<日報「窓」投稿 ボツ原稿>
武田貞彦(四五歳)
アルバイター
自民党県議団で、「県議支部」をつくることが検討されているという。
「企業と政治の癒着」が一大テーマとなった九〇年代初頭。一つの結論として出されたのが、九五年の政治資金規制法の改正であった。この付則九条で個人への献金が五年後に禁止されることになり、十条で政党への献金も含め見直すことになった。先の国会で自民党は当初この措置をすべて反故にしようとたくらんだが、世論の猛反発にあって、政党への企業献金だけを残し、個人への企業献金を禁止することにしたのである。ところが今度は、政党への企業献金はいいのだから個人である政治家が政党の支部長になって、いままでどうり個人も企業献金をいただきましょう、というのがこの度の「県議支部」づくりである。
「政治にはカネがかかる」などといったたわごとを許してはならない。また、企業献金禁止の見返りとして三00億円からの政党助成金制度がつくられたことも決して忘れてはならない。 利益を追求するのが企業である。利益を求めず政治家に金を出せば株主に対する背任であり、利益を求めて金を出せばワイロである。どちらに転んでも道理はない。それにこの不況の中、中小企業の社長だって本当は企業献金なんて出したくはないのだ。いいかげんにしろ!だ。
明けて二〇〇〇年、新年をいかがお迎えでしょうか。
昨年四月の県議選においては多くのご支援をいただき本当に有り難うございました。改めて御礼申し上げますとともに、みなさまのご支援を実りあるものにできなかった、自らの非力を重ねてお詫びいたします。
落選以来私は、次期県議選(二〇〇三年四月)に向けての予想される多くの困難を考えるとき、再挑戦への決意をなかなか腹の中に固めることができませんでした。「選挙なんだから当選することも落選することもあるよ」「亀田ではあんたが一番だったんじゃないか」「梁取さん、石塚さん、斉藤さんもみんな落選を経験してるんだよ」「一度くらい落選したからってしょぼくれてるんじゃないよ」などなどの励ましに支えられ今日を迎えることができました。半年を過ぎ新年を迎えた今「やっぱり、もう一度は挑戦したい」という気持ちがメラメラと沸き上がってきました。もとより困難は覚悟の上、次期県議選の再選を目指し、本日よりたたかいを開始することを決意します。
私自身は、三年半後を見越して先月の初めより、週四日、鉄工所でのアルバイトを始めました。活動の制約を受けることになりますが、「武田新聞」の発行など、できる限り目に見える活動に努めたいと思います。「石の上にも三年」ちょうど私にピッタリの言葉です。一生懸命頑張りますので、どうか私の事を忘れないで下さい。そして、今一度のご支援を心よりお願いいたします。
末尾ながら、貴方様にとって今年が幸多き年となりますようお祈りいたします。
二〇〇〇年を迎えて 二〇〇〇年正月
武田貞彦
追 伸
今町長選において、私は中林義則さんを、町議補欠選挙には渡辺和夫さんを応援しています。ともに町議時代からの「住民が主人公の政治」に情熱を燃やす同志です。資料を同封しますので、ご検討いただければありがたいです。
<日報「窓」投稿 ボツ原稿>
「トキを守ろう」といっていながら、イヌワシを絶滅に追い込む県行政。昨今の政治は一般人には誠にわかりづらい。
「カネと政治」が一大テーマとなった時期を経て一つの結論と出されたのが九五年の政治資金規制法の改正だった。自民党はこの法律で来年一月から禁止されることになっていた政治家個人に対する企業・団体献金を反故にしようとしたが、世論の猛反発にあって、これを撤回すれることになった。が、しかし、政党に対する企業献金は存続するのだという。
政治家に企業から入るお金の流れは公式的には二つ。一つは、政治家個人の資金管理団体へ、二つ目は、政党の支部を経由するものである。今度の与党三党の合意とは、一つ目は禁止するが、二つ目は存続するというものである。しかし、政党の支部は政治家個人が支部長となっていくつでもつくれるし、またそれが実態である。つまり、管理資金団体への献金が禁止になっても現実はなにも変わらないのである。
利益を追求するのが企業である。利益を求めず政治家に金を出せば株主に対する背任であり、利益を求めて金を出せばワイロである。どちらに転んでも理はない。ましてや中小企業の社長は企業献金なんて本当は出したくはないのだ。いいかげんにしろ!だ。(99.12.3記)
<「虹と緑」虹と緑・地方自治政策情報センター機関誌 創刊号(99.12) 掲載原稿>
新潟県巻町 笹口孝明町長へのインタビュー(聞き手・武田貞彦/前新潟県議)(99.11.1
巻町役場町長室にて)
「町有地売却は町民意思の実現です。」
武田 選挙戦を迎えてのお忙しい時に恐縮です。この度の住民投票尊重派への町有地の売却については反原発運動に関わってきたものととして大変うれしく思っています。巻町は全国初の住民投票を実施し、原発建設をめぐる攻防、また住民投票と自治体運営といった点で全国の注目を集めてきました。まずは、今回の決断に至った、笹口町長の考え、思いといったところからお話頂けますか。
