No.2000-2
(第2部)被害と加害の証言 T;
南京大虐殺における性暴力被害者の証言
楊 明貞さん
南京国際安全区(1931年、南京生れ、当時7歳、女性)
父母を殺された私は7歳で強姦された
私は楊明貞と言います。中国の南京から参りました。私は1931年2月9日の生れです。日本軍がやって来たのは12月13日でした。13日の朝日本兵がやって来たとき、母がどうぞ御座り下さいと言いますと日本軍はそれを無視して母を乱暴に倒しました。次の日とまた次の日の二日間も来ました。その日(最初の日か?)の昼の事だと憶えていますが、タバコとマッチをくれとやって来ました。昼頃日本軍がやって来た時、丁度家の父が居ました。当時、日本軍の空爆で家は壊されたので粗末な小屋に住んでいました。日本軍がやってきて近所のお婆さんとお爺さんを一人ずつ殺して、家の父の左腕を拳銃で撃ちました。同じ日ですけれども2時ごろまたやって来ました。今度は家の母の服を切り裂いて、中に日本軍に奪われないようにと母が隠したお金と、ネックレスとかを全部奪って去りました。
危ないと感じて、次の日に父と母と3人で安全区に逃げようとしたんですけれども、途中で日本軍に会ってしまいました。日本軍が拳銃で私達を遮ったので、仕方がなく私達はまた家に戻りました。日本軍は私を見つけて無理矢理ズボンを下ろそうとしたので、父は「まだ子供ですから、止めて、止めて」と言って止めると、日本軍が怒って家の父にビンタをした後、殴り付けたので父が倒れました。父は倒れてしまって動けなくなりました。
次の日、日本軍がまたやって来ました。母は、強姦されないように顔に墨をいっぱい塗っていました。日本軍は母が汚いと言って、母を酷く殴って拳銃で母の下半身に拳銃を刺し込んでいました。その後、私のズボンを乱暴に外して、その場で私は日本軍に強姦されました。その時私はたったの7歳でした。日本軍は私の頭を刀で何回も何回も切っていました。この様にして私の父と、母が相次いで亡くなりました。私は孤児になりました。丁度その時父と一緒の同じシショウ(?)で後輩のシショウが居て、その人のトムヤンヒーがいました。
(通訳・劉軍さんの補足:トムヤンヒーのことを説明させて頂きます。昔の中国では自分の家の息子が将来大人になってお嫁さんを貰う為に、まず子供の時に婚約して子供を自分の家に入れて家事とかを全部やらせていました。そういう若い女の子のことです。)
その時、トムヤンヒーという人は丁度16歳で、トムヤンヒーの人が安全区から帰って来て私の家に来て、これから君の面倒を見てあげると言ってくれたのですが、丁度その日に日本兵がやって来て、彼女を強姦して殺してしまいました。トムヤンヒーが殺された後、近所に住んでいて昔一緒に遊んでいた、11歳のお友達の女の子が家に来てくれました。しかし、また三人の日本軍がやって来て彼女を強姦した後また殺してしまいました。私を見て日本軍はまた強姦しようとしましたが、私の下半身は完全に腫上ってしまいまして動けない状態でしたので「止めて、止めて」と必死に言ったら、日本軍は私のようすを見て私を蹴って殴って去りました。
私は乞食をしながら12歳まで生きた
私は孤児になって完全に独りぼっちになってしまいました。私は乞食をするしか、生きる方法がなかったのです。市場に行って果物を貰ったり、市場の人たちの手伝いをしたりして生きてきました。その時、日本人の犬に噛まれた事を憶えています。着る服もなく食事もなく世の中の全ての苦しみを私一人体験してきました。若い頃は恥ずかしくて恥ずかしくて人に言えなかったんです。でも私は70歳です。死ぬ前にぜひこの事を皆さんに知って欲しくて名乗り出ました。南京大虐殺被害者のニュースを見て、自分はやっと勇気を出して記念館に伺いました。母が殺された事を記念館の方に語りました。言っても悲しくてずっと泣いていました。でもそこで恥ずかしくて自分の事をいえなかったんです。その後、記念館の女性の方が出て来て何かあったら私に話して下さいと言ってくれました。やっと自分が7歳の時に日本軍に強姦された事を言えました。今までも私はずっとオムツを付けないと駄目です。つまり7歳から今まで毎日のようにオムツをしなければいけない生活です。ずっと小便を調節できない生活です。
乞食をしながら生活していて12歳の時に、一人の男の人と出会いました。その人は今の夫です。ですから12歳の時からその人が面倒を見てくれるようになりました。もう少し大きくなってから結婚しました。自分が強姦された事はずっと心の中に閉じ込めていました。自分の夫もそういうことは絶対言っちゃいけないと言いました。ですから、自分も自分の子供たちにも言った事はないです。
今日は話をさせて頂くチャンスを与えて下さいまして本当に皆さん有難う御座いました。私の要求としては日本政府に戦争責任を認めて、賠償して欲しいということです。まず自分の父と母が殺された事、それから自分の家のお金とか全部を日本軍に奪われた事、最後に自分が日本軍に強姦されて一生の傷を負わされた事に対して賠償を求めたいです。皆さん、どうも有難う御座居ました。
通訳・劉軍さんの補足:お婆さんは2年前もこの場で一回証言をされたこ事がありまし た。但しその時はカーテン越しでしかも仮名で証言をして下さったんです。今度は実名でしかも皆さんの前で証言をして頂く事になりました。本人の気持ちとしては今おっしゃったように自分は間もなく死ぬ人間ですから死ぬ前に絶対自分の体験、日本軍のやった酷い事をたくさんの皆さんに知って欲しいという気持ちで、今度は実名でしかも皆さんの前で話をすることを決意したのです。
<出 典>
●「ノーモア南京 2000年東京集会 報告集、私たちの責任」 2001年12月21日発行
編集・発行:「ノーモア南京 2000年東京集会」実行委員会、