No.2001-1
南京大虐殺の生存者の証言
王 金福さん
南京国際安全区(1917年、雨花街・難民区、当時20歳、男性)
1.日本軍による占領直後の様子
皆さん、こんにちは。私は王金福と申します。今年満85歳になります。私は、まともな学問もろくに学ぶこともありませんでしたが、私は労働者としてやってまいりました。 これから、60年以上前にさかのぼりますが、1937年当時のことをお話したいと思います。1937年12月、日本軍が南京にやってまいりました。すでに情報が入っておりましたので、金持ちの人間はすでに南京を後にしておりましたが、金の無い人間はそこに留まっておりました。金のない人間は逃げることさえ出来ずそこにいたのです。1937年12月12日のことです。すでに貧しい人間しかいなかった南京に日本軍はやって来ました。当時私はすでに結婚しており、父や二人の弟、父の弟の叔父さん、妊娠中の妻という家族構成でした。
日本軍は次々に南京やって来て、周りを我が物顔で歩いていました。そして私どもは南京区(難民区では?)に逃れました。妻と子供は南京にある金陵女子大学というところに逃げました。私どもが逃げ落ちたところはドイツの大使館だったのでしょうか、壁のところにドイツの旗が刺さっていました。そこに私どもは避難したのです。
日本軍が南京にやって来ましたが、南京には、東門、中央門、西門などと三つの門がありましたが、そこから続々と日本軍がやって来て、南京にいた私たちは誰もが泣いていました。小さな子供から年寄りまで、これから先どうなって行くのだろうかという不安にさいなまれながら、ただ泣いていました。翌13日はすでに、道に私たちの仲間である中国人は人っ子一人見かけられないような有様になっていました。なぜならば、日本軍が銃剣や刀を持って我が物顔に南京の道々をのし歩いていたからです。私達はとてもではありませんが外に出ることも出来ず、ずっと家の中に閉じこもっていました。
2.日本軍による暴虐の始まり
13日に完全に日本軍が占領してから3,4日経ったころでしょうか。17日か18日頃だったと思いますが、そのとき今度は日本軍はわれわれ中国人にじかにもっとひどい仕打ちをし始めました。中に隠れているものや外でちょっと見かけた中国人がいれば、彼等を容赦なく引きずりまわし、時には殴ったりして暴行を加え始めました。ましてや、女性にとっては性的なこともあり、恐ろしくてろくすっぽ歩けないような有様でした。
そうやって南京を占領していった日本人ですが、私ども中国人は誰もがその被害から逃れることは出来ませんでした。殴られたり、蹴られたり、暴行を受けるのはもちろんですが、壁に中国人の頭を何度も何度も打ち付けたりして血が出たりしても、私どもはどうすることも出来ませんでした。一人が抵抗すれば他の皆まで巻き添えにあうかもしれないということもありましたが、私どもはその頃一軒の家に70〜80人押し込まれていたこともあり、この全員が虐殺されかねないという目に毎日あって、恐ろしい日々を送っていました。
私たちはもちろん三食まともに食べることも出来なくなり、そのために病気になって行くものが続々と現れました。中にはただただ見ているだけで、仲間や家族が弱っていくのを見ているだけで、涙を流すしか他にすべがありませんでした。
3.良民検査、虐殺か強制労働か
これから、良民証についてお話したいと思います。日本軍がやって来て、彼らは私たち中国人を良民と不必要な民に分けるために、私たちを全員学校の運動場のような所でしょうか、そういう所に7,8列位に分けて中国人を立たせました。逆らうものがあれば容赦なく、殴り殺すということでしたので、私どもは身動き一つ出来ませんでした。動こうと思うことさえ出来ないほどでした。良民証というものに登記をするために、4,5人の日本兵が私たちを一人一人検閲しました。日本軍が占拠してから1週間ほどたってこの良民検査というものが始まりましたが、私たちは運動場のような所で長い列を作って彼らの検査を受けました。帽子を被っている者は帽子を取らされて、頭から手や身体的なことも調査され、もちろん、名前や年齢、そして自分はどんな仕事に就いていたのか、またどんなことが出来るのか、そういったことを根掘り葉掘り聞かれました。彼らは、私たちの特徴をいちいち細かにノートに取っていたようです。
そして、私の番になりましたが、私は運良くこの良民証というものを貰うことが出来ました。しかし、良民証を持たないものはどこへ連れていかれたのか。つまり、無用の人間として処理扱いになった、と聞きます。そしてこの良民証を受け取った者たちは、数百人くらいですが、日本大使館があった所(現在の南京市鼓楼病院のそば)へ私たちは連れて行かれました。
4.悲惨な奴隷労働、命がけの脱出
そして、この工場に連れて行かれた時のことです。30〜40人で一つの班のようなものを組んで、私は当時班長を勤めていました。主な仕事というのは、馬の鞍に着ける革のベルトやそういうものを修理する仕事でした。当時捕らえられた中国人というのは食事も満足に与えられなかったものですから、20歳そこそこの私はとても毎日腹一杯食べられなかったことが続いたこともあり、栄養不足になってフラフラになっていました。やせ衰えた骸骨のようになった私たち対しても日本人は情け容赦なく労働に駆り立てました。時には私はもう立つことも出来なくなってなっていましたが、日本軍は私たちに暴力を加えて殴ったりしながらでも散々にこき使っていました。毎日私たち中国人は牛馬のごとくこき使われていました。