笹口 この町では30年前から、原発問題が持ち上がりました。町長選挙は、「原発推進」と言った候補は落選し、「慎重」と言った候補は当選ということを繰り返してきました。私の前の佐藤町長も一期、二期目と「原発については凍結」といって当選し、三期目(94年8月)は作るんだ(原発を)といって、実際は争点をボカして当選しました。佐藤さんの得票は、原発について中間派の候補と反対派の候補の合計を下回りました。原発問題はこの町の将来を左右する、子や孫の将来をも左右する重大な問題でした。こうした重大な問題は町民の意見を聞いて決めて欲しいというのが私たちの主張であり願いでした。そこで、「原発問題は住民投票で決めよう」という運動を起こしました。しかし、町としてはできないということで、私たちが実施しました(95年2月)。45%の投票率で、95%が原発反対でした。この結果がでた3〜4日後に、東北電力が町有地の売却要望を町に出していたのです。これを受け佐藤町長は売却のための臨時議会を開くという。これだけ圧倒的な町民の意見があるのに何故、売却の議会を開くのか。いかに住民の声と、議会や町長の考えがズレていようと彼らはやっていくんだということを、つくづく感じました。同時に最大の問題は町有地なんだということも実感できたわけです。その後(註1)、町議選挙(95年4月)で住民投票条例制定派が勝ち、裏切った人がでたり、ハプニングがあったりしましたが条例は制定されました(註2)。この条例の第三条には「町長は、巻原発予定敷地内町有地の売却その他巻原発の建設に関係する事務の執行にあたり、地方自治の本旨に基づき住民投票における有効投票の賛否いづれか過半数の意思を尊重しなければならない。」とあるんです。にもかかわらず、佐藤町長は住民投票を実施しようとせず、住民投票と町有地売却は関係ないとして、再び12月議会に売却案が出されるんじゃないかというところまでくるわけです。もはや、これ以上の住民無視は許されないと、ギリギリの段階でリコールに踏み切ったわけです。佐藤さんは辞任し、私が町長になりました(註3)。その時の私の公約が、「必ず住民投票をやります」「その結果を尊重します」でした。住民投票は実施(96年8月)され、投票率88%、原発反対が60%を越えました。
<住民投票は最高意思決定機関>
武田 当時の歴史的ドラマが思い出されますね。
笹口 この町にとって住民投票がすべてだったんですね。住民投票をやれば結果がでるから、原発問題は大きく収束に向かっていくと思っていたわけです。しかし、国、電力は住民の意思を無視しました。そのことに都合のいい一部の町民にも住民投票の結果をないがしろにするような行動がいくつか見られてくるわけです。資源エネルギー庁の機関紙を新聞折り込みしたり、原発ツアーが再開されました。電力は「町有地を売ってくれる町長はありがたい」と発言し、「一期だけでも町長を取れば何とかなるんだ」といった一部町民の意見が目立ってくるわけです。あの住民投票は一体何だったのか。住民投票の位置づけはいろいろありますが、巻町の住民投票は、町民の最高の意思決定機関が下した結論である、と位置づけざるをえないと思うんです。単なる住民アンケートでもなければ、議会制民主主義を補完するものでもありません。原発問題というこの町にとって、とてつもなく重大な問題は、町長一人の判断では困る、議会の何人かの判断でも困るということです。主権者たる町民みんなの総意で自分たちの未来を決定するという最高意思決定だったのです。そして一票でも多い方向に進んでいくという私の約束の中で、一人一人が覚悟の上で投票して決めた結論でした。また、この住民投票を民主主義の観点からいえば、直接民主主義と間接民主主義が結合されたものであったことを強調したいのです。いま経過で述べたように住民投票の結果は議会の多数意思によって導かれたものです。最終的な8月4日実施案は、議員の一人を除いて、決議されたもので、その一人も住民投票に反対なのではなく、時期の問題だったのです。こうして出された住民の意思がないがしろにされかねない現状のなかで、条例の本旨に立ち戻るべきと考えています。さっき読んだように条例三条は、町有地売却と事務手続きは町民の意思を聴いて決めなさいとしています。私はこれに従って原発推進のあらゆる団体から町を脱退させ、電源立地対策課も廃止しました。町民の意思どうりやりました。町有地については、電力に売らない事は確定していました。売らなければ町民の意思を表すことになると思っていましたし、そうなりかけていたわけです。しかし、ここにきて先ほど述べたような危機感があったので、これは条例にあるとおり、町長は住民意思を尊重する処置をとる必要があるということで売却を決断しました。
武田 今回の売買契約は条例上の価格、面積に達していないことから事前に町議会には諮られず町長の行政執行行為、随意契約として行われましたが、推進派からの批判があったようですね。
