それで私の外面的な観察からいうと、1982年に抗日戦争記念館が北京の盧溝橋に出来、 そして1985年に南京大虐殺記念館が出来、 かつ抗日戦争史学会が1986年に発足したと聞いております。 これは全部80年代の中頃に集中している訳ですね。 その時期、日本でいうと1982年に教科書問題というのが起って、 「侵略」を「進出」に書き替えされるということがあったりして大さわぎになった訳です。 また、この頃、二、三の閣僚の問題発言がありました。 それが奇しくもこの時期に重なっていたわけですけれども、 中国でとくに80年代にそういった一連の動きが出てきて、 そして『抗日戦争研究』というような雑誌も編集されるようになったそのゆえんですね。 これは私どもは日本の思想状況の全体としての右傾化と対応しているように見られるのと、 もう一つは中国でも若い世代が戦争の記憶を喪失しつつあるという傾向があるんじゃないか、 そこで右のような問題意識が出て来た面がありはしないか、それともう一つは、 中国の場合は、あの大変な文化大革命が終熄して 「改革・開放」段階に入ってそういう研究が出来るようになったというふうに 外から見ていて観察されるのですけれども、その辺どんなものでしょうか。
3つの段階という場合、その第1段階は、 1949年の中華人民共和国の建国から1966年までだといえます。 その特徴は、抗日戦争における中国共産党のリーダー的地位が主に強調され、 国民党が引き受けた抗日戦争については、あまり研究されていませんでした。 ということは、全面的・客観的な性格の研究とはいえませんでした。
第2段階は1966年から1979年の13年です。 1966年は、中国で文化大革命が爆発した年で、この13年間は、 中国の若者にたいしての愛国主義教育ということが中心だったのです。 抗日戦争の映画、 たとえば「地道戦」(地下道のたたかい)・「地雷戦」(地雷を埋めてのたたかい)などを、 何回も見せて愛国主義を教育することが中心でした。
第3段階は、1979年から現在にいたる20年です。 ここで抗日戦争研究が、やっと正常な軌道にのるようになりました。 1982年に抗日戦争記念館が設立されました。 また抗日戦争史学会も発足した訳です。 そして『抗日戦争研究』という雑誌もつくりました。 これは、いま中国でもっとも代表的な学術雑誌です。
この第3段階で抗日戦争について全面的に研究するようになったのです。 とくに国民政府の軍隊が、いかに重要な役割を果たしたかも、 精確かつ客観的に研究するようになりました。
とくに広西師範大学出版社では、抗日戦争史にかんするシリーズが、 いままで40以上出版されました。 先にいった『抗日戦争研究』という雑誌は中国でもっともレベルの高いものです。 たとえば今回は、1999年第4期に津田先生の「自由主義史観と司馬史観の批判」 (増刊『人権と教育』27号)という藤岡信勝批判の論文が訳載されました。
新中国は成立以後の50年間、 日本政府・日本軍と日本の大衆を区別するよう配慮してきました。 中国政府・中国の民間組織は、 日本政府と日本の民間組織の間に友好関係をつくることを重視してきたのです。 『増刊・人権と教育』という雑誌を、いつもいただきましてたいへん感謝しております、
呉 直接関係はありません。 この雑誌は、中国抗日戦争史学会と、 中国社会科学院近代史研究所が協力しでつくっている学術的な雑誌なのです。 しかし、この二、三年は、日本社会の右傾化について注意するようになりました。
津田 そこで今度は私のほうから日本人の側として問題提起をさせていただくと、 中国の当局の政策は、日本軍国主義者と日本の大衆とを区別して、 中国の民衆も日本の民衆も、日本の軍国主義の犠牲者であったということですけれども、 それは中国としての友好促進の配慮であって、 ただ私のように戦後日本の思想史に批判的にコミットしてきたものにとっては、 あの戦争が天皇制帝国主義によってすすめられたことは事実としても、 しかし同時に総力戦体制として組まれて、そこで国民一人一人が侵略戦争に協力した、 させられた訳です。
