「人権と教育」月刊32号(2000.5.20)

歴史改ざん運動と『国民の歴史』(西尾幹二)、その周辺

津田道夫


1.南京大虐殺−−真実派と否定派の激突
2.『国民の歴史』ぱらまき運動
3.『国民の歴史』は何を語らんとするか
  (1)ケアレスミスかデマゴギーか
  (2)「万世一系の民族文化」史観
  (3)歴史の必然としての「目韓併合」?
  (4)「『南京』はホロコーストではない」?
4.歴史改ざん運動は力になりうるか

2000年を迎え、あらためて思った。昨1999年は戦後政治史のなかでも、 エポックを画する年ではなかったか。 あるいは20世紀日本の政治史のなかで、といってもいい。

昨99年8月22日に終わった145国会では、 戦後日本の政治の骨組みをかえるような法律がつぎつぎ通った。 まず周辺事態法と通称される「日米防衛協力に関する新ガイドライン」関連法である。 それに盗聴法といわれる通信傍受法、改正住民基本台帳法がつづいた。 これで日本は、アメリカが「周辺事態」をひき起こせば、自動的に戦争にまきこまれ、 非常事態における地方自治体や民間団体への協力要請 −−それはほとんど強制というかたちで現れるであろう−−、 住民管理のための法的保障をえたことになる。 それに憲法調査会法、国旗・国歌法である。 2000年3月から4月にかけては、 卒業式・入学式での国旗・国歌の扱いをめぐっての 反動文部省とそれに追随する大衆レベルの右翼的潮流と、 その強制・実質的強制に反対する民主主義的な人たちの問で、攻防が予想される。

「周辺事態」の「周辺」ということで小渕総理は、 それは地理的な概念ではないなどといいつくろおうとしたが、 政治家も官僚も一般の日本人大衆も−−右翼も左翼も、いわゆる無関心派も−−、 そこで台湾海峡問題が主なターゲットになっているのを疑うものはいない。 したがって、ひとたび「周辺事態」が惹起されるなら、 どのような規模のものになるかは別として、米中戦争ということにもいたりかねない。 それは、アメリカの産軍複合体と、 その目下(めした)の同盟者である日本の支配階級のあいだでの 帝国主義的協同のべ−スの進展を考えれば、 不可避的に日中戦争という事態をも招来しかねない。 現時の戦争において、前線と銃後の区別が喪失してきていることを前提にすれば、 そこには思い半ばに過ぎざるものがある。

勿論、新たな日中戦争へと、事態が不可避的に、 かつ俄かに進展しうるといっているのではない。 しかし、いまや、 ただ一極の超大国にのし上がったアメリカのアジア・ 太平洋地域への軍事的プレゼンスを前提とするなら、右の事態は予兆として、 たとえ1パーセントの可能性であっても、ありうるとしなければならない。 そして、今147国会では、早速、憲法調査会が設置されたが、 それによる9条改憲のための反動自・自・公側の予定は、 事態がこのまま放置されるなら、意外と速く進展する可能性がある。 日本は平和国家から戦争のできる「普通の国家」になりうるし、 いまや半分かたなってしまったとも見られるのだ。

新たな日中戦争などという表現にゾッとされる向きもあるであろう。 しかし、米日の帝国主義的協同と、台湾海峡の緊張要因を考えれば、論理的にいって、 その可能性を完全に排除することはできないのである。 そして何よりショッキングだったのは、右に列挙した法律が、 さしたる討論も反対もないまま一挙にセミ翼賛議会を通過してしまったことである。 いまや日本人民の前に、平和主義か、戦争のできる「普通の国家」かの、 憲法第九条か、その名実ともにする改悪かのオルタナティブが提起された。

ある人は、1999年に比肩しうる転機は、 1931年(「満州事変」の始まった年)を措いてないと言ったという。 つまり、日本は「暴力からの脱出か、暴力への跳躍かという2つの選択しかない、 歴史的分岐点に立っている」と(日高六郎「尾崎行雄『墓標の代わりに』再読・下」 『世界』2000年3月号)。

