大分聯隊と南京
村木一郎(2008年9月13日)
今回は、大分聯隊(歩兵第47聯隊)の歴史を追いながら、南京大虐殺への関わりを見ていく。資料は平松鷹史の『郷土部隊奮戦史』による(用語「シナ」などはそのまま引用する。図1、図2を除く地図は同書から引用)。これは1961年〜62年にかけて、大分合同新聞紙上に連載したものを、1983年にまとめて再刊したものである。連載にあたって当該聯隊が出している『歩兵第47聯隊歴史』等を参考にするとともに、新聞連載中から沢山の関係者の資料提出を受けており、資料的な価値のあるものであると判断できる。また元47聯隊隊長・元陸軍少将長谷川正憲が序文を書いているのでその点でも信頼出来ると思う。(ちなみに歩兵第47聯隊史は大分県立図書館も市民図書館にも所蔵していなかった)
【大分72聯隊】
大分聯隊は1908年に新設され、第12師団下に歩兵第12旅団(歩兵第47聯隊:北方、歩兵第72聯隊:大分)、歩兵第23旅団(歩兵第14聯隊:小倉、歩兵第24聯隊:福岡)という構成であった。この72聯隊はいわゆる「宇垣軍縮」(1925年)によって廃隊し歩兵第47聯隊に編合される。
ところで、この72聯隊は、シベリアに出兵し、黒竜省ユフタにおいてうち続く部隊の全滅という歴史を持っている。1918年9月、72聯隊はウラジオストックに上陸、翌年2月、極寒のシベリアで寒さに震えながら、「ロシア過激派軍」に遭遇、香田斥候小隊50人が全滅、つづいて田中支隊160余全滅、さらに森山小隊86名が全滅という悲惨な事態を起こしている。平松はこの全滅の原因を次のように挙げている。
「(1)敵兵力の掌握が十分でなかったこと、従って数十倍の敵を腹背に受けて戦う羽目になった(2)雪のシベリアでソリも騎兵も持たなかった(3)シベリア出兵そのものが意図曖昧な政略出兵であり、国内でも批判が多く、また軍統率の不手際があった。」
これぞ、「補給、兵站の軽視、消耗品としての歩兵、無責任な作戦指揮」という、日清・日露に始まり、あとあとまで続く日本陸軍の問題点である。日本陸軍は、日露戦争の勝利の根拠を、「攻撃精神」と「必勝の信念」、「命を惜しまない軍人精神」に置くことによって、兵站や物量の問題を隠蔽し、「兵士よりも天皇から授けられた武器が大切」と考え、また「天皇のために死ぬこと」を最高の美徳とする精神主義を深めていく。そうしたところでは、「全滅するべくして全滅した」悲惨な事態を、「勇猛果敢な戦闘」「勇敢な部隊」として裏返して美化し、また「天皇の名の下に」大虐殺を繰り返しながら、日本はさらなる悲劇へと突き進んでいくことになるのである。
【北部から上海へ】
大分聯隊は、1925年5月、47聯隊に編合され、所属師団も6師団(熊本)に変わった。1935年以後の第6師団の師団長は戦後南京法廷で死刑判決を受け処刑されたかの谷寿夫(ひさお)である。
47聯隊はもともと小倉の歩兵第14聯隊を母隊とし、日露戦争以後の戦闘にことごとく参加し「勇猛聯隊」と言われてきたが、72聯隊を編合した最初の出動は、済南事変にともなう1927年山東出兵であった。
1931年満州事変が起きると、翌年出動命令が出される。熱河作戦、長城攻略戦、華北作戦と参加。10ヶ月の間に10人戦死、27人負傷、「勇猛な軍隊」として名を馳せる。
1937年盧溝橋事件が起きると、翌年47聯隊は北京郊外朱家務に駐屯、警備。
1937年9月永定河渡河戦、保定攻略戦。
趙州から石家荘に入り、10月23日まで警備。
