No.1998-2

被害の証言;―父親と抱き合って私は泣いたー
張 俊英さん
南京市・市内(1928年生れ、当時9歳、女性)

 苦しみを心に閉まってきたが…

 今度、日本に来て大勢の人が話しを聞いてくれると言う事を聞きました。これから、いろんな事を話したいと思います。61年間、このことを言いたくなかったし、誰も私達の事を聞き取ろうとしませんでした。これから話す61年前の出来事は、私の家族を含めて誰にも話していません。61年間、この苦しみを心にしまってきました。 1998年に南京大虐殺記念館が一つの活動をしました。その中で今の日本では依然として南京大虐殺を認めないという言動があるという事を聞きました。もしまた自分達が受けた苦しみを言わなければどうなるのだろうと思いまして、私はついに自分の体験を言う決心がつきました。

 南京を去れなかった貧しい人々
 
 1937年、私は父母と3人で暮らしていました。既に母親はお腹に弟を妊娠していました。その時、日本兵が南京に入城して来たので何かあったらいけないと思って、まず母親が長江を渡って行きました。その時は南京の町中も乱れていたので、父親も私を連れて長江を渡って、自分の故郷に帰ろうとしたのですが、もうすでに舟がありませんでした。その時、随分多くの人たちが南京を去りました。去れなかった人は比較的貧乏な人達で、渡る方法がない人たちでした。多くの人は揚子江を渡れなかったので、中華門から浦口に行く鉄道へ向って殺到しました。その時、日本軍の爆撃が随分ありましたが、多くの人は、先程言った浦口という所に殺到しました。

 家は焼かれ、日本軍に使役された父親

 14日、日本兵が入って来た次の日ですが、中華門はもともと比較的貧しい人達が住んでいたところ、茅葺きの家が多かったのですが、日本兵は現れると火を付けまわり、その一帯の空は一面赤くなっていました。家が殆ど焼かれていました。自分達の住居も全部焼かれてしまいました。私の父親は焼かれた住居跡に行って、焼け残った食糧が多少残っていて、表面の焦げを取って、ちゃんとなっていた米や、穀物を拾い集めてきました。14日と16日の間だと思います。父親は日本軍に捕まえられて行って、そこで雑役をさせられました。仕事は、例えば、馬の面倒を見たり、火を焚くと言う雑役をさせられました。父親は彼ら(日本兵)の言葉が分かりません。彼らの言う言葉が分からないとすぐそこで殴られました。その事をよく私に話していました。

 日本軍は9歳の私を押し倒し、強姦した

 14日、15日の話ですけれど、午前にある日本の兵隊が私の家に押し入って来ました。その時、自分の家の回りは、多くの人が逃げ去った後だったため、数少ない人達しか残っていませんでした。例えば自分を含めて9歳の子供が2人いて、50歳の人が2人いました。その日は曇りでした。しかも非常に寒かった記憶があります。その時、1人の日本兵が入って来て、周りを見回し、私を見つけて捕まえました。そこで、日本兵は私の顎をちょっと上げて帽子を取り上げました。私が女の子であるとことに気付いた日本兵は、私を押し倒しました。日本兵は私の服を剥いで私の下半身に手を入れました。とても痛かったので、手で痛い所を遮ろうとしたら、日本兵は私の手を叩きました。私は強姦された後、とても痛くて、痛くて、泣いていました。その後父親が帰って来て、私から話を聞いた父親は私を抱きしめ、2人で抱き合って泣きました。父親は私を慰めました。どこかへ逃げよう、日本の鬼がいない所へ逃げるからと言って慰めてくれました。父親は二つの篭がある天秤を捜し出して、片方に自分を乗せて、もう一方の篭は布団や探し出した残りの米を入れて、その夜私達2人は脱げ出しました。

 日本兵が来ている事を教えてくれた婦人

 空が明るくなって回りを見たら死体だらけでした。死体だらけで、至るところ死体が転がっていました。そこは、夏家凹というところでした。農民の家がありましたが、農民の家も全部焼かれていました。私と父は焼け跡に残っていた農民が漬けた漬物を見つけ、漬物の上の灰を取り去って食べていました。40歳ぐらいの婦人が慌ただしそうに走ってきて何か言おうとしていたが、私達は聞き取れませんでした。実は、彼女は話が出来ない人でした。最初、私達は彼女が話せない事に気がつかなかったので、色々と話そうとしました。実は、彼女は向うから日本兵が来ている事を私達に知らせようとしていたのです。それが分からずに……。そこへ日本兵が3人来ました。日本兵はその婦人に何か言いましたが、その婦人が何も話ができない事を見て、日本兵はいきなり銃剣を持って彼女を刺し殺しました。彼女は3回も刺されて殺されました。その時、父親は何日も髭を剃っていなくて、髭は長くなっていました。父親はこの前の恐怖が身にしみてビクビクと震えていた私を抱きしめていました。なぜか分からないけど、その時、日本兵は私達を傷つけませんでした。