笹口 売却にあたってはいろいろ議論があり、一般競争入札せよ、というのがありました。しかし、一般競争入札をすれば力のある人、お金のある人が取ってしまって、結果として原発推進の人が買うかもしれない。そうすると住民意思は実現されませんよね。随意契約をしてもよい典型の例だと考えました。それに歴史的にみて前の長谷川町長時代に電力に町有地の一部を売却していますが、この時も随契ですし、佐藤町長が臨時議会に提案しようとしていたのは、東北電力に売ろうとしていたんですから随契以外のなにものでもありません。また、私は原発反対派の人に町有地を売ったのではありません。この町には推進の人も、反対の人もいますが、もともと推進派でも反対派でもなく、住民投票の結果を尊重する人、に売却しました。議会に相談しないのは議会軽視だという意見がありましたが、投票条例には町有地のあつかいも含めて条例化したわけですから、議論は終わっているというのが私の立場です。また、通常は課長が起案し町長が決裁するが、これをしていないのは財務規則違反ではないかというのがありましたが、町長自らの起案ですから問題はありません。今回の措置については、県、自治省とも「問題なしとの態度」と報道で聞いています。また、電力による住民監査請求の意向が報道されましたが、東海村ウラン加工施設での重大事故の影響で中断しているようです。
<住民投票の結果を守るのは住民です>
武田 4年間首長を努めての感想は
笹口 「住民投票の実施」「結果の尊重」これにつづいて「一人一人が大切にされる町政」というのを公約に掲げたんですが、これはなかなか難しい。一歩一歩近づいていくしかない、いきなりできないんですね。まずは、町民の声を聞くシステム作ることから始めました。一つはテーマ別懇談会。もう一つはまちづくり座談会をやりました。これまで区長を中心とした地区要望が主だったものの他に、教育、福祉、ゴミ等々という形で、テーマごとの課題にも取り組んできました。また、まちづくり座談会では、若い主婦層、商工会の青年部や、若手農業者グループ等々との会合を重ねてきました。その中で、できることは即やる。お役所言葉に「検討します」というのがありますが、本当に検討するときにだけ、使うように改善してきました。また、これら住民集会のなかで、これからの行政マンに求められることは情報提供能力だと思いました。役所の資料をそのまま出しても住民に即座に理解してもらうのは無理です。また、これまで感じたことでいえば、女性の地位についてです。女性課長は一人もいません。次が補佐、次が参事ですが、それらもゼロという状況でした。今年ようやく補佐を一人誕生させました。能力ある女性はいっぱいいますが、冷遇されています。女性課長の誕生が今選挙の公約の一つです。
武田 選挙の話になりましたが、原発は争点ですか。
笹口 原発は大きな争点の一つです。巻町民は30年間、原発に思い悩んできました。21世紀までこの問題を引きずっていきたくありません。今回の町有地売却を含め、巻に原発を建てることは極めて難しく、ほぼ終わったと思いますが、今の政府の有事法制や日の丸・君が代法制化などのやり方を見ていると不安は拭いされません。電力があきらめましたと、国が基本計画から外しましたとならない限り万全とはいえません。現在の「終わった」かと思われる状態を維持していくためには、住民意思を反映する町長を、また議会を選び続けなければなりません。住民投票の結果を守るのはあくまでも住民であると思っています。このことと、町民のための町政に磨きをかけるための選挙であると訴えています。
武田 1月の選挙、必ず勝ってくださいね。今日はありがとうございました。
(註1)95年2月の臨時議会。ハンストや議会座り込み等の抗議行動が繰り広げられ、議会は流会。
(註2)95年6月条例成立。同9月、原発推進多数派によって実施時期を「施行から90日以内」を「町長が議会の同意を得て実施する」に改正。
(註3)96年1月。佐藤町長は立候補できず、告示日当日、立候補した候補を相手に笹口氏が圧勝。
新潟県議会議長
梁取 隆 様
委員会会議録の利用についての要請
地方自治発展に向けた日夜のご活動に敬意を表します。
さて、私の県議在任中の常任委員会・特別委員会会議録が必要となったため、次の3点について実行可能となりますよう取りはからいをお願い致します。
(1)委員会会議録の閲覧
(2)委員会会議録のコピー
(3)委員会会議録のコピーの自由な活用
これまで、委員会会議録の公開については各派代表者会議において議論され、「公開との結論に至っていない」旨、議会事務局より聴いています。しかし、一般者の傍聴が許可されている委員会でありながら、その会議録だけは公開されていないという現状はまったくの論理矛盾であり、納得のできるものではありません。この際、是非とも委員会会議録の公開に踏み切っていただきたい。また、各派代表者会議に参加権のない議員や一般県民には会議録非公開の理由すらわからないという理不尽さをお考えいただき、もし私の上記要請に応えることができない場合、委員会会議録非公開の理由について県議会議長としてのご見解を文書にてお応え下さい。(回答は10月15日までにお願い致します。)
参考 (1)この度の委員会会議録の使途理由
現在、新潟地裁で係争中の「イヌワシ訴訟」の原告より協力要請されているため。(証 拠書類として提出を検討している)
(2)この度必要な会議録
・95年12月厚生環境常任委員会・96年3月厚生環境常任委員会・96年7月厚生環境常任 委員会・96年6月環境問題対策特別委員会
1999年10月6日
前県議会議員 武田貞彦
<市民新党にいがた 機関誌「たんぽぽ」に掲載>
