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<非暴力平和主義の可能性>

君島東彦(きみじまあきひこ)
北海学園大学

本稿は『ピープルズ・プラン研究』第15号(ピープルズ・プラン研究所、2001年8月)63〜65頁に掲載された原稿である。

一、ハーグ平和アピール
 世界の平和運動にとって「ハーグ平和アピール」は画期的なものであったと思う。一九九九年五月にオランダのハーグで開催され、世界中から一万人近い人々が参加した「ハーグ平和アピール市民社会会議」を結節点として、この会議の準備プロセス、とりわけ「二一世紀の平和と正義へのハーグ・アジェンダ」の作成、五日間にわたる会議での討論、そして「ハーグ・アジェンダ」を実施していくプロセス----このプロセスは今まさに進行している、これら全体=「ハーグ平和アピール」は、二〇世紀を総括し二一世紀を展望する時点での、世界の平和運動の認識と実践を集大成するものであった。
 ハーグで会議が開催されたとき、NATOはユーゴを空爆していた。会議ではコソボ問題に関するセッションもあり、激しい議論がなされた。ハーグ会議に参加した世界の多くのNGOはNATOのユーゴ空爆を批判する声明を出したが、他方でコソボにおける人道的危機に対し、現に進行している殺戮をとめるための武力行使は必要であるとする主張もまたあった。殺戮を傍観するのか、武力行使するのか。平和運動にとって、「コソボ」は厳しい試練だった。
 ハーグ平和アピール会議において、ひとつのワークショップがあり、それが重要な問題提起をしたことは、そのときあまり注目されなかった。それは「訓練された市民平和活動家の活用の促進」というワークショップで、「国際平和旅団」(Peace Brigades International、PBIと略称される)というNGOが中心になって準備したものだった。

二、NGOによる非暴力的介入
 それでは、国際平和旅団、PBIとはどのようなNGOなのか。PBIは、一九八〇年代以降、世界各地で活動が活発になった「第三者による非暴力的介入」の手法を実践するNGOのひとつである。これは完全に非武装の市民ボランティアが紛争地域へ入っていき、そこで非暴力的な民主主義運動、人権運動などに従事している人々に付き添うことによって殺戮や紛争の暴力化を予防しようとする試みである。このNGOはあくまでも地元の運動体、活動家の要請に応じて派遣され、地元の人々が対話により紛争の平和的解決を追求できる環境をつくりだすことを目的としている。外から「平和」や「正義」を押し付けるものではなく、このNGOが紛争を「解決」するわけではない。紛争を解決するのは地元の人々である。
 このような「第三者の非暴力的介入」のNGOは、世界に二〇以上あり、コロンビア、メキシコ、グァテマラ、ニカラグア、バルカン諸国、イスラエル/パレスチナ、スリランカなどで活動している。そして、これらのNGOは一定の成果を収めているのである。
 非暴力的介入NGOの活動が活発になったのは一九八〇年代であるとしても、その起源はガンディーの「シャンティ・セーナ」(=平和隊)にある。ガンディーは、インド国内において非暴力的に紛争を予防ないし転換するものとして、「シャンティ・セーナ」=平和隊を構想し、これはガンディーの死後実現された。このガンディーの構想が受け継がれ、とりわけ一九八〇年代から世界的に具体化されるようになったのである。
 コソボで人道的危機が発生したとき、非暴力的介入NGOの活動家は、彼らの組織の不十分さを嘆いた。これらのNGOは規模が小さい。紛争地域へ派遣されるメンバーはだいたい一〇人から数十人規模である。ある者は、もし一九九五年までに一〇〇〇人の活動家がコソボに入っていれば、一九九八年に勃発した暴力的な事態を回避しえた可能性が高いと考えている。非暴力的介入NGOの活動家は「コソボの悲劇」を痛恨の念をもって想起している。そして、この悲劇を繰り返さないために、人道的危機に際して、緊急かつ大規模に派遣できる組織の必要性が感じられた。これが「非暴力平和隊」の構想である。

三、「非暴力平和隊」プロジェクト
 ハーグ会議のワークショップにおいて、非暴力的介入NGOの手法をより大規模に展開する構想が生まれ、この構想は「非暴力平和隊」を創設するプロジェクトとして具体化された。そして、ピースワーカーズというNGOの活動家、デイヴィッド・ハートソーとメル・ダンカンが「非暴力平和隊」プロジェクトの組織化に乗り出した。
 ハーグ平和アピール会議から一年後の二〇〇〇年五月、ニューヨークの国連本部で「ミレニアム・フォーラム」というNGOの会議が開かれた。この会議のときには「非暴力平和隊」プロジェクトは相当に進行し、具体化されていた。
 わたしは「日本ハーグ平和アピール運動」の代表としてこの会議に参加した。そこでデイヴィッド・ハートソーとメル・ダンカンに出会い、「非暴力平和隊」プロジェクトについて突っ込んだ意見交換をした。デイヴィッド・ハートソーは「非暴力平和隊」プロジェクトの準備のために、一二月のほぼ一か月間、東アジア六か国を訪問した。その際、日本にも一週間滞在し、日本の主要な平和NGOと会合を持った。日本の平和NGO関係者は「非暴力平和隊」プロジェクトについてデイヴィッド・ハートソーと率直な意見交換をした後、日本からもこのプロジェクトを支援していくことで意見が一致し、「非暴力平和隊日本グループ」を結成した(一二月二日、東京)。そして、わたしが日本グループのコーディネーターをつとめることになった。
 日本グループはその後、ほぼ月に一度のペースで集まり議論をしてきたが、五月三日の憲法記念日に合わせて、「非暴力平和隊」プロジェクトを広く知らせるイベントを企画し、四月三〇日に東京・文京シビックホール会議室で講演会を開いた。PBIのメンバーとして一九九四年にスリランカで活動した経験を持つ大畑豊さんとわたしが話をした。当日は一五〇人を超える参加者があり、とりわけ女性と若者が多かったのが特徴的だった。六月三〇日には、京都の立命館大学でも同じようなセミナーを開いた。
 「非暴力平和隊」の構想は、PBIの経験に基づくところが多く、基本的にはPBIの手法を大規模に展開するものといってよい。その詳細は後記のウェブサイトに掲載されている「提案」と「ニューズレター」でご覧いただきたいと思う。

四、展望
 「非暴力平和隊」プロジェクトはいま調査研究段階にある。非暴力的介入NGOの経験が豊かなメンバーからなる調査研究チームが七月下旬に報告書を提出することになっており、それをうけて国際運営委員会が七月末にミネソタ州セントポールで開かれる。そこで、プロジェクトの進行予定が具体化されるだろう。次のステップは、パイロット・プロジェクトとして、実際に一定の規模のチームを、必要とされる紛争地域へ派遣することになろう。そして、フィードバックを繰り返しながら、「非暴力平和隊」をつくっていくのである。
 もちろんあらゆる場合に非暴力的介入の手法が有効であるというわけではない。この手法の「妥当範囲」を画定する必要がある。しかし、人道的危機に対して、傍観するのでもなく、武力行使するのでもなく、非暴力的に対処しようとする努力は、これまであまりにもなされて来なかったと思う。非暴力の妥当範囲は相当に広いはずである。

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