一方、8月13日、日本軍は第二次上海事変を引き起こしたが、「上海の戦線はまさに死闘の様相を呈していた。」簡単に制圧できると考えていた上海での海軍陸戦隊は中国軍に圧倒されており、急遽編成された上海派遣軍も「川沙鎮、呉淞鎮方面とも一応上陸には成功したものの、敵の集中砲火によって上陸早々指揮官が戦死するという激戦を現出し」戦死者が続出し、苦戦を強いられていた。
「当時、日本軍は上海戦線がこうまで苦戦であろうとは想像もせず、敵の猛烈な攻撃にあわてて増援をするというありさまだったため、弾薬とくに砲弾の補充がうまくゆかず、第一線兵団は砲兵の十分な援護のないまま、敵の物量攻勢の前に肉弾をさらすという悲劇の戦闘を演じなければならなかった」
いわゆる白壁の家、ウースンクリークの激戦などで苦戦し、11月8日までの日本軍の戦死は9115人、負傷31257人に達し、「最初から上海戦に投入された3師団、11師団などは各部隊とも定員とほぼ同数の損害を受けるという悲惨な戦闘」状況であった。
【杭州湾上陸】
そこで、この膠着状況を突破するために、第10軍を編成、47聯隊は柳川中将指揮下に入り、上海地区に転戦することとなる。
第47聯隊は、10月24日石家荘を出発、28日、塘沽から乗船し、木浦で上陸演習をやったあと、杭州湾上陸へと向かう。
11月5日杭州湾に上陸。
第一次上陸部隊は「無血上陸」だったが、直ちに左右から猛烈な火線に包み込まれた。中国軍の砲火の中をひたすら直進する。
「歩兵部隊はそれから三日間ほどは砲や重機など主要火器はないまま、丸ハダカの直進を続けた。上陸後、47聯隊の兵士たちを一番困らせたのは正確な地図のないことであった。当時47聯隊が使用していたのは不十分な十万分の一の地図だ。中シナは北シナと地形がガラリと変わり、まるでアミの目のようにクリークが走り、しかも予想外に水が深く、攻める日本軍にとっては、これほどやっかいなものはなかった」「降雨止まず。道路泥濘、稲田の中を歩きて転倒を防ぎ人馬とも疲労困憊の極に達し」という状況であるが、中国軍の背後を突くため、13聯隊(熊本)、23聯隊(都城)、45聯隊(鹿児島)とともに、上海と蘇州を結ぶ中間にある要衝崑山に向かう。
11月7日、これを阻止しようとする中国軍と豪雨の中、金山で攻防、占領。さらに第3中隊は余山鎮で激戦、聯隊主力は青浦攻撃に向かった。この時すでに中国軍は総崩れ状態となり、南京を目指していた。これを第6師団は青浦・崑山を抑えて挟み撃ちにしようとしていた。
2006年私たちは、上海郊外の松江を訪問し、幾多の惨案の事実を知ったが、最初11月9日前後に松江付近を通った部隊は、この部隊であるから、新橋鎮の老人から聞いた11月19日以前の事件はこの部隊が関与するものではないかと思われる。(南京大虐殺以後の事件は別)
さて、47聯隊によって、この余山鎮と陣防橋鎮、さらに11月11日の青浦城での激戦で退却する中国軍への大殲滅戦といわれる大殺戮が行われる。11月11日青浦城占領、11月12日には蘇州河に至る。蘇州河での激戦。
一方、この時、北シナ方面軍第2軍の第16師団は、11月13日、上海西北の白茆口へ上陸、ただちに西南方へ急進撃し、19日には要衝常熟を占領した。
第10軍の方は、第6師団が崑山へ、第18師団、114師団が嘉興をねらって進撃していた。
「当時、大本営は上海周辺の敵駆逐をもって上海作戦の目的を達成したものとなし、蘇州−嘉興の線を以て追撃の限界としていたが、11月下旬に至り、第一線兵団の追撃の意欲はすさまじく、その余勢はすでにその限界を突破したため、24日に至り、さらに追撃限界線を無錫−湖州の線に延伸せざるを得なくなった。」
11月13日、安亭鎮に入り、ここで上海派遣軍と第10軍が合流する。