この度の選挙戦にあたりましては、多くの読者の皆様からもご支援とご協力をいただきまして心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
さて、選挙は「無念の敗北」となりましたが、その結果について振り返ってみようと思います。今選挙を一言で言い表せば、有力4候補のうち私の住む亀田町に3人が集中し、村松町から社民党の塚野氏が一人という構図のなかで、塚野氏が地元村松票をまとめきり勝敗を決し、自民現職の梁取氏が全4町から手堅く票をまとめ、逃げ切った選挙、といえると思います。(「市町村別得票数」参照)
今回の選挙のもう一つの特徴は、天下の自民党の梁取氏、一隆会と亀田製菓の全面的なバックアップを受けた佐藤純氏、自治労という大労働組合の組織内候補の塚野氏というこれまでの大企業、団体主導の選挙に対し、一人一人の熱意に支えられた「草の根選挙」が立ち向かったということでした。確かに「負けは負け」ですが、亀田町では一位、横越町、小須戸町で前回票を上回るという、大組織と互角に闘えたことは、新しい政治を求める「時代の声」を、はっきりと社会に示すことができたものと確信しています。
さて、「市民新党の広告塔」を自負しこの間活動してきましたが、市民新党としては「県会の一議席」を失い、当面「低空飛行」に入らざるをえません。こういう時期にこそ市民新党としての内実と人的運動的ネットワークの充実の時と考えています。いままだにも増して皆様方のご支援・ご協力をよろしくお願いします。
私自身のこれからにつきましては、市民新党の活動を中心に担いながら、次の政治展開に向けじっくりと考えてみたいと思います。また、わが亀田町の町長選(来年1月)に「虹と緑」のメンバーで、活動を共にしてきた中林義則(40歳)さんが立候補
を表明し、現職を含む保守系2候補との選挙戦に突入しています。中林さんとは町議の同期であり、自治と草の根民主主義にもとづく町づくりについて熱く語り合ってきた同志でもあります。新しい政治の流れをつくるために私も全力奮闘するつもりです。皆様のご支援を何卒お願いいたします。
99.夏 武田貞彦
<支持者にあてたお礼状>
・・・・・・・・・・・・
ご支援御礼
無念の結果となりなした。皆様には本当にさまざまなご支援をいただきながら、目
的を達成できず、本当に申し訳ありませんでした。
天下の自民党の梁取さん、一隆会と亀田製菓の全面的なバックアップを受けた佐藤
純さん、自治労という大きな労働組合の組織内候補の塚野さん。私の選挙は、こうし
た大企業、団体主導の選挙に対し、一人一人の熱意と正義に支えられた「草の根選挙
」でした。
議会レポートの手配り、宛名書き、知人・友人の紹介と声かけ、自宅での電話かけ等
々、他の選挙事務所では予想だにできない、とてもすばらしい選挙でした。確かに「
負けは負け」ですが、亀田町では一位、横越町、小須戸町で前回票を上回るという、
大組織と互角に闘えたことは、新しい政治を求める「時代の声」を、はっきりと社会
に示すことができたものと確信しています。
そして何よりも、こうした選挙を皆様と一緒に闘えたことは、私にとって、この上も
ない誇りであり、限りない勇気をいただくことができました。
私自身の今後につきましては生活の問題もあり、じっくり考えてみたいと思っていま
す。いずれにいたしても、これまでのご支援に深く感謝申し上げますとともに、今後
とも地域に暮らす友人の一人として、変わらぬお付き合いを賜りますよう、心よりお
願い致します。ほんとうに、ありがとうございました。
1999年4月12日 武田貞彦
<「地方から政治を変える」(コモンズ刊)掲載原稿>
本題に入る前に、私たち「市民新党にいがた」について一言ふれておきたい。私たちはいくつかの市民運動に関わるメンバーが中心となり、選挙や政策づくりも既成の政党に任せておくのではなく、自分たちでやってしまおうと94年に結成した地域政党である(現在県議一名、市議一名)。以来、95年自治体選挙、95年参議院新潟選挙区選挙、96年衆議院新潟一区選挙等に候補者を立てたたかってきており、微力ながら、全国に対し「日本版緑の党を創ろう」とよびかけつづけている。この度の「500人リスト」の試みが、そのための大いなる一歩となることをこの上なく望んでいるのである。以下の報告は96年12月県議会以来の「従軍慰安婦決議問題」に対する活動報告であるが、いわゆる市民運動としてではなく、政党活動としておこなった点に着目いただきたい。そのことによって、私たちが考える「市民運動」と「政党」との関係についてもより理解していただけると思うからである。
■ありとあらゆる行動を展開 「自由主義史観」と呼ばれる歴史観に基づく右派勢力などによる一連の全国運動の一環として、県内の一民間団体から「『従軍慰安婦』は事実と異なる。自虐史観だ。中学生にこんな事は教えられない」として教科書から削除するよう要求する陳情が新潟県議会に提出されたのは、96年12月である。95年秋以来いくつかの地方議会を狙って同様の陳情が提出されており、県議会レベルでは新潟と岡山、鹿児島が初めてだったようだ。