そして、馬の鞍にとりつける皮などを作っていましたが、大変な重労働でフラフラになっていた時に、かなり重い荷物を担がされることになりました。もうとても立っていられる状態でなかったので、私は思わずトイレに隠れました。運べない人たちは日本軍から散々殴られているのがトイレの壁の隙間から見えました。私はどうしようもありませんでした。馬以下の暮らしをさせられて、また、飼い葉をあさることもありましたが、もうこんな生活をしていたら死を待つばかりだと思い、壁が低かったこともあり、また、年がまだ若かったこともあって、私はこの壁を乗り越えてそこから飛び出しました。途中、日本軍が何人も追いかけて来て、銃剣や刀で私を取り押さえ、そして多分殺そうとしたのでしょう、悪鬼のごとくの形相をして追ってきました。私は道々でもたくさんの死体を見ました。私の親族も何人も殺されました。私はそれに対してただ泣くばかりでした。たまたま私が道々で殺されなかったのは、私は良民証という許可証を持っていたことが命綱だったのです。この良民証というのは、腕にその名を記して、普段から誰にでも見えるように巻いていたもので、これさえあればまだ命を永らえることが出来たのです。
5.私が目撃した虐殺死体の処理
生き延びた私ですが、周りの中国人は多くの者が死んでいきました。中山路、中華路、太平路、特に太平路の奥まったところではかなり多くの中国人が虐殺されていきました。良民証を登記したからこそ私は腕章を貰えたのですが、その良民証を貰った時の事ですが、家の近くで機関銃掃射の音が聞こえました。ずいぶん長い時間、機関銃の音が絶えませんでした。何が起こっているのか当時は分かりませんでしたが、その時に実はかなり多くの中国人が殺されたのです。私と一緒に工場に連れて行かれた人も、20人中戻った人はたった4,5名にすぎませんでした。後の戻れなかった十数名の人たちの家族の悲しみは想像を絶するものがあります。小さな子供が親を慕って泣いたり、妻が戻らぬ夫を思って泣いたり、本当に涙、涙の毎日を過ごしていたのに、ましてや又この機関銃掃射の事件もあり、私たちは苦しみのどん底におりました。その機関銃掃射のあった日、私は音を聞いて、「何事か」ぐらいにしか思っていませんでしたが、翌日初めて知ったのですが、この時かなり多くの人間、二千人ぐらいでしょうか、その人たちが殺されていたのです。赤十字(注)という文字を前と後ろに書いたベストを着た人たちが二人一組でその遺体を葬っていました。とても多くの人間が殺されておりましたが、二人一組でその死体を埋めるのも、ものすごく大掛かりのものになりました。
翌日、現在の上海路の「陰陽営」と言う所ですが、そこに大きな大きな穴が掘られました。昨日殺された多くの中国人を葬るための穴でした。6、7メートル位の幅で4メートルぐらいの深さがある大きな穴に、赤十字会の人たちが二人一組で死体を中に埋めていました。ですが、余りにも多くの死体だったためにその大きな穴にさえ死体が埋まらず、死体が飛び出ている有様でした。冬でしたのですぐに死臭が発する事はありませんでしたが、これだけ多くの人々が亡くなり、その死臭は私たちを肉体だけでなく、精神的にも追い詰めて行きました。
このことからも分かるように、日本軍は中国人を、南京の人たちを、私たちの友達や家族を、皆を虐殺していったのです。私は泣きました。泣いて泣いて泣き暮らしました。すでにもう60年以上という歳月が経っています。私はもう85歳になりますが、この日のことを、この苦しかったことを一日たりとも忘れたことはありません。
悲しみの歴史は二度と繰り返さないでほしい、私は、心からそう思っています。私が60年前に体験したこと、工場に連れて行かれた20人中、4,5人しか戻らなかったことや、一軒の家に70〜80人いたものが10名そこそこしか戻れなかったこと、そして苦しい労働に中国人が使われたこと、まともに食事も出来ず毎日牛馬以下の扱い、犬畜生扱いをしたこと、これらはすべて歴史の中の真実なのです。私は嘘を申し上げている訳ではありません。私自身この目で見て、聞いて、実際に体験したことを皆様にお話ししているのです。私はこう願っております。歴史は確かに真実を隠すことなく存在し続けなければならない。そしてその真実を基に、私を初め、次世代、そして将来続く子々孫々の末永い友好と交流、そして中日両国が平和に暮らしていけることを願っています。私たちのような無辜の民が多く殺されました。皆様、このことは歴史の一つとして直視して頂きたいのです。私たちはこの歴史を忘れることはありませんが、これをばねにしてこれから子々孫々末永い友好と平和と交流を皆様と続けて行くことを願っております。有難う御座いました。
<出 典>
●「繰り返すな戦争と虐殺 南京大虐殺64ヵ年 2001東京集会」報告集、2001年12月15日、星陵会館
編集・発行:ノーモア南京の会、2002年12月10日
<参 考>
●この幸存者、王金福さんの証言の記事が“松岡 環著「南京戦 切りさかれた受難者の魂、証言者120人の証言」社会評論社、P-198”にも収録されている。