この後「北から南京に向かう松井上海派遣軍と、南方から南京目ざす柳川第10軍との間に進撃競争が起こり、両軍の将士は時間を争いながら南京に迫った。このため、南京総攻撃の開始は予想よりも1ヶ月も早く火蓋を切り、翌年1月に予定されていた南京占領が、年内に完了するという軍事的成功をもたらしたのであった」
これが「成功」ではなく、「泥沼への道」となるのであるが、ともあれ前線の動きを追認しながら日本軍は南京に進んでいくことになる。
【南京への道】
11月15日、崑山に進出し、一応所期の目的を達した47聯隊は、ただちに、今度は嘉興に向かっている柳川兵団主力に合流するために嘉興の手前の嘉善に向かい、来た道を引き返す。4日間、雨で泥濘膝を没するなか、疲労と食糧不足にあえぎながら連日22キロ〜28キロの行軍を続けた。
そのため、11月21日嘉善に到着したが、隊内にコレラが発生。そのためここで1週間の駐留を余儀なくされた。11月29日まで嘉善に滞在したあと、取り残された第6師団主力に追いつくため、再び猛烈な行軍に入る。
12月2日、太湖沿岸に到着。
ところで、ここで47聯隊長の長谷川は、報告に行った先の柳川兵団司令部の腐敗ぶりに驚いたと平松は記している。
「第一線では、一人の兵が戦死しても聯隊長は心細い思いにかられる時に、後方勤務の司令部で一個大隊にも相当する人たちがのんびり仕事をしている」「連中が執務している机の上にアラレや、当時戦場ではお目にもかかれないような洋菓子が並んでいる」「前線の兵士たちが何日かに一回配給になる米を一粒、一粒数えてかじっている時、後方では文字通り酒池肉林の乱痴気騒ぎをやっている不心得者が少なくなかった。前線が生命を的に苦闘している最中に、後方では私利、私慾にかられ暖衣飽食の明け暮れがあった。日本は敗れるべくして敗れた。その原因の一つがこんなところにもあった、といえぬだろうか」と。
天皇の軍隊の精神主義の実態と無責任体制のなんたるかを示してあまりある。この時点では銃後との間にもまだ大きなズレがあった。福岡第24聯隊に所属し、杭州湾上陸戦に参加した火野葦兵も、こうした落差を埋め、前線の兵士の苦労を銃後・日本国内に伝えようと筆をとって人気を博した。だがそれは前線の意識への国民動員に他ならなかった。
さて、ついに南京を巡る攻防となった。
「全世界の注目がこの一戦に集中されたにも当然であった。日本の従軍記者をはじめ各国の新聞、通信社、放送局の特派員は続々と南京周辺を目指した」
それ以降の、南京攻略とその後の南京大虐殺の状況は当然にも世界に知れ渡ったのだ。
ところで、47聯隊は首都攻略戦に参加するために必死の行軍を続けていた。
「12月8日。部隊はやっと南京の南方40キロぐらいの地点甫家?まで進出した。ところがすでに先遣各隊は一斉攻撃開始の準備に入っている。ヘタをすれば47聯隊は攻撃に間に合わぬような不面目を犯すことになる」
そこで、形をつけるために長谷川連隊長が軍旗をもって第5中隊と機関銃だけで参加することにした。
【南京攻略戦】
47聯隊は南方から、徐家凹−郡府山−中華門を右の境界線、金獅?−安徳門−田上高地を左の境界線とし、13聯隊(熊本)、23聯隊(鹿児島)とともに攻撃を開始した。
ひとつ東側の雨花門には第114師団(115聯隊(高崎))が攻撃を開始。
12月10日、投降勧告期限切れ(とされる)の正午をもって、47聯隊は、82高地(標高820メートル)に対して攻撃開始したが、コンクリートのトーチカが連なる82高地はびくともしない。