私は、63名の議会定数の中の一人会派でしかないが、市民新党の他のメンバーとともに、考えうるあらゆる行動を展開した。市民グループ、女性グループ、宗教団体、高教組などの労働組合、そしてアジア諸国の大使館や報道機関にもこの問題をアナウンスした。さらにインターネット上の市民運動関係のメーリングリストにもアナウンスした。 さらに私たちは、インターネット上に公開されている、この問題に関連する多くのページからデータを収集し、さらに右派側の論理もチェックした。私たちは、これらの主張に対して綿密な論証を加えて反駁するために、インターネットで収集した膨大な資料の中から、「慰安婦」の方々の証言よりむしろ、発見された旧軍の資料、宮沢政権から現政権に至るまでの歴代政権の公式見解、国連や国際人権組織などの調査報告などを中心として整理して討論資料を作成し、そして私たちの意見を付してこの資料を議会内各派に配布した。後述のようにこの討論資料が非常に重要な武器となった。 さらに私たちはこの問題が中央政治のレベルにおいても自・社・さ連立の歴史認識に関する合意にも関わる問題だと考え社民党の何人かの衆院議員、自民党新潟県連代表で自治大臣の白川勝彦氏、慰安婦問題を教科書に載せることを支持している文部大臣の小杉隆氏らにも、何らかの行動をとってくれるよう要請した。
こうして、多くの団体・グループが申し入れ行動などをおこない、市民グループに
よる集会も開催された。様々な活動の成果で、自民党以外の全ての会派はこの陳情に対し「不採択」もしくは「保留」の態度を示し、議会内絶対多数派の自民党も「継続」として、採択は見送られることとなった。以来、議会内外で攻防が繰り広げられてきたが、97年9月議会において自民党が、この陳情及びこれに反対する12本の陳情を双方全て「保留」とした上で、「教科書の見直しを求める」意見書を議員提案し、これを議会としては「可決」(賛成=自民・旧民社系・公明、反対=市民・社民・連合系・共産)するという形で一様の決着がはかられた。「教科書の見直しを求める意見書が可決されてしまった」という政治的な意味を軽視するつもりはないが、意見書の文面は「慰安婦」の「い」の字も、「歴史」の「れ」の字もなく、ただ「教科書にはいろいろ問題があるので見直してほしい」というものであった。両陳情の取り下げ、意見書可決という決着の仕方は長崎県議会においてもとられたがその文面にあった「検定の強化」も本県では文字にすることができなかった。その意味では当初のタカ派のもくろみは、大きく後退せざるをえなかったのだ。
■新しい「市民政党活動」のスタイル 振り返ってみて今回の私たちの行動にはいくついかの特徴がある。まず、私たちは
「運動としての目的」と「政党の役割」を区別し、それぞれの目的を十分に成功させ
るために奮闘した。まず私たちは議会内に築いたたったひとつの議席を最大限に活用して、他の政党や市民グループ、さらには中央政党や外国公館・報道機関への働きかけや調整・コーディネート、アナウンスなどに専念した。私たちは今回の問題に限らず、他のさまざまな問題でも、「運動的な課題」を市民新党にいがたに取り込もうと言う「野心」を意識的に持たないようにしている。それはむしろ運動と政党との腐敗した関係の温床になるからだ。「運動団体」(あるいは「市民」)が「議会」や「行政」に関わろうとするとき、私たちはその「代理人」ではなく、運動団体や市民が直接に政治へ参加・発言しようとするプロセスをサポートあるいはコーディネートする役割を担おうとしている。その一方で取り組んだことが、「議会」の水面下での徹底的かつ攻勢的な政治論争の準備、すな
わち前述のような綿密な資料の作成であった。この資料が議会内外で力強い武器とな
り、内部の学習資料としても非常に役立ったし、市民グループばかりでなく総務文教
委員会で共産党の議員までもがこの資料を活用し、「大変役に立ちました」と感謝し
てくれた。社民党の主張にも影響を与えた。極少数派である私たちが準備した政治論
争の主張が、大げさに言えば議会の舞台裏の議論の趨勢に大きな影響を与えたのであ
る。自民党にとってもこの資料は、私たちが冷静な論争と断固たる決意を以て議論を
準備している証と映ったに違いない。
また、この資料の中で従軍慰安婦の方々の証言ではなく他の資料を中心にしたのに
は理由がある。私たち市民運動出身者には、あまりにも安易に「慰安婦」の方々の証
言に感情移入しながらこの問題を論じる傾向があるのではないかと考えたからである
。例えば新潟の市民グループが申し入れしようとした文書には「恨(ハン)」という
言葉が使われていた。これは日本人の我々が使うにはあまりに安易すぎると思われる
し、実際市民運動内部からそのような批判が上げられた。犠牲者の側に立って考え物
を言う立場には間違いはない。しかし自民党の連中の多くは、そもそも慰安婦の方々
の証言の多くがデマや大げさだと思っているし、市民運動の中に見られるような「他
人の言葉で物を語ろうとする」スタイルを嫌悪しているから、どんなに悲惨な証言を
引用して抗議したとしても、彼らを説得することはほとんどできないと思われる。ま
た、同じ市民グループの申し入れ文書の中に「政府は、・・・『国会決議』をおこな
った」という文面もあった。日常的に「政府=自民党=支配者階級は一体となって.
