No.2003-1
被害の証言;上海宝山区における侵略の被害
証言者 叶 林根さん
1921年生れ、男性、82歳 上海市宝山区在住
1937年、15歳の時の第二次上海事変における受難者
司 会
それでは早速証言に入らせていただきます。最初に資料に叶林根というように姓が「叶」と表示されていますが、これは「葉」の字の中国での簡体字になっております。それでは叶林根さんの証言を受けたいと思います。
叶林根
ご臨席の皆様、こんにちは。私は上海から参りました叶林根と申します。
日本軍が上海から私達の住んでいる村、宝山区橋行鎮の北宗村を襲って来ました。そして爆撃したり、放火したり、そういうことをしました。2機の飛行機が村の上に飛んで来て爆撃をしました。近くの家が沢山爆撃を受けました。
当時、私は兄弟4人でした。一番上は兄で、私は16歳位、下は10歳と7歳の弟が居ました。私の父は40歳でした。父は私達4人の兄弟を連れて西北の方向に逃げて行きました。そこにある家に入った後、外の様子を見に父が出て行ったら、日本軍が沢山居ることが分かりました。その家には何人か居ましたが、日本軍がその家に入って来ました。そして私は父に早く逃げて下さいと言ったら、父は逃げて行きました。日本軍が入って来て、ある人に手を出すように言いました。手を出したら日本軍は銃でその人を撃ち殺しました。
そして私達はまた別の所に逃げて行きました。しかしそこにも日本軍が居ましたので、また石家荘に戻って来ました。そして私達はそこで料理を作る為に小麦を粉にする仕事をしている時に、日本軍が入って来て、私は兄と一緒逃げて行きました。
そして日本軍はその村の周囲を全部取り囲んで、全ての男性と女性を打穀場の所に連れて行きました。そして人間だけでなく、すぐに豚や羊などの家畜を家から出して、家畜に対しても同じように銃で撃ち殺しました。そして打穀場の所では男性と女性を分けました。
そして男性は投げ出すようにして殺しました。女性に対しては服を脱がして、脱がない人に対しては銃剣で脅して首のところから下まで服を切り裂きました。そしたら女性達は子供を前に置いて、体を隠すようにしましたが、日本軍はその子供を引き離して、子供を投げ飛ばしたり殺したりしました。
男性に対しては小さい川の土手の所に集めて、銃剣を向けて殺そうとしました。私の父と兄が連れて行かれて、私一人が残されました。父達が何をされるか分かりませんでしたので一緒について行きました。一番前に居る人に対して日本軍は銃剣で2回位突き殺しました。皆はそれを見て川に飛び込みました。日本軍は川に飛び込んだ人達に対して銃で撃ちました。私の父と兄が飛び込んだ後、日本軍は兄の背中の方を撃ち、父は頭の方を撃たれました。しかし私は泳げませんでしたので飛び込んでも死ぬと思ったのですが、私も一緒に飛び込みました。私の回りは全部死体でした。飛び込んだら私の足の下に丁度1本の木がありまして、それを踏んでいました。その川には蓮の大きな葉があり、私はその葉の下に隠れて銃殺から逃れることが出来ました。私は水中に撃ちこまれる時の銃弾の音も聞きました。とても怖くてそのままじっとしていました。蓮には穴があるのでそれを鼻につけて呼吸が出来るようにしました。私の傍らに10歳の子供が居たのですが、私が動かないように言ったのですが動いたので、日本軍に発見されて銃殺されました。日本軍が川の土手の傍に来て、生きている人が居るかどうか確認しているのを見て、私は日本軍が離れるまで動かずにじっとしていました。それから日本軍は土手から離れて鶏とかを殺して、それを持って東の方に行きました。それから私はやっと川の中から出て来て、日本軍が居るかどうか確認しました。もし日本軍がまだ居たら殺されると思いました。私は川から出て来てから自分の手を見ましたら、隣の人の血がついていて、服も赤く染まっていました。
それから私は家に帰りましたが、家に入るのは危ないので畑の方に行きました。翌日になって川面に死んだ人達が浮いて来たのですが、皆腹が膨らんで背中を上に向けているので、誰だか分からない状態でした。顔が水の中に入っていますので後頭部しか見えず、誰だか全く分かりませんでした。自分の家族も分からなかったのです。
男の人達は全部殺されましたので、次は女性達を強姦し始めました。女性も抵抗したら、同じように殺されました。
私は食べ物とかを取りに行こうと思って家に行きましたら、死体が腐敗しているような臭い匂いが充満していて、死体の上にはハエが沢山集まっていました。ハエが余りにも多いので、とても死体を見ることも出来ないような有様でした。