そして、 政治の側の右のようなエポック・メーキングな事態の進行と不即不離のかたちで、 大衆市民社会レベルにおける新しい国家主義の大衆思想運動が、 ここ三、四年の動き(これについては、 津田「145国会と草の根ファシズム運動」増刊『人権と教育』31号参照) を引き継ぎながらも、 このところいっそうの猖獗(しょうけつ)をきわめ始めたのである。 それは、南京大虐殺=否定論などを中軸に、かつての侵略戦争を、 あたかも「アジア解放」のための栄光の戦争であったかに描きあげ、 300万の日本人戦死者を、これに数倍するアジアの死者から切り離して 「英霊」として美化しようという靖国イデオロギーの大衆化運動として 立ち現れているのだ。 一言でいって、「満州事変」に始まる15年戦争の性格について 大衆的価値を転倒させようという国民運動で、それはある。 その運動の広告塔ともいうべきものが小林よしのりの『戦争論』であったが、 いまその綱領的文献として西尾幹二の『国民の歴史』が登場させられた。

これを迎え撃つべき民主主義的陣営のたたかいには、非常な困難も予想されるが、 しかし、いま一歩も引く訳にはいかないのだ。 そして、そのためにこの動き、思想をつぶさに見、 それに批判的な批評を対置しておかなければならない。

1.南京大虐殺−−真実派と否定派の激突

私は、いま本稿を2000年2月末の時点で執筆し始めた。 昨年12月半ばからこの2月のはじめにかけて、たとえば、 南京大虐殺をめぐる真実派と否定派の大衆レベルにおける激突が、 むきだしのかたちであらわれた。 私のキャッチしえたデータにもとづき、 その実相を批判的に紹介することから始めたい。

昨(1999)年12月10、11、12の3日間、 海外の代表(中、韓、米、独の33名)をもふくむ 「戦争責任と戦後補償を考える国際市民フォーラム」が東京で開催された。 日本がすすめたあの侵略戦争における戦争責任については、 国際的にも国連人権小委員会やILOでも公認され、 日本政府や企業への早期の謝罪と補償を促す勧告が相つぎ、 日本の裁判所でも国家の責任における補償や謝罪をうながす判決が出始め、 真相究明のための法律案が衆議院に提出されたにも拘わらず、 日本政府と日本人大衆の反応にはきわめて冷淡なものがあった。 そこで各国の市民団体と協力して、 市民による国際フォーラムを開催しようとの機運が盛り上がって、 右の運びとなった訳である。

私もそのメンバーである「ノーモア南京の会」(代表・田中宏)も、 国際市民フォーラム実行委員会に入り、南京大虐殺に関する分科会を担当したりした。 そして末席ながら、この分科会と、いくつかの全体会には参加する機会があった。 こういう会合には、つきものの街頭右翼が街宣車をつらね、 毒々しい横断幕やのぼりといっしょに叫声を発していたが、 3日目昼ごろ、午後の全体会に出ようとして、 前夜拙宅に泊まっていった中国社会科学院の呉廣義研究員といっしょに、 会場である社会文化会館に入ろうとすると、そうした連中の一人と目があってしまい、 件の人物が私に「お前は日本人か、中国人か」という罵声をあびせてきた。 当方も大声で「日本人だ」と怒鳴り返すと 「日本人なら恥を知れ」とたたみかけてきたので、 「戦争責任を引き受けようとしないほうこそ日本人の恥だ」と返すなどの一件もあったが、 呉廣義のほうは、このやりとり、言葉がわからなかったようで、 パチリパチリとカメラのシャッターを押していた。

