新宿連絡会(正式名称:新宿野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議)は、新 宿を野宿を強いられている当事者を中心とした団体です。新宿連絡会は、野宿の当事 者同士の「ヨコのつながり」を武器に、「仲間の命は仲間で守る」活動を行なうと共 に、行政に対しては「排除ではなく野宿から脱することのできる対策の推進」を求め 続けています。
1994年2月、東京都は、当時、ダンボールハウスが軒を連ねていた新宿駅西口4号街路 (駅から都庁に向かう二本の地下通路)で初めての大がかりな強制撤去を行ないまし た。通路の一部はフェンスで閉鎖され、追い出された人々には原則として二週間の臨 時施設での宿泊が勧められただけでした。
この排除の直後、こうした「対策なき撤去」は問題の解決につながらないばかりか、 野宿を強いられている人々の生活環境の悪化、ひいては路上での「野たれ死に」を強 制する結果にしかならないと、複数の支援団体が新宿に入り、強制排除に抗議する活 動を始めました。そして野宿の当事者も自分たちの権利をかちとるための団体の結成 に至り、1994年8月、目的を同じくする当事者団体と支援団体が結合して新宿連絡会 が結成されました。
新宿連絡会は新宿区に対する団体交渉を行ない、94年11月には新宿区の「環境浄化対 策」から「浄化」の二文字を削り、区として野宿労働者排除を行なわないという方針 転換をかちとりました。また東京都に対しても、野宿労働者への生活・就労対策の強 化を求め、排除ではなく当事者との話し合いをもとに対策を推進していくことを求め てきました。
しかし東京都は95年秋、突如として「動く歩道」の着工計画を野宿労働者の頭越しに 決定、話し合いによる解決を求めた新宿連絡会の申し出を無視して、96年1月に4号街 路での強制排除を強行しました。この暴挙に対しては国内外から大きな批判の声がわ き上がりました。
排除に抵抗した新宿連絡会は、西口地下広場のインフォメーション・センター周辺に 新たな「ダンボール村」を形成することを呼びかけ、4号街路を追い出された人々を 中心に新たなコミュニティが作られました。東京都はこの新たな「村」についても排 除を画策しましたが、排除と収容をセットにした政策は野宿の当事者の反対のもとに 頓挫し、97年10月、ついに東京都福祉局は新宿連絡会を当事者団体と認め、排除では なく当事者との話し合いのもとに野宿から脱せられる対策を推進するという基本姿勢 の転換を余儀なくされました。野宿の当事者の四年越しの訴えがついに都政を突き動 かしたのです。
しかし行政と当事者の話し合いによる「自立支援事業」が開始されたのもつかのま、 98年2月7日、新宿西口地下広場で火災が発生、4人が犠牲になり、「ダンボール村」 は焼失しました。新宿連絡会はコミュニティの発展経路を提示できなかった自らの弱 さが仲間の命を奪ってしまったことを認め、行政とのぎりぎりの折衝により「自立支 援暫定センター」の新宿区内二ケ所設置を条件に西口地下広場を自主退去しました。 西口地下広場の「ダンボール村」で暮らしていた人々は、一部が近くの公園などに移 転したものの、ほとんどの人が施設に入所し、就職や生活保護適用などそれぞれの歩 みを始めることになりました。
深刻化する不況のもと、新宿駅周辺には今なお600人近い人々が野宿を強いられてい ます。(区内では約900人)新宿連絡会は現在、中央公園ポケットパークで炊き出し を継続すると共に、パトロールや福祉事務所への付き添いなど「仲間の命を仲間で守 る」活動を続けています。また98年4月からは他地域の団体と連携して「全都野宿労 働者統一行動実行委員会」(全都実)を結成し、「自立支援センター(本格実施)」 の早期開設を柱にした行政への要求行動、団体交渉を行なっています。
野宿の当事者の力で仲間の命を守り、行政を変え、社会を変えていこうとする新宿連 絡会の取り組みにあたたかいご支援をお願いします。