そして私は盧溝橋事件(7・7事件)が起ったとき小学校2年生でした。 その年、1937年12月13日に日本侵略軍は南京を占領して、 例の南京アトロシティーズが惹き起された訳です。 これは、たんに出先の軍隊が南京を占領したというだけのことではなくて、 全国民が祝勝気分で旗行列とか提灯行列をやって、それが大変な盛り上がりを見せたのです。 私じしんも小学二年生だったけれども、旗行列に参加したのをはっきり覚えています。 そういう意味では、天皇制帝国主義者の戦争犯罪とは別に、 やはり国民的な意味での戦争責任というものを、 少なくとも道義的には背負っていると思うのです。
で、戦後生まれた世代にしても、 自分は戦争には関係ないといっている向きもありますけれども、 侵略戦争の思想的な決算をしないままに戦後を安閑として生きてきたということは、 その世代もやはり戦争責任を共有しなければならない。 だから、呉先生がいわれた、中国側の立場、 つまり日本帝国主義の政府と日本人大衆を分けて考えるというのは、 それなりの中国側の配慮だとは思いますけれども、 日本人としては一人一人この問題を見つめて行かなければならない、これは、 たんに歴史研究の問題ではなくて、 全人民的な思想的課題としてわれわれに突きつけられていると思うのです。
それで私どもは「障害者の教育権を実現する会」といいまして、
障害をもっている子どもの適切な学習を保障しようという市民運動ですけれども、
しかし、この権利の問題を問ううえでは、やはり戦争責任の問題とか、
それから平和憲法改悪に反対する問題とか、
そういった大状況につねにコミットしなけりゃならない、
そんな風に思って運動をすすめています。
とくに最近、藤岡その他の諸君が「自由主義史観研究会」、
それから「新しい歴史教科書をつくる会」、また「日本会議」というようなのが、
各都道府県レベルに支部をつくったりして大衆的な運動を繰り広げています。
これは、われわれ民主陣営の非力のゆえんでもあります。
これは、まあ私の個人的見解として申し上げておきます。
柴崎くんは何かある?
呉 いま研究者の間で認められている見解では抗日戦争の初期、 国民党の軍隊のほうが数のうえで圧倒的に多かったのです。 大部分といっていいでしょう。 中国共産党の役割は、軍隊の数の上では少なかったのです。
抗日の初期のころは日本軍とたたかった90%は国民党軍でした。 たとえば、上海戦、南京戦、徐州戦、武漢戦は国民党軍によってたたかわれました。 共産党軍は第八路軍、新四軍という形で、 全体として国民政府軍のなかに組み入れられて、日本軍とたたかったわけです。 抗日戦争の中後期になると、中国共産党の軍隊は、 敵の広い後方戦場で大きな力を発揮するようになりました。
津田 私は軍事理論については素人なんですけれども、割と関心があります。 そこで日本は、まず華北で事を起し、そこからだんだん南下しようとしていた。 ところが蒋介石は、上海で事を起して−−淞滬戦争といいますか−−、日本軍は、 東から西へと泥沼の中を行くような形で奥地へ奥地へと引きずりこまれていった。 で、蒋介石は四川省の重慶を根拠地にして頑張った。 日本陸軍としては、何とかいう山脈があったりして、とても四川省まで行けませんからね。 そこで、いわば日本軍は蒋介石戦略にひっかかったというか、 はまってしまったといえるのではないか。
で、中国の戦争というのは、歴史的にみても、 だいたい北からの侵略が南へと拡がっていったと見られます。 宋のあたりもそうですね。 それを、その東から西(つまり奥地)へというね、戦略にきりかえたのは、 まあ南京の悲劇を余儀なくされたという面はあるとしても、 戦略的にみてたいへんな英断だったんじゃないかと思うんですがね。
呉 はいはい、戦略といえば当時の日本は、華北から上海戦以後、 揚子江沿いに東から西へと戦線が移って来たのです。 先生がおっしゃった中国にたいする侵略は、歴史的に、たとえば漢代の匈奴とか、 元代のモンゴルとか、清代の女真族、みんな北から南へと侵略してきました。 でも日本が侵略したのは主に束から西へ、ですが、 日本側は、そのことで失敗したということですか。