ただ問題はそんなところにありはしない。 問題は、その3日後の12月15日、この国際市民フォーラムにぶつけるかたちで、 「緊急抗議集会・『南京』はホロコーストではない−−『100兆円対日賠償請求』 の根拠を粉砕する」が自由主義史観研究会(代表・藤岡信勝) の主催で開かれるという素早い対応のタイミングにある(東京港区赤坂区民センター)。 この集会の講師・演題は次のとおり、
 藤岡信勝「対日賠償講求裁判の虚妄」
 東中野修道「南京事件研究の現段階」
 高池勝彦「南京事件をめぐる裁判闘争」
 向井千恵子「百人切りの冤罪を晴らす」

藤岡について説明の必要はない。 束中野は亜細亜大学の教師で、 最近藤岡との共著で『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』(99年9月)を上梓した。 因みに、この本の結論みたいな形で、 「日本人に『自虐史観』を植え付けるための最大の『教材』となってきた 『南京大虐殺』のウソが通用しなくなる日も、そう遠くはない」と、 いわゆる「包括的否定」の立場をおしだして見せている。 高池勝彦は南京大虐殺”否定派の弁護士で、 民事に名をかりた政治裁判である「東史郎=南京事件裁判」で、 橋本光治側の弁護を引き受け、 98年12月22日の東京高等裁判決で東側の敗訴をうけ、 中国入記者をも前にして「重昂大虐殺握造裁判勝利」なる横断幕をかかげて 記者会見に臨むという蛮勇の持ち主である。 なお、高池法律事務所には、 「南京大虐殺の虚構をただす会」の看板もかかげられているという。(註)

(註)東史郎=南京事件裁判については、 芹沢明男「政治裁判としての東史郎=南京・戦争裁判」(増刊『人権と教育』30号)、 暘暘(ヤンヤン)「中国人留学生がみた東史郎=南京事件裁判」(同31号)参照

右四講師のうち注目されるのは向井千恵子である。 1937年、例の南京攻略戦にさいして繰りひろげられたという「百人斬り競争」 (東京日日新聞、37年11月30日、12月6日、同13日)の咎(とが)により、 日本敗戦の後、 南京戦犯軍事法廷の判決により元少尉・野田毅とともに銃殺刑に処された 同じく元少尉・向井敏明の実は次女なのである。 向井千恵子じしん、「8歳の頃、近所の人が私を指して『向井っていう戦犯の子よ』と 話しているのを」(『正論』2000年3月号)聞いたと語っているように、 スティグマを刻印されて生きてきたという点では 侵略戦争の一種の犠牲者であったといっていい。 しかし向井千恵子が、父の「無実」を晴らすのだといって発言をはじめ、 それが南京大虐殺=否定論、右派歴史修正主義者に最大限利用される段になって、 いまや南京大虐殺デッチ上げ説をおらびまくることで 中国人民の新たな怒りを買うことになっている 「第二の南京レイプ」に加担し始めたかぎりにおいては、 このキャンペーンの加害者として登場させられたといわれても仕方あるまい。 悪いことに、この種のお涙頂戴発言は、事の正否にかかわらず、大衆的劣情に訴え、 庶民レベルの情緒的共感を組織するうえで、大いに役だつのだ。

さて次の局面は、本年1月、ピースおおさかで、 南京大虐殺=否定論者の集会を開かせるかどうかをめぐる 否定派と真実派の激突ということになる。 由来、大阪国際平和センター(ピースおおさか)は、 大阪府と大阪市が設立したものであるが、 たとえば「加害の事実を踏まえて平和の尊さを伝える」ことをも、 その基本理念の一つとしていた。 そのさい趣旨に賛同する人びとの寄付をもあおいでいるはずだ。 その点、各市町村にある公民館とは、その設立趣旨からしてちがっている。 このピースおおさかで、「戦争資料の偏向展示を正す会」主催の 「20世紀・最大のウソ『南京大虐殺』の徹底検証」なる集会の 開催(1月23日)が予定され、ピースおおさかは、 その会場として施設使用の許可をだす事態が現出した。 しかも、メインの講師は右にみた東中野修道である。