 犯される事を恐れて16歳で結婚した娘さん

 その後、さっきの女性が殺された村から、ある農村の村へ歩いて行きました。その村にはまだ人が残っていたようでした。その時、1人の「鬼子」日本兵が入って来ました。農民はみな隠れていたのですが、その「鬼子」は、あっちこっち探しまわり、皆を探し出しました。出て来ない所(家)には火を付けて回りました。そして、百人位の人を一カ所に集めました。日本兵は1人の女性をこの中から選び出しました。その女性を私達はおばさんと呼んでいました。おばさんと言うが実は16歳でした。おばさんは、結婚していたら日本人に犯されないんじゃないかと、父親が16歳で結婚させたからです。日本兵は、そのおばさんを捕まえて牛小屋に連れて行って強姦しました。その後、その一家は抱き合って泣きました。

 日本兵を避けて逃げ回る日々

 その後、南京から離れれば「鬼子」の被害が少なくなるだろうと思って牛首山と言う所に逃げて行きました。兵隊がこっちから来ていると言う知らせがあると、こっちからあっちに移動して、こっちから来ていると聞くと、あっちに動いて日本兵を避けて走り、歩きました。昼間は山の方に隠れて夜になってから帰って来ました。自分達はいつもこうしていました。いかにして日本兵の暴力から逃げるか、皆で協力していました。例えば穴を掘って、穴の中に女性を隠して上に板とか色々な物を置いて隠そうとしましたが、それでも駄目でした。ある日3人の「鬼子」が馬に乗って来ました。その数人の若い女性は近づいて来た日本の兵隊によって拉致されて行きました。年取った人の話によれば彼女らは輪姦にあったようです。その後の彼女らの行方は全然分かりません。12月の南京は非常に寒い所です。結局、あるお寺の中に入りました。そこへ段々と人が集まってきて、人がすごく多くなりました。お寺に入りきれないぐらいの人がいました。寝ようとしても寝られない時はどうしたかと言うと、例えばある人は脚を壁に上げてそこで寝ました。

 翌年の1月頃、家に戻る

 皆が集まっていろんな人が行き来する牛首山と言う所で、自分は小さかったけれども、よく色んな状況を聞きました。話によれば、少しは落ち着いたと言うことでした。次の年の1月頃でした。牛首山で少し落ち着いたという話を聞いたので、自分達の元の住居に戻りました。そこは全く家がなくなっていました。結局、父親がどこかを捜して自分達は住みました。戻って来た時、やはり死体があっちこっちに見えました。その場所は中華門の西の西街と言うところです。自分達には食べる物もありません。あっちこっち捜して歩きました。その時、歩いては死体にぶっつかる、歩いては死体にぶっつかったという状態でした。その後、食べる物をどうやって探したかという話をちょっと話します。日本兵は十字口という所、今は火葬場になっているのですが、そこで、牛とか、馬とか、飼っていた。そこで日本兵の牛や馬がたくさん殺されました。私たちは、殺した牛や馬の肉を取ってきて売ったり、食べたりして過ごしました。

 まだ言い出せない人達に勧めたい

 

 私は、9歳の時父親と逃げ回った話をしました。今、自分の見た事をそのまま話しました。南京大虐殺では大勢の人が殺されました。南京では自分が話したような事はたくさん起こりました。そういう日本兵が犯した罪は、そのまま見過ごす訳にはいきません。私は60年来、この事を全部胸にしまい込んで来ました。なぜかと言うとそういう事を言っても、皆がどういう風に聞くか、心配をして言えなかったのです。今度ここに来て多くの人が自分の話をちゃんと聞いてくれました。自分のために、自分達の身になって、物を考えてくれる人達がいる事が分かりました。私は帰った後、まだ言い出せないでいる人達に勧め、自ら、こういう話を話すように勧めたいと思っています。今度日本に来て、多くの人が私達の事で一生懸命やっている事を知りました。私は帰った後、こういう事をもっと勧めて行きたいと自分でも思っています。
 日本政府に謝罪を求めます。日本政府がこの南京大虐殺で犯した罪を認めないと言うことは、中国人として許しません。日本政府に対し、謝罪を求めたい。求めます。ここに来ている皆さんに感謝したいと思います。私は、中国人の、少なくても南京で被害を受けた人達を代表して皆さんに感謝したいと思います。一生懸命活動して下さっている日本人に感謝したいと思います。有り難う御座います。   
                                   以 上

<出 典>
●「南京レイプを明らかにする東京集会―日本軍による性暴力― 報告集、 ノーモア南京の会、1998.12.8 発行