中すれば十分という理由ではあるがしかし、重大な国際間の新たな戦争の危険がなくなった、と結論づけるのはあまりにも早計であろう。
武力紛争を分類するのに多くの異なる方法がある。 この研究の目的からすれば、紛争介入のために意味のある分類法を見つければ十分である。実用的な紛争の類型学として、マイアル他によって提案されている類型学(1999)は、AKUFによって用いられるものと自由に組合せられるだろう。調査研究の途中でさらなる区分が有用であると立証されるならば、この類型学はさらに洗練されることであろう。 この類型学は紛争関係者と問題の組合せに基づいている。
1. 国際的/各国間の紛争
2. 国内の紛争
2.1 反政権(マイアル他は「革命/イデオロギー」)紛争/戦争
2.2 自治権と分離脱退(マイアル他は「アイデンティティ/分離脱退」)紛争
2.3 党派的紛争(AKUFは、争っている中央組織が双方にあるか、少なくとも片側に正規軍が関与しているかどうか、そして争いがある程度継続しているのかどうか、によって「その他の内戦」あるいは「社会不安」)
2.4 植民地解放戦争
さらに明確な分類は、次の通りである。
- 少なくとも一方の闘いが政府側の正規軍(軍隊、警察、準軍事的なユニット)によってなされているかどうか。(たぶん国内紛争だけに関連性のある分類)
- 一方だけが暴力を振るい、他方は非暴力的手段だけを採用しているかどうか。(この分類は、少なくとも理論上、国際的紛争にも国内紛争にも適用できる)
- 外部の関係者による直接的軍事関与があるかどうか(軍事介入)
今日では、組織化された暴力の中で内戦が圧倒的に多いという事実は、これらの問題を扱っている者が直面している問題に重大な衝撃を与えている。そこには多くの関係者がいることが多く、非常に多様な利害関係を持って国境を越えている例が多い。最近になって、戦争の存続によって利益を得ている人々の類が特に注目を集めた(平和維持に関する最近の国連のレポートは、彼らを簡単に「略奪者」と呼んでいる)。 メアリ・アンダーソンは「凶悪犯」「和解できない人々」「武器商人など暴利をむさぼる者たち」であると分類している。戦争が極めて私闘化されていて、小型武器を用いて争われ、市民が簡単にパートタイムの戦士になって、戦闘員と非戦闘員の間の明瞭な区別がなくなっていると言っても差し支えない。国際人道法がだんだんと留意されなくなって来ている。病院や学校、難民センターや文化的遺跡のような民間施設が暴力攻撃の目標にされて来たように、市民たちとその支援者がしばしば暴力攻撃の目標にされて来た。
1.1.2.3(武力)紛争の原因
武力紛争の原因に関する調査研究は、この分野で活動しているほとんどの学者たちにとって受け入れてもらえる首尾一貫した理論を生み出すまでには至っていない。しかしながら紛争が、ただ一つの原因、あるいはただ一つの解釈に限定できるものではない、という点では合意が得られているようである。戦争を拡大させるために満たされるべき「必要条件はほとんどなく」、「十分条件の方は非常にたくさんあって、どのような単一の紛争でも、それらの十分条件の中のほんのいくつかを適用できるだろう。戦争というものは、複数の関係者の間に論争点がありさえすれば、闘うことのできる武器が手に入り次第直ちに起こり得る。しかしながら、何が戦争を作りだしそうなのか、ということはもっと複雑な問題である。」ということは明白である。
解釈にもいろいろな分類がある。遺伝学的な進化論的/生物学者理論(遺伝子の機能としての攻撃性、生き残るチャンスの最大化)、行動主義者理論(習い覚えた行動としての戦争)、費用便益理論(利潤の最大化)、環境論的理論(希少資源をめぐる戦争)、社会的/文化的理論(紛争原因としての民族あるいは宗教、もしくはその両方)、および認識的(態度)などの諸解釈である。