津田 と思います。というのは引きずり込まれたから。 そして、抵抗の根拠地として四川省という大後方が築かれたし。
呉 当時の日本側の考えですと、南京はそのとき中国の首都でした、 そして南京を占領すれば国民政府は、かならず投降すると思っていました。
津田 南京を占領すればね。
呉 けれども、投降しなかった。 そのうえ、日本側は抗日戦争が長びくとは思っていなかったのです。
呉 私は中国は当時の連合国といっしょにたたかって日本軍国主義を投降させたと思います。
日本軍国主義とのたたかいでは、勿論、中国の役割は大きかったと思います。 100万の日本軍をひきつけました。 時間的に問題にすれば中国の抗日戦争がいちばん長かったのです。 1931年、関東軍をひきつけたし、1937年から1945年にかけての8年間で、 日本軍の死傷者は121万人です。 当時のアメリカ大統領ロースヴェルトは蒋介石を励ましていいました。 中国の戦場での役割は、太平洋戦争のなかで、いちばん大きかったと。 そして、戦後、中国はソ連、アメリカ、イギリス、 フランスといっしょに国連安保理常任理事国になりました。 これは中国の抗戦努力と切っても切れない関係にあります。
津田 そういう点で、日本の一般の人たちが抱いていた、あるいは、 抱いているアメリカだけに敗けたんだという考え方を 訂正して行かないといけないでしょうね。
呉 それは賛成ですね、
柴崎 さっきのぼくの質問と関連するんですけれど、 自分が勉強した−−勉強したといってもたいして勉強していないんですけれど−−結局、 文化大革命以前には、抗日戦争の英雄は毛沢東、朱徳と並べられていたんですが、 文革期になると朱徳が消えて毛沢東一辺倒になるわけですよね。 で、文革が終熄して一定の反省が行なわれて、現在では、 もっと客観的に抗日戦争が研究されるようになったといわれたんですが、 そういう以前に言われていた英雄たちの評価には変化がありますか。
呉 たしかに柴崎先生のおっしゃる通りと思います。 抗日戦争については、いまは客観的、多角的に評価するようになりました。 たとえば国民党の抗日将軍のなかで、張自忠、トウ(ニンベンに冬)麟閣、 趙登禹は大きな役割を果たしたので、いまは正当に評価するようになってきました。 中国共産党のなかの英雄についても、それぞれどんな役割を担ってきたか、 もっと客観的に見ないといけないと思います。
柴崎 そうすると蒋介石の評価も、文革期より客観的になっているとういことですか。
呉 はい。当時、中国には一つの政府があったと明確化してきました。 さっき柴崎さんがおっしゃったことは、やはり文化大革命中の異状な現象です。 歴史の事実は毛沢東と朱徳の合流です。 けれども文革の中では、朱徳がなくなって林彪と毛沢東が一緒の絵がはやっていました。
柴崎 ああ、林彪が突然出てきたんですね。英雄としてね。
私の母は、いわゆる庶民の一人なんですけれども、 小さい時から戦争の話をされてきたんだけれども、日本が相手にした中国の親玉というのは、 まず蒋介石だと、日本人は蒋介石をやっつけるというふうに言われてきたと言ってました。 私は、自分が成長して歴史を勉強する中でも毛沢束のものを読んだりすると、 何か中国の民衆を率いたのは、もっぱら毛沢東だというふうにね、思いこんで・・・。
津田 とくに『持久戦論』ね。
柴崎 うん。その母と私の認識のちがいが不思議だったんですね。 その認識のちがいの根拠みたいなのが、いまの呉廣義さんの話でよくわかりました。
呉 アリガト(日本語)。
津田 ぼくが実感したのはね、1999年4月、南京大虐殺記念館に行ったとき、 そういうことも注意して見学したんだけれども、 蒋介石と毛沢束と並べて写真が展示してあったんです。
柴崎 あーあ、そうですか。
津田 とくに郭岐という将軍がいましたね。 この人は、たしか国共内戦の終結にさいして台湾に渡って 台湾大学の軍事教練か何かの先生になった人なんだけれども、 こういう人の写真も展示してあったのには、あらためて時代の変化を感じました。 そういう意味で中国の現在の認識が、 全人民の戦争であったという風に転換してきたんだなということを実感しましたね。
