No.2006-1
被害の証言;「南京湯山区における侵略の被害」
蘇 国宝さん
南京市湯山区湖山村(1927年生れ、当時10歳 男性)
今回、平和を愛する日本の友人の皆さん、愛国華僑の皆さんにお招きいただいて、私は私の村で起こったことを聞いていただきたいと思います。そして、こうした惨劇の話を今後の未来のために役立てて頂きたいと思います。そして、こうした惨劇の話しを今後の未来のために役立てて頂きたいと思います。
私が日本にやって来たのは12月6日です。まさに69年前のその日に日本兵は私たちの村にやって参りました。最初は30人程の先遣隊がやって来ました。彼等は、当時南京城外で防衛戦を戦っていた中国兵がいる村々を避けるようにして、私たちの村に近づいて来ました。入ったにはモンサンソンという村です。その日本兵達はある村に入ると、村人の一人を捕まえて道案内させ、そして次の村に着くとその一人を殺して、新たな道案内を探して次の村に行く、そのようにして順々に私たちの村に近づいて来ました。最後の私たちの湖山村まで道案内したのはヨウダイセンという人でした。この日本兵たちは私たちの村に着くと、村の周りにある木々を伐採し始めました。そして塹壕を掘り、機関銃の台座を据え、トーチカを造り、村を包囲して封鎖しました。そして家々に入って食料や鶏を奪っていきました。
私たちの村に対する虐殺はその日の夜から始まりました。最初に殺されたのはゲンという名前の男です。この人は村の住人ではなく、バグンというところから私たちの村に避難して来たところだったのです。彼は軍服に似た服を着ていたために中国軍と間違われて撃ち殺され、遺体は私たちの家の庭の前に放置されました。
翌日には増援の日本軍部隊が大量に入って来ました。そして守備していた中国軍との間に激しい戦闘が始まりました。私たちは家の近くの地面に掘った穴の中にじっと身を潜め隠れていました。
3日目、つまり12月8日になりますと、民家と民家との隙間に隠れていたたくさんの農民たちがいたのですが、そういう人たちが日本兵に捕まって引きずり出されました。20人ほどの村民達でしたが、彼等は村のはずれの小学校の校庭(運動場)に連行されました。
その時も私たちは穴の中に隠れていたのですが、まる1日間何も食べていません。私には満3歳になる弟がいたのですが、その弟がどうしてもお腹が空いたとぐずり始めたわけです。そしてついに家に食べ物を取りに帰ることになりました。当然私も付いて行って、私たちの家に入ろうとしたとき、不運にも日本兵に見つかってしまいました。そして先ほど言った人たちが連行されて行った運動場に私たちも連れて行かれました。一人の日本兵が弟を抱き上げました。弟はこわがって泣きわめき、その手から逃れようともがきますが、日本兵は離そうとしません。ついに弟は日本兵の手に噛みつきました。日本兵は怒って、運動場のそばを流れていた川に弟を投げ込みました。そして弟は溺れ死んでしまいました。それを目の当たりにして、私は驚きただ泣くばかりでした。家と家の間に隠れていて捕まった人達の中に、私の母方のおじさんでオウリキエイという人がいました。その人が、弟が川に投げ込まれ、殺されるのを見て、非常に怒って、投げ込んだ日本兵に立ち向かい、殴ったのです。すると4人の日本兵がやって来て、おじさんを縛り付け、首を日本刀で切ったのです。首は落ちずに、皮一枚を残して、前にぶら下がっているという状態でした。