じつは、ピースおおさかの講堂では、昨1999年3月21日に、 A級戦犯束條英機を美化した映画『プライド』が、 同じく「戦争資料の偏向展示を正す会」の主催で上映され、 この上映会では束條の孫、束條由布子が挨拶にたっていた。 何か向井元少尉の娘が引っ張りだされた事態に似ている。 この時も勿論抗議の声はあがった。 本年1月23日に予定された南京大虐殺=否定集会は、 それにつづく二度目のピースおおさかの理念に対する公然たる挑戦とあって、 抗議と施設使用許可取り消しを求める声が、日本の民主団体や、 関西在住の在日中国人留学生から、さらには中国当局からもあがっていた。 私も個人名で、「このような集会に使用を許可したことは、 歴史の真実を損ねるだけでなく、この戦争犯罪とはっきりと向き合い、 そのことを通して日中友好の前進に寄与しようとするものの民族的誇りをも 著しく傷つけるものです」という文言を含む 抗議と施設使用許可の取り消しを求める文書を、大阪府、 大阪市および大阪国際平和センター理事長あてに送った。 しかるに、ピースおおさかは「言論の自由」を名目に、 その施設使用の許可を取り消すことはなく、否定集会は予定通り強行されたのである。

この件について、大阪国際平和センター平和研究運営委員でドイツ文学者の林功三は、 こう語っている。 「市長は、いつから日本が『思想・表現の自由』のある国になったとお考えですか? 戦前・戦中、私たちは権威に一体化し、画一的な政治体制をよしとしました。・・・ 抵抗どころか、軍国主義思想の妄想を熱狂的に信じて アジアの諸国を侵略するのを支持したのでした。 このような歴史に対する反省を抜きにして 『思想・表現の自由』を口にすることはできないはずです」 「南京大虐殺を否定する講演会をピースおおさかで開くことは、 『思想・表現の自由』どころか、まさにその否定です。 しかも日本の排外主義による最大の犠牲国(中国のこと)の領事を相手に、 日本は自由な国であるというのは、私の目には傲慢としか映りません」 (朝日、2000年2月7日、カッコ内は引用者)

さて、1月23日の当日である。 中国人留学生70名をふくむ200名余が、”静かなる抗議行動”と称して、 折りしも霧雨のなか、当のピースおおさかをとりまき抗議の意思表示をした。 手に手にプラカードや横断幕をもって。 知り合いの大阪在住の中国人留学生が写真数葉を送ってくれたのを見ると、 「南京大虐殺は歴史の真実だ」「侵略の事実を明確にせよ!」 「南京市民に謝罪せよ!」、 そして「南京大虐殺鉄証山の如く否定できず・関西地域中国留学生一同」 (最後のものは横断幕)などの標語が認められる。 同日、南京その他の都市でも、この集会、 というより会場使用を許可した当局にたいする抗議行動がくりひろげられた。 南京大虐殺=否定集会と、それに対する抗議行動を、日本のメディアは小さく、 中国のメディアは大きくとりあげた。

もう一つだけ、私の身近に起こった事態を紹介しておく。 私の知人に埼玉県某市在住の倉橋綾子という人がいる。 父君の大沢雄吉が「おれが死んだら、これを墓石に彫りつけてくれ」といって 一片の紙片を手渡して逝かれたのだが、そこには、こう認められた。 「・・・その問十年、在中国陸軍下級幹部(元憲兵准尉)として天津、北京、山西省、 臨汾、運城、旧満州、東寧等の憲兵隊に勤務。侵略戦争に参加。 中国人民に対し為したる行為は申し訳なく、只管(ひたすら)お詫び申し上げます」。 倉橋綾子は、父君の元戦友に会ったり、親族を説得したり、結局、 右を墓石に彫り刻むことになるのだが、 その過程で侵略戦争の実態にも目覚めたのだった。