中国軍の「狙撃技術は非常に優れているうえに、有力な火力を集結しているため、日本軍は損害が続出、容易に攻撃は進展しない」「城外右手の雨花台方面に布陣した敵(中国軍)砲台の攻撃は激烈かつ正確で、まるで、掌を指すようにわが軍(日本軍)を吹き飛ばした」
そこで、日本軍は夜襲をかけ、「小銃と機関銃の至近射撃と銃剣突撃による夜襲につぐ夜襲でコンクリートのトーチカに肉迫、せいさんな肉弾戦を展開した」
11日朝までの凄惨な激闘で、崑山以後補充された第5中隊長吉田の戦死と70名の戦死傷者を出しながら、ようやく82高地を奪取し、次の目標の大士菴に向かう。
「47聯隊とクツワを並べて攻めつける23、13、45各聯隊も続々と死傷がふえていたが、その割に攻撃は進まない。シナ軍が『絶対不敗』を叫んだ首都防衛戦だけに、この戦場のシナ兵は文字通り強猛であり、とくに、その狙撃技術はあなどりがたいものがあった。アミの目のように張り巡らされた縦深陣地の中で、一拠点ごとに頑強に戦った。一つの拠点がつぶれれば、すぐ次の拠点から猛烈な射撃をあびてきた」
「大士菴部落にも堅固な陣地が築かれ、前進する47聯隊の右手前方から猛烈な攻撃をあびせてきた。しかもその背後、雨花台には敵(中国軍)の砲兵が布陣し、しきりにわが軍(日本軍)に砲弾の雨を降らせており、早急にこの方面の制圧が要求された。雨花台攻撃には鹿児島45聯隊が当たり、47は第3中隊を派して大士菴奪取にかかる」
結局、夜襲をかけて混戦乱戦のすえ大士菴を落とす。
一方雨花台は「岩と小松の攻めにくい地形。手榴弾と機銃弾が雨注されて前進できない。続出する死傷のなかで軽装甲車群が突如、姿をみせた」かくしてついに雨花台も落とされた。
12日、中華門を攻撃し、激戦のすえ、47聯隊第3中隊が「一番のり」で、12日午後零時20分日本軍は中華門を占領した。
この時、「光華門は脇坂部隊が10日午後5時、中山陵は大野部隊が11日午前9時、中山門は富士井、伊佐両部隊が11日11時半、紫金山東北側から南京城壁に迫った野田、大野、片桐、助川の各部隊も11日午前11時半相前後して和平門、太平門を奪取、13日夕刻までには城内掃討も終わり、南京城を完全にわが手中(日本軍)に収めた。」
しかし、「シナ側の戦意が南京陥落をもって完全に挫折すると考えたのは日本側の大きな誤算であった。」中国軍は武漢、重慶へと拠点を移して抵抗を続け、日本軍はさらなる泥沼の戦争に引きずり込まれていく。
【南京大虐殺】
そしてまた、「この城内掃討と一連の追撃戦の間に、例の有名な南京大虐殺事件が発生した。日本軍の光輝ある軍旗に一大汚点を止める事件であり、まことにいまわしい事件であった。この大虐殺の責任を問われ、戦後に谷寿夫(当時の第6師団長)が雨花台の露と消えたわけだ」と、平松の郷土部隊奮戦史は、この種の記録にしては珍しく、正直に南京大虐殺の事実を認めている。(一方、『熊本兵団戦史』では、当時の参戦者の声として「若干の惨行があったことは事実だが、中国側の発表のような大掛かりなものは当時全く見聞きしなかった」という意見を載せている)
「悪戦苦闘、戦野をかけめぐった忠勇なる将士にとって悪夢にも似たこの『南京大虐殺』はなぜ、発生したのだろうか。『犯さず、殺さず』の旗印のもとに兵を進めたはすの日本軍がどうしてかかる残忍な殺戮をあえてしたのか。」
「南京大虐殺は日本軍の手で南京城が攻め落とされた昭和12年12月12日の夜から南京入城の行われた17日にかけて発生した。数万人にのぼるシナ民衆が老幼男女の別なく、荒れ狂う日本軍の手によって惨殺されたとされる事件であるが、事件そのものについては、すでにいろいろな形で紹介されているので、ここでは事件前後の南京城内のもようや当時日本軍がどんな立場にあり、背後にどんな事情が隠されていたかを述べ、南京大虐殺の発生した原因にふれてみたいと思う。」として、以下の条件を述べる。