その後、日本兵たちは最初に捕まえた約20人の村人たちに暴行を加え始めました。そしてそのうちの6人の村人を銃剣で刺し殺しました。それを私はまさに目の前で見ていたわけです。村人たちが殺され、私は弟とおじさんを殺されて、あまりの恐怖で気を失ってしまいました。どれだけ気を失っていたのかは勿論わかりませんが、気がついたときには私の上には死体が覆いかぶさっておりました。そのとき日本兵たちは村の方へ立ち去って行き、そして村の家々に火を放ち始めました。私は日本兵が立ち去ったのを確かめて、その死体を押しのけて、這い出し、最初に隠れていた家族のいる穴のところまで逃げて行きました。そこで父と母に、弟が殺されたこと、おじさんが殺されたこと話し、村人がたくさん殺されたことを皆さんに伝えました。自分たちの親族が殺されたことを知った家族は、私たちの家族と一つになって泣き叫んでおりました。この12月8日には、もう一人、母の大祖父にあたる人が、自分の家の庭で殺されていました。この人は村から離れたコウショウという所に避難していたのですが、たまたま家に布団を取りに戻ったところを、本当に不幸にして日本兵に見つかって殺されたのです。私の親族は合せて10人が日本軍の虐殺で亡くなっております。他の親族もその後、13日、15日と次々に殺されていきました。13日に南京が陥落した後も、日本兵による虐殺は続いたのです。日本兵たちは何度にもわたって、私たちの村に掃討に来て、その度に花姑娘(若い女性)を物色し、強姦する、これが日常でした。私たちは止むに止まれず、村を離れ、外国人が経していた江南セメントという所の難民営に避難して行ったのです。
皆さんの中の何人かの方は、私たちの村に来られたと思います。私たちの村は深い緑に囲まれ、きれいな川が流れる美しい村でした。しかし、不幸なことに、日本軍が南京を攻略する道筋にあったことと、そしてそこがまさに中国軍の防衛の一線であったことによって、何度にもわたって日本軍の軍靴によって踏み荒らされてしまったのです。私たちの村は小さな村ですが、ここで68人の村人が殺されました。そして200軒以上の家が焼かれました。68人のうち15人は家族が皆殺しにされ、家系が途絶えてしまったのです。私は、村で起こった惨劇ことを中国の人たちにもちろん知ってもらいたいし、そして日本の平和を願う人たちにも知ってもらいたいと思います。さらに、日本にはこうした事件などなかったのだとうそぶく右翼がいるという話しを聞きましたが、そういう人たちにも、あなた方の先輩が私たちの村でどういうことを行ったかということを知ってもらいたいと思います。
たくさんの人たちが亡くなりました。家族皆殺しにされた15人の人たちは家系が途絶え、お墓も建てられていません。私たち犠牲者の遺族や他の村民たちは、亡くなった村人たちや、中国軍の兵士を弔うために2005年の8月に、私たちの手で追悼碑、記念碑を建てることができました。私たちはこの記念碑を次の若い世代の人たちのために残すことによって、村で起きた惨劇を決して忘れてはならない、風化させてはならないと願うのです。
この侵略戦争で、こうした惨劇は私たち民衆に多大な苦難を与えました。もちろん、同時にこの侵略戦争は日本の民衆にも多大な苦難を与えたことを私は知っております。私たちは、ともにこうした事実を教訓として、今後平和に友好的にともに暮らしていきたいと心から願っているのです。
私は今年80歳(満79歳)ですが、家は大家族で、子供、孫、ひ孫に囲まれて幸せに暮らしています。子供は6人います。孫は十数人、ひ孫は8人います。4世代にわたる大家族で幸せに暮らしています。そして時々私はふと思ってしまうのです。3才で殺された弟がもし生きていたら、私と同じように孫やひ孫に囲まれて幸せな人生を送っているかも知れないと。しかし、わずか3才の命が日本軍によって断たれ、その後の長い数十年の人生を奪ってしまった。こうしたことが二度と起こらないことを、私は心から願っています。
皆さんとともに友好を続けていきたいと思います。ありがとうございました。
以 上
<出 典>
●「南京大虐殺から69年 2006年東京・横浜証言集会 報告集、「私が見た日本軍の村民虐殺」、ノーモア南京の会。
2006年12月17日、亀戸文化会館にて開催の証言集会でのもの。
<補足事項>
●被害者の居所、湯山区は南京市街の東方、句容から麒麟門へ通じるルートの途中にある。したがって、ここを攻めた部隊は第16師団(京都)の第20連隊(福知山)あたりと思われる。