これは非常におかしないい分で、私は、日中戦争にかんする限り、あの戦争が、 全く一方的な全面的な侵略戦争だった訳ですからね、 そういう法理解釈論のなかに歴史の全体像を埋没させるような言動は受け入れ難いですがね。 とくに、きようは「戦争責任と戦後補償を考える国際市民フォーラム」最終日 (1999・12・12)で、或るパネリストが述べていたことに、 たいへん感銘をうけたんです。 どういうことかというと、国際法だけを問題にする傾向があるけれども、それじゃあ、 その戦争そのもの、侵略戦争そのものの犯罪性がどこかに飛んでしまいはしないかと、 そういうことを言ったんですね。
少なくとも原爆が開発される以前、20世紀には、 帝国主義国と植民地・従属国の対立をふくんだ「諸国家の体系」がつくりだされて、 帝国主義国の戦争は不法・不正義の侵略戦争であり、 植民地・従属国の民衆がすすめる解放戦争は正義の戦争であるという 一般的基準が確立されて来たわけですけれども、 それをはっきり堅持して第二次大戦の評価なんかもなされなければならないと思うのです。 このことは国際法を無視していいということではぜんぜんなくて、 別次元の問題として評価できると考えています。
つまり、たとえば、ある一部の人問は、−−とくに女性とか子どもが武器を隠しもっていて、 数人の日本兵とすれ違うさいはニコニコ挨拶して油断させて、すれ違いざま、 背後から撃って殺しだというような場合、 これは卑怯だといういい方をするんだけれども・・・。
柴崎 小林よしのり。
津田 うん、小林の『戦争論』にもそんな情景がありましたね。 私は、これは卑怯でも何でもないんで、相対的に軍事力をもっていない一般人が、 自分たちの国土に踏み込んで来た侵略軍の兵士を、こういうやり方で殺害することじたい、 これも全人民的抗日戦争の一部であり、正義の戦闘行為であるという評価です。
呉 基本的に、いまの津田先生の御意見に賛成です。 侵略された民族は、すべて自分の国土と民族をまもる責任があります。 どんな手段をつかっても敵を倒すことは正当だと思います。
津田 それが帝国主義時代の解放戦争ですものね。
呉 ハイ、ハイ(日本語)。
柴崎 ええ、その論理というのは、ナチス・ドイツに侵略されたフランス市民が、 自分たちの手でパリを解放するじゃないですか、そういう形で抵抗したと思いますよ。 ソ連でも、1941年6月以降、 国土深くに侵略してきたドイツ軍にたいしてパルチザン部隊が活躍したでしょ。 それは、やはり侵略者を押し返す訳で、 その段階で殺人−−とくにそのやり方がどうのこうのなんてありえないですから、 そりゃその通りだと思います。
津田 だいたい、こんなところでしょうか。 きょうは呉廣義先生、ならびに通訳にあたってくれた燕子(エンズ)に”謝謝”を申します。
呉 今回、皆さんと対話する機会をつくっていただいて感謝致します。
最後に、私、もう一つ付け加えたいことがあります。
戦争は男の人のことです。
女性と子どもは戦争からかけはなれ、もっぱら犠牲になるだけと思います。
津田 賛成です。2000年秋には、 NGOによる「女性国際戦犯法廷」が東京で開かれますしね。
呉 最後に皆さん、ぜひ北京にいらしってください。招待致します。
津田 ぜひ伺います。それでは、これで。後は酒を飲みましょう。
(1999・12・12、於実現する会事務所)
〔編集部後註〕呉廣義氏(中国社会科学院世界経済政治研究所)は、 1999年12月10、11、12日に開かれた 「戦争責任と戦後補償を考える国際市民フォーラム」を機に、 その他の用事もあって来日された。 その機会をとらえて対談をお願いしたところ快諾してくれたものである。 なお対談中に、 増刊『人権と教育』編集部の柴崎律も適宜発言して問題を多面化してくれている。 通訳にあたってくれた若い女性詩人燕子(エンズ)には別にしてお礼申し上げる。(津田道夫)
「人権と教育」編集部のご厚意により再録させて頂きました。