日本軍が南京城内に攻め入った時、「城内に意外に多数の民衆・非戦闘員がいた」のが悲劇を生んだ。「シナ軍も強かったが、それを上回るほど日本軍は勇猛であった、血と硝煙のにおい、耳を聾する砲声に、人間の神経の限界まですりへらされた日本軍は、鬼となって南京城内に突入した。悲劇はそこに起こった。」
「この日本軍の非軍紀的行動の原因として当時の方面軍司令官松井石根は@上海戦以来の悪戦苦闘A急進撃に伴う給与の低下B便衣隊と一般民衆の区別困難をあげているが、とくに@とBについては虐殺事件の有力な原因となりえたと思う」
「上海戦の苦戦に対する恐怖が兵隊たちを異常心理にかりたて報復的殺戮に向かわした」これについては「次のような話がある」と紹介して「第6師団が杭州湾に上陸、崑山に直進中、第6師団司令部に『女、こどもにかかわらずシナ人はみな殺せ。家は全部焼け』という無茶苦茶な命令が届いた。」当時の第6師団高級副官の平岡力中佐はこの命令は蹴飛ばしたが、「上海戦で苦戦中の軍司令部あたりが血迷って出した命令だろう」と「恐怖心の裏返しであった」と述べている。
また、「南京占領後、城内にはまだ多数の敗残兵がおり、便衣になって随所で日本軍をおびやかした。このため、日本軍は17日の朝香宮上海派遣軍司令官、松井中シナ方面軍司令官らを迎えての入城式を前にして徹底した掃蕩をやらなければならなかった。」「とくに17日を前にした15日夜、下関で約2万人が機関銃と剣付き鉄砲の前に処刑され『東洋鬼日本兵』の名は世界に喧伝された」「当時この大量殺人を目撃した人々の話や記録によると、それは文字通り『この世の地獄』であったという。」と記している。
今ひとつ、「事件処理の舞台裏」として、第六師団長谷寿夫が処刑された背景は、南京大虐殺責任追及の声が朝香宮に及びそうになったのでこれを避けるために第6師団がかぶったとしている。
もう一つ「捕虜の取り扱いについて」、
「この捕虜の取り扱いは大東亜戦争の終了まで常に問題になっていたところ。比島のバターン死の行軍などもこのいい例であった。とくに日本軍の場合、食糧よりもまず弾薬という戦闘第一主義の強行軍を続けているだけに捕虜はおろか日本軍ですらじゅうぶんに食えない状態であった。混乱した城内で組織を失ったシナ兵は、次々と日本軍に投降した。捕らえたものの前線の大隊や中隊で処置がつくものではない。全部聯隊本部に送るが、聯隊本部も処置に困って旅団司令部へ。旅団司令部でも収容する場所もなければ、食わせる食糧もない。『そんなにどんどん送ってきても、こっちが困る』と後方の司令部と前線部隊の間で捕虜の扱いをめぐってマサツが起こるという場面すらあった。北の方から南京攻撃に参加した第13師団の山田支隊では2万人の捕虜を得たが、給与困難のため集団殺害するという事件もあった」
『郷土部隊奮戦史』は、正規の戦闘行動による戦死者、便衣の敗残兵、義勇軍の「良民」などは、「虐殺」ではなく、「戦争による悲劇」だと弁明しているが、捕虜を大量虐殺したことを認めている。
