鈴木力男さんの証言
(『南京戦―閉ざされた記憶を尋ねて』松岡環編著より)1914年2月生まれ
南京戦時:第十六師団歩兵第三十三聯隊第一機関銃中隊(1999年松岡取材)
久居の三十三聯隊の(昭和)九年兵です。すぐ満州のチチハルに行きました。満期除隊してからは、叔父に仕込んでもらい魚屋をしました。町には魚屋がなくてね、繁盛しました。月給とりとは比べ物にならんくらい儲かりましたよ。
そうしてるうちに、支那事変です。二十三歳の時でした。
上海は覚えてますよ、機関銃中隊は戦闘が収まってから上陸しました。兵站〔後方にあって、食料や軍需品の供給や輸送にあたる場所〕の糧秣〔食料〕を取りに行ったのを覚えています。
句容の飛行場を三十三聯隊は一大隊で攻めたんですわ。重機関銃はね、銃手が四人、弾薬手が四人、銃馬が四人、弾薬馬が四人、五、六貫目ある弾薬の箱八箱積むんでな。それを山地になると馬が使えんで、人間が自力で担ぎました。そやから、紫金山はえらかったですわ。
紫金山へは、第一機関銃は登らず、二、三大隊が攻撃したんですわ。わしらは、紫金山第一峰の右手にある何百メートルかの山を攻撃しました。中国側は手榴弾と迫撃砲で反撃してきましたわ。戦いが終わって見ると、十六師団と同じような大きな大砲がまっさらで使ってないようなのが放棄してありましたわ。
●――下関の手前で中国人を撃ち殺し
下関でさらに数千の男女を撃ち殺した
南京が落ちてすぐですわ。下関に向かえということでね、下関の手前まで来た時は、もう鎮江やら紫金山やらから逃げてきた中国兵が右往左往していました。中隊長の「掃蕩にかかれ!」で数人で組になってな、歩兵も機関銃も砲兵も小銃やごんぼ剣〔銃剣〕持って大きな道を通って下関に向かうんですわ。攻め込んでいくと、大きな道路に飛び出してきた中国兵が群れになってまた逃げて行くんです。わしら、日本兵は撃たなしゃあない。逃げるのは兵隊だけやない、男の子もおれば女の人もおる。若い衆もおる。そんなものお構いなしにめくらめっぽうに連続発射で流すんやから、角度を決めて左右にスーと流すんやから。もう前方で人間を見たら、重機をバッと組み立てて全部殺すんや。
その日下関に着いたら、もう勝った勢いでな、向こうに敵ということで撃ちまくった。エンジンのないような、櫓でこぐような舟が揚子江をドンドン流れていくんや。いっぱい人が乗っててね、それを撃つんですわ。中には普通の服着てる良民もいる、それを全部ダダーと撃った。下関にいる歩兵のさまざまな部隊もここかしこで撃っている。
同時に揚子江の河岸にも大勢の押し合いへし合いの人がなだれ込んできてな、人はドンドン増えてきた。向こう岸へ逃げ切れなくて人間の固まりとなって岸壁に集まってきていますんや。もう何千という人の数や、そこに向けて今度は、誰彼なしに九二式重機関銃を撃ち込んだんです。機関銃中隊一個小隊で二銃、一個中隊で八銃の重機関銃です。押しまくりました〔押すと弾丸が出る〕。港にぎっしりと集まった大勢の人は、女も子どもも年寄りもいましたわ。四百〜五百メートル向こうにいる中国人たちに射撃の角度を考えて、範囲を決めて撃ちました。人の固まりが崩れていくんですわ。せめて白い布でも掲げてくれたらとな、かわいそうと思ってたら戦争するんもんやないと思う。我々はただちに小隊長から「撃て」との命令を受けたけど、(中国人なら誰でも殺すという)命令は、師団長が出したんですやろな。
次の日も、同じように下関で重機関銃を撃ち、大勢の人を殺しました。機関銃中隊は、歩兵といっしょに行動することは少なかったけど、掃蕩には参加しました。逃げ遅れた兵は白い布を立てていてね、ほとんどが兵の服装をしていました。みな集めて軍司令部へ連れて行くんです。中国軍の服装はまちまちで普通の服を着てました。
捕まえた捕虜を揚子江岸で処分するために、また、機関銃を撃ちました。
その次の日、松井司令官が来るというので、こんなに殺したらあかんという規則があるのか、たくさんの死体を今度は隠さないとあかんようになりましたんや。死体を埋めることになりました。焼くということもありました。
南京陥落の次の日でしたけど、南京城内の倉庫がいっぱいある所でした。兵隊が中国兵をいっぱい連れてきてね、倉庫に詰め込んでるんです。中国人を殺すのに「もう弾が足りない」言うてね、ぐるりに燃える物持ってきて積み上げて火をつけたんです。煙が充満してきてね。中国兵が屋根を突き破って必死になってる。それをまた、日本兵が撃ち殺すんですわ。そんなのを見ました。
今、新聞にいろんなこと載ってますがな、事実南京はえらい目に会ってます。そんなこと言うと、政治に関係するので、うかつに言えんが、それはかわいそうなことしました。
●――地獄とは地獄 赤ちゃんに小便をかけ
南京の手前で、母親が逃げるのにじゃまになったんか、親がどっかへ連れて行かれたんか、 捨て子の赤ちゃんが田んぼの中でおぎゃーおぎゃーと泣いていました。 日本兵が赤ちゃんの口の中へ小便をかけててね。ひどいことする。戦争に行って人を殺すのがいやでね。そんなひどいことするのを見ていても、「そんなことするなや」と言うのが精一杯でな。絶対止めることはできなかったですな。地獄とは地獄、本当に無体なことやった。兵隊やったからな、妙なこと言うと、笑われて馬鹿にされるから何も言えなかった。
自分と同じ年頃の中国人二人捕まえて、苦力〔人足・力仕事をする労働者〕として働かせたけど、一人がどうしても帰らせてくれ言うてね。治安がよくなってきたので良民証を持たせて帰しましたが、自分の隊を離れるとすぐ殺される。うまくいったらいいが、持っていてもやられる。無事に帰れたかどうか。かわいそうやった。助かった人は少ないですよ。治安ができてくると、憲兵とか入って強姦とか暴行とかも少なくなるんやけど。憲兵が入るのが早ければ、だいぶ犠牲が少なかったと思う。規則があるんやったら、命令を早く出していたら、そんな無体なことせずにすんだんや、子どもまで殺すことなかった。ほんとにそれまで、無茶苦茶なことしてた。各部隊がそれぞれえげつないことやってました。目の前で見ていて、戦争に負けたらこうなるのは仕方がないことだと当時は思っていました。本当に、かわいそうなことしました。