この様なことは唯私の家の近くだけではなく、回りにも沢山その様なことがありました。私はその時殺されなかったのでここで紹介することが出来ますけれども、もしその時殺されていたらここでこの様な話をすることも出来ないことです。私は今年もう82歳になりますが、これはもう66年前の出来事で、当時私はまだ15歳でした。
以上のことが私の一生で一番悲惨なことでした。ですから私は皆様には平和を愛し、仲良くして頂きたいと思います。時間の関係でこれで終わりたいと思います。今日は有難うございました。(拍手)
司 会
有難うございました。毎年、中国から幸存者(生存者)の方をお招きして証言を受けている訳ですが、分かっているつもりでも戦争の実態がどういうものなのか、“非戦闘員を殺す”というふうに非戦闘員を巻き込んでいるということを簡単に言ってしまいますが、そこには一つ一つの命が惨たらしく奪われていくということをリアルに想像しながら理解していくということがなかなか出来ないことを、私などは常々反省してしまいます。例年、証言者はお二方をお願いしている訳ですが、今年はお一方ということで、特別に何か質問があればお受けしたいと思います。会場の方でどなたか質問されたい方はいらっしゃいますでしょうか。
質問者
1937年に家族の方を失われた時にわずか10代半ばであり、当時男性の方がかなり亡くなられたので、その後のことがとても気に掛かります。その後、戦争が終わってからどの様に暮らして来られたのかお聞きしたいと思います。
叶林根
私の母もその時に日本軍に殺されまして、父も亡くなりましたし、兄も亡くなりました。私は畑で草とか野菜とかを食べたり、その様な生活をしました。そして私は腐ったものを食べたりして下痢をすることもよくありました。私は弟も一緒に他の人の家に行ってお手伝いをさせて頂いて、お金を貰って生活していました。その当時、一番下の弟は7歳でしたので、仕事もきちんと出来ない状態であり、生活は大変苦しくて、服は麻袋をかぶって生活していました。この様に仕事をしながらお金を貰ったり、食事をさせていただきながら生活しました。日本軍が村を離れて行った後に私達は帰ったのですが、家は放火されてしまっていましたので、小さな小屋を作って住みました。
この様な生活をずっと続けるのは駄目だと思って、20歳前には家を出て商売を始めました。タバコとか日用品を売買する仕事です。商売する為にはお金が必要なのですが、私はお金を全然持っていませんでした。私の家には木がありましたのでその木を全部売り払って、それで得たお金で商売を始めました。また食べ物を売る商売ですが、上海まで行くのに途中で日本軍の検査が何度もあります。検査証のようなものがあるのですが、日本軍は食べ物を売る商売を認めませんでした。色々な検査があって、もし見つかったら物を奪われたり、刑務所に入れられたりしました。その商売をする為に目的地まで2つの関門を通らなければならなくて、その1つを通っても次の日本軍の検査を受けなければなりませんでした。私達は色々と考えて、この商売をしました。また日本軍だけでなく、憲兵の検査もありました。もし憲兵に見つかるとタバコを全部没収されることもあります。だから私達はタバコを憲兵の所に持って行きました。
この様に憲兵や日本軍に没収されることは数限りなくありました。この様な商売をして何回も没収されて、この様なことでは生活していけないと思って商売を止めて、人の手伝いをしたり塀を作る仕事をしたりしました。こういう仕事でも生活はとても苦しくて大変なので、次に豆を売買する商売をしました。その後、また別の商売に変えて、羊を殺して売る仕事をしました。私達は羊の肉を売ったりして力を合せて生活していた訳ですけれども、他の人は親を持っていますが私達には親が無く、とても苦しい生活をして来ました。しかし解放後、私達は政府から生活費を支給されて、今は幸せな生活をしています。このような話をしたら長くなりますので、この辺で終りにさせていただきます。
司 会
どうも有り難うございました。80歳のご高齢ですけれどもお元気な証言を頂いたと思います。もう一度大きな拍手をお願い致します。(拍手)
(以上)
<出 典>
●南京大虐殺から66年、被害者の証言を聴く2003年東京集会、
「南京からイラクへ、報道されない戦場の実相(報告集)」
2003年12月14日、社会文化会館
編集・発行:ノーモア南京の会、2005年7月10日発行