いずれにしろ日本軍においては、直接的には、上に述べたように、日本軍自体が補給も出来ないような状況のなかでそもそも捕虜を抱えることができなかった。また捕虜になることを否定していたから、敵軍の捕虜も又何ら捕虜として尊重しなかったこと、さらにはそもそも国際法を適用しないという決定をしていたから、捕虜として扱う必要がなく戦闘員として虐殺したのである。『奮戦史』の註によれば、中国側の資料では、虐殺(上海戦をも含む)43万(うち第6師団23万、第16師団14万、その他6万)となっているとしている。ただ、こうしたことだけで大虐殺の原因を語ることはできない。南京大虐殺と同じような大虐殺はすでに43年前の日清戦争における旅順大虐殺として行われている。むしろ、根底には「脱亜入欧」「富国強兵」下に侵略軍として大陸に乗り出した日本軍にとって、虐殺自体が自己目的化されていたというしかない。(これについては別に論じる)
ところで谷寿夫は後に南京法廷における申弁書のなかで、「南京大虐殺」を全面的に否認しているが、逆にそのなかで、「多数の殺人強姦財産破壊」を問題とされ、「北支における女子肉体提供の慰安所設置」や「中華門内外の殺人強姦財産破壊」「正覚寺等各地における80余人の集団屠殺、門東各地の子供外数百人を銃殺する事件」「9百余名の殺人および40余名の強姦事件が部下により行われた」などを追及されている。第6師団といえば、在日朝鮮人元「慰安婦」の宋神道さんとも関わりのある部隊である。これについては、非常に注目に値することであるが、これらについては次回に譲ることにする。
第47聯隊は、その後12月20日まで南京城南地区において警備にあたり、その後南京を出て23日から蕪湖付近の警備につく。第6師団司令部は蕪湖、47聯隊本部と聯隊主力は?国(ねいこく)、第1大隊は湾沚鎮に駐屯し警備に入った。以後47聯隊の歴史は、(徐州戦には参加していない)そのまま、武漢攻略戦から延々と泥沼の中国戦線、「大東亜戦争」の南方、沖縄戦へと繋がっていくことになる。これもまたあまりにも無謀な戦争の歴史というほかない。
【まとめにかえて】
私たちは南京大虐殺を繰り替えさないために、歴史を直視し、学び、未来への礎にしようとして現地調査や学習をしてきた。そのなかで南京大虐殺が上海戦から引き続くものであることも見てきた。しかしまた、その上海戦自体も、明治維新以後の日本の連綿と続く侵略戦争の歴史の中にあり、中国侵略の歴史の一頁にすぎないものでもある。日本の歴史は1874年台湾出兵、1875年江華島事件、1894年日清戦争、1904年日露戦争、1914年第一次世界大戦、1918年から25年にかけてのシベリア出兵、1927年山東出兵、1931年満州事変、そして日中戦争、太平洋戦争と絶え間ない戦争の歴史であった。南京大虐殺として発生した問題は、そこだけ突出した問題ではなく、起こるべくして起きた一連の侵略と殺戮の歴史の一部分に過ぎないのだ。
今なお、大分の田舎に行くと、村の墓地や忠魂碑などには、日露戦争関連のものが少なくない。日露戦争と日本陸軍の歴史と記憶が今でも意識の底辺に続いていることを見ておかなければならないだろう。(日清・日露戦争についても次の課題にしたい。)侵略=他民族に対する殺戮・抑圧の歴史は、裏を返せば、自国民兵士と国民にとっても暗黒と命の軽視の歴史でもあった。日本軍、天皇の軍隊においてこそ、アジア民衆蔑視に貫かれた、神秘主義的な大日本民族主義のもとで、全く無責任でいきあたりばったりの拡張主義的戦争政策とそれゆえ前線の兵士一人の命など何ら顧みることもない、兵士の消耗、戦死の美化が行われてきたのである。天皇制護持の下で自国民の命さえ羽毛のように軽視する軍隊は、その矛盾を他民族に対して向け、野獣の暴行をくりかえしたのである。
(図1,図2は藤原彰著『南京の日本軍』から引用)
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