..」という「運動圏」の発想思考方法に慣れていると、この文章は不自然ではない
のかも知れないが、「政府」と「国会」は違うという三権分立や民主主義の根本原理
さえこうした運動原理の中では忘れられがちである。 ある意味で特殊な力学が働く「場」としての「制度圏」での政治活動、政党活動のありようは、自ずと「運動圏」の行動論理とは微妙に異なってくるものと思われるし、「運動圏」の直接の延長線上ではい、「制度圏」での独自の活動こそ議員や政党が模索すべき領域だと思う。
さらに今回の行動の中で、資料収集・アナウンス・他の地域のグループとの情報/
意見交換などにおいて「インターネット」は大活躍した。インターネット上のデータ
は簡単に利用できるので、前述の資料作成にあたっても、わずか1日で立派なものを
作成することができた。こうして私たちが作成した資料も、インターネットやパソコン通信、FAXネットの波に乗って今や全国各地のグループに転載・利用され、その実態はもはや把握できない状況だ。さらにインターネット上の「メーリングリスト」という機能を使って、市民運動関係の情報として、私たちの手元には毎日のように岡山県議会の状況、陳情文、抗議文などが電子データとして配信されてきた。もちろん新潟の状況も発信した。こうして、自分のところだけでなくさまざまな地域やグループの情報が相互に一瞬のうちに手に入るのである。このようにインターネットによるネットワークが作られれば、特に今回のような地方議会を舞台にした右派側の全国キャンペーンに対する情報交換や反撃には絶大な武器となるし、それだけに限らず地方議会をめぐるあらゆる情報・意見交換に決定的に役に立つものとなることを確信できた。
(文章作成に市民新党にいがた中山均さんの協力をいただいた。)
新潟県議会議員 武田貞彦
<「ローパス」地方議員政策研究会機関誌NO.19(99.8)掲載原稿>
都道府県は国ではなく市町村の補完を 当日参加した、都道府県の議員が私一人であったため、本テーマの原稿依頼が私のところにくることとなった。実際、ローパスで都道府県行政の問題が取り上げられたのも珍しく、私にとっても本講演は大変、有意義なものだった。私自身、道政といえば、「時のアセス」で頑張っているなあといった認識しかなかったのであるが、今回の動きは3年前の知事選挙で「道政を自立した政府として改革する」が公約となり、その実現として極めてトータルに、しかも知事のリーダーシップのもとに進められていることを知った。講師の神原氏は北海道大学の教授で、今回の道政改革のプランづくりの中心となった、「道政改革民間フォーラム」の副委員長、昨年3月に提言をまとめて以降は、その進捗を点検する「道政改革推進委員会」の委員長という立場の人だ。
氏はまず道政改革の最も基本的なテーマは「分権の時代に都道府県はどうあるべきか」だとしながら、3つの課題を示した。第一は古くからの課題である「官治集権」「国の代行」「タテ割・セクショナリズム」からの脱却。第二は新しい課題として「自治」の名にふさわしい政府に、いかにつくり変えていくか。市町村は基礎行政、国は基準行政、都道府県は補完行政としてやってきたが、これまで県は国を「補完」してきたが、これからは市町村を「補完」しなければならない。第三は北海道独自の課題として「広さ」という点から他の県と市町村の関係と同じにはできない。自立的な経済、生活の圏域(リージョン)をどうつくるか。以上三つの課題を自治基本法、自治憲章(自治基本条例)の展望の中ですすめていく必要を強調した。
支庁を地域総合政策機関に その上で、今回の改革内容をハードとソフトに分けて説明した(道政改革の課題領域を参照)。まず、ハード面でのポイントは支庁の改革である。支庁はこれまで、本庁(部門)の出先機関をただ集めただけのもので地域の総合的な政策能力をもたなかった。本庁、つまり部門のタテ割りから、部門と地域が対等な関係とし、支庁を地域総合政策機関に改革することが眼目である。そのために地域政策部をつくり権限と予算をつけ支庁の強化をはかったこと。また、これまで部長のみの幹部会議にテレビ会議も含め支庁長も出席するようにしたこと。また、政策の枯渇化を招かないためには市町村、道民の参加が基本との認識から、各種円卓会議の他、全国に類のない支庁、市町村長会議の常設がなされたことなどが報告された。支庁改革の他では、トップ・マネージメントの強化の課題で、これまでの副知事の部門担当制に加え、地域担当制をとったこと。道政スポークスマン機能の強化として知事、各部長の定例会見の実施。トップ・マネージメントを支える知事政策室の設置と室長と部長の同格化等があげられた。また、総合政策部に関連してこれまでの高度成長時代に生まれた行政の量の管理を目的とした企画部の時代は終わり、企画部は戦略的機能をもつ部門へ。一方、政策能力は政策担当している現場(部門と地域)がもつべきとの認識が示された。