1990年代の始めまでは、ほとんどの学者は国際戦争に集中していた。 国内紛争の原因を考慮するようになったのはごく最近である。その原因は、力の不均衡(ローマの支配統治以降よく知られている概念)、経済成長と自由貿易、相対的な略奪(豊さと権力への期待と実際 な入手できたものとの相違)、環境の劣化、厳密な意味での国家とナショナリズムのイデオロギー、政治組織の特定の形態(民主主義、独裁政権、過渡期の政権)、権力の独占の存在、そして国内の結束力と外部からの攻撃の間のつながりである。実在している権力の独占と国内の結束が、平和のための支えである、と言う理論と、それとは反対のことを言う理論もあることには驚かされる。明らかに、紛争原因に関する調査研究の状態は、はっきり言って結論には達していない。
また、民族の多様性の役割についても異論が多い。紛争中の当事者は彼ら自身を民族的なのだ、と特定する傾向があるが、紛争に関わっている多くの研究者は、それが本質的な原因ではないと見ている。民族意識は、人々を他の民族に対して動員する際の有力な要因である。何故ならば、民族意識のせいにし易いし、根底にある価値観を触発し、克服することのできないもののように思わせるからである。なお、民族意識は、原因としてではなく、むしろ手段として、もしくはイデオロギー的な基点として考えるべきであろう。
いろいろな、そして多くの場合通俗的な、心理学的で生態学的な理論が、人々はなぜ戦争を支持し、戦争に参加しようとするのかを説明しようと試みたが、現代の戦争がなぜ起きるのかについて十分な説明をすることができない。個人的な攻撃性では、軍備と軍需産業および現代の軍隊を説明することはできない。
戦争を拡大する次の三つの重要な要因については、合意が存在しているように思われる。
悪い経済状態は、国内紛争の主要な原因であると思われる。
抑圧的政治システムは、特にそれが過渡的な状態にあるならば、戦争を指向しがちである。
再生可能な資源の劣化(浸食、森林破壊、水の不足)は、武力紛争の可能性の一因となるかもしれない。
その一方で経験的には、民主主義国は互いに戦争を始めることはないように思われる。 この見方には、多くのコメントが寄せられた。しかし、この見方は多くの紛争介入、特にOSCEや国連その他によって企てられる民主化プログラムのための原理でもある。
非暴力行動の提案者は、その上に紛争の個人主義的理論を強調する傾向がある。たぶん支持者の大部分が個人主義的な西欧文化に根ざしているからであろう。ジョン・バートンなどによって普及された人間の欲求アプローチについて特に言及することが必要であろう。それは多くの紛争解決プロジェクト、特に紛争解決ワークショップと呼ばれているプロジェクトの理論上の基礎である。バートンは、人間の動機付けには三つのタイプ、すなわち、欲求と価値観および利害関係があると見ている。基本的欲求は「普遍的であって、かつ、根本的」であり、四つ目の情緒である満足/幸福という前向きの情緒状態を可能にするために、三つの基本的情緒(恐怖、怒り、意気消沈)を避けることに関するものである。人間はこれらの情緒によって動かされる存在なので、人間には、満足を 得られるような生活の条件のために対応する欲求の組合せがある。これらの二次的欲求がどのようなものであるかについて一般的合意はない。しばしば言及されているのは、主体性、自由、認められること、刺激、配分の公正、参加、合理性、そして管理権である。これらの基本的欲求は絶対に満たされなければならないので、人々はそれらを求めて戦争に走ろうとする、などと議論が続いている。 しかしこの理論は、あるグループが長期間にわたって難詰されることなく、他のグループを犠牲にして、自分たちの二次的欲求を満たそうとすることを許容している構造的要因あるいは文化的要因を考慮に入れていない。
恐らく、もし紛争の原因の4つの種類を区別しようとするスミスの提案について合意がなされていたならば、討論の中の実りなき部分の多くを避けることができたのではなかろうか。
- 背景的原因(たとえば、あるグループが権力から排除されている、あるいは地域的に経済格差がある、というような社会構造あるいは政治構造という基礎的な要因)
- 動機付けの戦略(重要な政治的活動家の目標と、彼らがその目標達成について進めようとするやり方)
- 引き金(武力紛争開始のタイミングに影響する要素)
- 触媒(国際介入のような外部要因を含めて、紛争の激しさと期間に影響を与える要因)
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