2007年9月19日
東史郎日記の現場を辿るフィールドワークと慰霊の旅・参加記 (<感想文>平塚・田口三省)
まえがき
去る8月12日(日)から19日(日)までの8日間、「東史郎日記の現場を辿るフィールドワークと慰霊の旅」に参加した。旅程は上海→徐州→棗荘→北京→天津で、目的は、一つは、徐州戦の前段をなす戦闘が行われた棗荘市(山東省)南郊での、東史郎日記を基にした現地調査であり、もう一つは天津市での強制連行殉難者追悼式典への参列である。
戦場であった村での調査
この旅行の企画は、東日記を基に研究している棗荘市在住の元・中学校校長、任世淦氏からの共同研究の問いかけに基づくものだ。このため、一連の調査活動は、13日に棗荘に到着後、同氏と会い、双方から今までの調査・研究の経緯、疑問点、懸案事項などを話し合うことから始まった。また、この段階から棗荘市の係官や山東のテレビ局の取材班も参加する規模の大きな活動となり、これはこの後3日間、続いた。この打ち合わせで任さんの積極的な態度がよくわかった。●自分(任氏)は73歳だし、戦争の被害者も次第に亡くなって行く。出来るだけ多く調査し、本に残したいと思っている。そのためにも中日双方で協力して調査研究をしたい、と。その情熱には敬服するほかない。●自分は96年から調査を始め、東日記を基に生き残った地元の人達や多くの中国軍元兵士を尋ね歩き、記述を確かめて回った、と。また、或る時期からは東氏と連絡を取り合い、自分の書いた資料や写真を送ったこともあるという。息の長い研究活動には、敬服する。●自分は、東氏の日中戦争の認識は正しく、日記の記述は適切である、と思う。●(最近、読売新聞:渡辺恒夫が出した戦争責任の本に関して)近く中国でも手に入るようになる。共感できる点がある(のは良いことだ)、と。●東日記と任氏による検証結果は、日本の防衛省・戦史叢書ともよく一致するとのこと。国民党軍の資料とは合わない点があるとのことで、国共内戦のため、国民党軍には、十分な調査・研究の余裕が無かったのではないか、という。
翌14日、棗荘南郊での現地調査に赴いた。
(1) 台児荘対日戦争紀念館;
当時の武器、戦闘の写真や図表のパネルの掲示、城壁内外を示すジオラマがあり、戦争の映画が上映されている、とても立派な施設である。師団、支隊等の進軍、戦闘、退却などの様子が地図の形で提示されていてとても分かりやすい。また、戦闘場面のほか、畑俊六、板垣征四郎など数人の、敵国である日本陸軍の名前をよく聞く軍人の顔写真が掲示されている。
(2)辛庄村;(村の古老の話を聴く。)
老若男女50〜60人の村人が集まって来た。ここでは、2、3人の生存者から当時の様子を聴取した。
東さんの戦友が誤射された場所、戦友を火葬した場所等を確認した。
(3)泉:
(後方が馬山。人だかりの後ろに「清水」がある。)
東日記を読み解く上で、予て日本側でも懸案であった、激戦地「馬山」を識別することができ、また、同じく日記に記述のある、東上等兵が水を汲んだという「清水」も確認することが出来た。日記の記述を裏付けるものの位置関係を視認することが出来たのは大きな収穫だ。ここでも、20〜30人の村人が集まって来た。素朴で、人懐っこそうな顔が回りを囲む。
(4)趙庄村; 1930年生まれという男性から当時の記憶を聴いたが、日本軍が去った後、村に戻ったら老婆の首が3つ、鍋に入れられて煮られていた由。纏足のため逃げられず、難に遭ったという。なんと酷いことするものだ。ここでも、約20人の村人が集まり、我々を見守っていた。
(5)丁庄村;
また、日記に出てくる、日本軍が爆撃にあったとされる井戸を確認した。日記の記述の裏付けが採れたのは有難いことである。
このように、村々の訪問で、中国人の話を直接聴いたのはとてもよい経験であった。しかし、こんなのどかな村々で、激しい戦闘や村人を巻き込んだ殺戮が行われたのかと、暗澹たる気持ちになった。
現地調査の翌日、15日の午前、ホテルにて任氏を中心にまとめを行った。先ず、棗荘市の対日戦争殉難者名が列挙された巻紙に向かって黙祷。続けて、前日の調査を踏まえて議論した。
(以下略)