政策評価システムをつくる 次にソフト面での改革と進捗状況が説明された。情報公開条例改正を4月に行い、外郭団体、審議会等への範囲を拡げ、全国一の水準のものにすることができた。宮城、沖縄(いずれも要項設置)につづき条例では初のオンブズマン制度が年内中に発足予定。外部監査制度を今秋導入予定。職員倫理条例の制定等々。また、新長期計画(10年)を策定したがこれまでの計画手法を改め前期5年につづく後期計画は、前期の終了前年につくることとし、計画の弾力化をはかった。また部門別の計画にとどまらず、「パートナーシップ計画」として道内を6地域に分けてそれぞれの地域計画を策定した事などが話された。
最後に、「健全な政策は健全な仕組みから生まれる」との観点から、これまでの行政には実行した政策を評価するシステムがなく、このシステムの前提づくりとして「事業別政策調書」(別掲)の作成を道政3.000の事業全てにわたって開始していることが説明された。「このフォーマットがあれば議会での質問に役立つでしょう。これは皆さんへのおみやげです」と神原氏は結んだ。
神原氏の講演で多くの先進事例を学ことができたが、私にとっては特に、「支庁を地域総合政策機関へ」と「事業別政策調書」の提起が新鮮であった。支庁改革は今後の都道府県の基本的在り方を示していると思う。また今回の道政改革が知事選挙の公約からスタートしている点も大変興味深かった。現状を嘆く前にやれることは、山ほどある。
掲載するもの
1.道政改革の課題領域
2.事業別政策調書のフレーム
新潟県議会議員 武田貞彦
<「ローパス」地方議員政策研究会機関誌NO.18(99.5)掲載原稿>
1/11〜22の間、ドイツを訪れる機会を得、緑の党と交流をもつことができた。読者の何らかの参考になればと、報告してみます。ボク達が4年前市民新党にいがたを創ろうとしていたとき、すでにドイツ緑の党をかなり意識していたことが思い起こされる。自分たちの理念と政策を創るために一年間討議を続けて来たが、その時、結成当時の緑の党の綱領が参考資料のひとつとなっていた。しかし、ボク自身はこのとき、(それまで社会党に籍を置いていたということが影響していたと思うが)「緑の党を創りたい」という意識は極めて薄く、社会党の崩壊過程で左派的なブロックができてくるだろうから、そこに、合流していけばいい、程度に考えていた。しかし、「平和・市民」の敗北をはじめ、待てど暮らせどそのようなものはできてこない。また市民新党にいがたとして参議院選挙区選挙、衆議院新潟一区選挙を独自に経験することなどを通じ、ボク達は次第に「日本に緑の党を創りたい」と考えるようになった。とにかく、行って、会って、話を聞いてみよう。
党員はどんな活動をしているのですか? ボク達が今回交流できたのは、大部分がハノーファー市の党のメンバー。ハノーファー市は人口42万人。緑の党は、社会民主党(SPD)
、自由党(FDP)との連立に参加している。ハノーファーはニーダーザクセン州の首都でこの州もSPDと緑の連立。ちなみに、ドイツ16州のうち5つの州でSPDとの連立に参加しているという。
最初に訪れたのは、ハノーファーの党事務所。駅近くにある3階建ての一軒家。1階に8畳くらいの事務室が3つ
。2階、3階は物置と会議室になっていた。玄関を入ると一面に、数10種類の政策リーフ、チラシ、ニュースが並べられ、ポスターが張られていた。緑の党のロゴマークを配した宣伝用の自転車がカッコよかった。相手をしてくれたのは、ここの事務局長のアンフレートさん。党の組織、活動について聞いた。
党員は600人、と聞いて、ムムと思ったのだが、選挙運動での実働は250人くらいだそうだ。新潟市は人口48万でボク達の選挙の実働が100人くらいだから、まあまあかなって思ってちょっと安心。党員は年1回の総会のほか、通常は各区(議会をもち選挙がある)ごとに月1程度の会議を持っているそうだ。主なテーマは何だと聞いたら「学校のこととか地域のことだよ」との答え。市民運動との関係を尋ねたら、抱えているテーマごとに作業委員会をつくり、党の政策づくり、議会への持ち込みをおこなっているようだった。
市長が4人?? ハノーファー市には市長が4人いると聞いて驚いた。最近1人は選挙で選ばれるようになったのだが、それまでは、各会派より1人づつ市長をだしていた。現在は1+3で4人の市長がいるのだそうだ。バーバラは緑選出の市長。ジーパン姿のロングヘアーの女性で、現役の学校の先生でもある。バーバラから市庁舎を案内してもらいながら話を聞いた。市議は報酬ではなく費用弁償(かかった費用を補償)でそれぞれが仕事を持っている。一人前の給料は州議会議員以上だそうだ。ああ、本当にごく普通の人が、ごく普通に議会にでてやってるんだなあと印象づけられた。公約で何が実現できたか聞いてみたら「使われていない民間の建物を地域の公民館にできた」。
選挙 目標は12%の獲得 この日は、選挙担当のアンドレスより選挙の話。3月1日に州議会選挙があるということで街頭へのポスター張り出しの最中だった。環境問題の強調は経済に抑制がかかるのではないかとの不安をつくっており、これを打ち破るのが大変だと話はじめた。彼らは、自分たちの環境を重視した経済政策の方が、経済的にも優れているというシンクタンクの見解を発表して対抗している。同じバージョンで3種類の選挙ポスターにはそれぞれ、「エコロジーと仕事」「連帯と安定」「女性の力」と書かれていた。もう一枚比例1位(区から連邦まで比例制)の女性の顔写真を大きく載せたポスターがあるのだが、他党では定番のこうしたポスターも緑でははじめての試みなのだそうだ。「反権威」をとことん議論してきた結果の妥協でもあるらしい。3種類のポスターのバックにはそれぞれ「手」「顔」「足」がテーマとして配列されているのだが、2〜30人の「顔」の中に、7人の候補者の顔もひっそりと並べられている。選挙運動は、もっぱら新聞の配布だという。ハノーファーで10万部を戸別や街頭で配布する。加えて課題別リーフが2〜30種類(女性問題一つみても、レズビアン、ホモセクシャル、外国人女性・・・・といったぐあい)あった。特に初めての選挙人はターゲットだそうだ。若い人の支持率は高いのだが、活動家は40代30代が中心だという。対策としては若者の独自活動を認めていたり、若い候補者を出すようにしている。7人の候補者年齢は24〜44才。選挙に使う名簿はどのくらいあるのか聞いてみた。党員の600プラス、グループを含め2〜300だという。選挙費用は700万円、州全体で7,000万円。SPD は14億円くらい。3月1日の目標はハノーファーで35.000票、12%。州全体で8%だという。もうすぐ、その日はやってくる。
会派の会議 緑の市議は11人。彼らの会派会議を覗かさせてもらった。比例女男交互名簿のため出席者の半分は女性。思いおもいの服装。コーヒー、ジュウース、ミネラルウオーターにお菓子、ゆったりした雰囲気の中で会議はすすめられていた。一人の女性は小学生の娘を同伴だ。ハノーファー2000年万博を前に、議会として98年リスボン万博の視察参加をめぐる議論だ(92年開催賛否をめぐる住民投票の結果、僅差で開催が決定。市は反対派に対して活動を保障するために年間1,500万円の助成金を出している!!)。一人の女性が「行くべきでない」と原則論。会派の代表の男性が「もう決まっちゃったんだから、見ておくべきだ。おれは行く」と現実論。「じゃあ私も行くわ」と別の女性。「それぞれの判断で」が結論のようだった。
団塊の世代 この日は、市議のヘルガさんが、議会活動について話してくれた。ヘルガさんは48年生まれの68年大学入学、「ベトナム反戦、反ファシズム運動をライブで体験」してきた。80年代は住居占拠運動に参加し、86年から区議〜市議となるが、この時は緑のリストではなく、緑プラス、オルタナティブグループの共同市民リストとして参加。つまりパリパリの左翼なのだ。そういえば、万博視察に反対していたのも彼女だ。現在、グローバル化の中で手工業者がどう未来をもちうるかを研究する民間の研究所で働いている。ヘルガさんには、ハノーファー市以外の電力を使わないという法律の実現によって、原子力発電を拒否できたこと。夜間帰宅の女性の街頭での危険回避のために、路面電車の下車地から無線によるタクシーの連結と料金補助を制度化したこと。車の市内乗り入れ、30km速度制限、路面電車拡充の経緯等々多くのことを教えてもらった。
ドイツでも緑の大臣が誕生!!?
お話は、これでおしまい。日本にも緑の党を創り、あたらし政治を切り開いていくお仕事が、ボク達を待っている。
市民新党にいがた
県議 武田貞彦
写真説明
1.緑の党の事務所の玄関。各部屋にはパソコンが配置され、今回の選挙からホームページ等利用しているとのこと。アクセスは1週間で300件程度。
2.経済常任委員会を覗き見。日本からの見学者だと紹介された。行政の担当者は左上段の数名らしい。つまり、議員が議論しているのだ。
3.街角に張り出された緑のポスター。後景がSPD。公共物への立てかけはすべてOKのようだ。
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