その倉橋は、市民グループ「手をつなぐ戦後世代の会」を主催しているが、 去る2月12日(土)、南京虐殺の実態調査をしている小野賢二(当人は、 おれは労働者だといっている)を招いて講演・学習会を開いた。 公開の催しだったので、倉橋の家には、一人は実名で、 一人は匿名で電話があったという。 実名を名乗った人は電話口で盛んに東史郎を中傷していた。 当日、参加者は40名程度であったが、 そのなかに南京大虐殺はウソだと称する人たちも7名ばかりいた。 小野の話が終わって質疑の時間になると、 自由主義史観研究会などにも顔を出しているという、 近くの団地に住む老人(例の電話の主)が、 戦争を知らないくせになにがわかるかなどと発言、 別の中年の男性は、南京陥落当時、南京には20万しかいなかったのに、 30万殺せるはずがないとか、南京大虐殺の写真はウソばかりだとか発言していたが、 閉会後、倉橋のところに寄ってきて、 小林よしのりの『戦争論』の売れ行きが伸びていると、 あたかも多くの人がそれを支持しているのを臭わせる発言もしていたという。 また別の男性は、自由主義史観などの会合とは、 雰囲気が違うなどとも発言していた(つまり、 盛り上がりに欠けるということなのであろう)。

陥落当時、南京には20万しかいなかったのに30万殺せるはずはないとか、 写真はウソばかりだとかの発言など、完全に右派歴史改ざん派の主張と一致していて、 自由主義史観研究会の考えが、 一般の庶民の間にも浸透してきているのをこれは如実に物語っている。 つまり、ここに集まった7名は昨1999年12月、 社会文化会館をとり囲んだ組織的な右翼の動きとは異なり、 三三五五この催しを知って参加してきた人たちであるらしい。 私は何がいいたいのか。

以上、昨年12月中旬から本年2月中旬までの2か月ほどの、 いくらかの大衆思想の動きを紹介してきたのであるが、これは氷山の一角であり、 今日の日本の大衆思想状況の一端を象徴するものであろう。 南京大虐殺についての否定派と真実派の対立、侵略戦争に対する否定派と真実派の対立は、 一連の日本版「歴史家論争」(注)の枠をこえて、 この大衆市民社会の一般の人びとの間にまで下降してきて、 そこに大衆的思想対立が顕在化させられてきているということである。 一部の左派歴史家が、歴史研究の分野では、南京大虐殺については決着がついているなどと、 おのがじし発言しているが、そんな脂下(やにさが)りは許されぬ状況の進行を、 私は右にみる。 歴史学の「専門家」とて、歴史状況に状況づけられるのを免れることはできないからだ。

(註)
ドイツでは1986年、歴史家論争が起こった。 ナチズムの時代の苦悩多き記憶が掘り起こされ、 ”もうそろそろいいじゃないか”という議論が出てきて、 それがきっかけとなって歴史家論争が惹起された。 それに因んで、日本での否定派・対・真実派の論争を日本版「歴史家論争」と言ったのである。

かくて右の状況が急進展する時期にほとんど重なる形で、 「新しい歴史教科書をつくる会」会長、西尾幹二の『国民の歴史』(1999・10・30、 初版第一刷発行)が上梓され、 最寄りの書店の平台に堆(うずたか)く積まれるのといっしょに、 この本のばらまき運動が大々的に展開されたのである。

2.『国民の歴史』ぱらまき運動

私は、先に書いた「145国会と草の根ファシズム運動」(増刊『人権と教育』31号) において、ここ2、3年の右派歴史改ざん派−−とくに「自由主義史観研究会」 「新しい歴史教科書をつくる会」「日本会議」−−などの動きについてふれておいた。 俵義文によれば、 この歴史改ざん勢力が全国各地で開催しているシンポジウム・講演会のたぐいは、 彼の集計だけでも1998年170回以上、99年250回以上に及んでいるという。 そして、前述のごとく99年10月末日、『国民の歴史』が刊行され、 11月以降、発刊記念のシンポジウムや講演会が、 これらの催しの合問を縫うように各地で開かれている。 俵義文の 「俵のホームページ」 でみてみると、 99年11月、12月のふた月で、それは東京(11・19)、山形市(11・21)、 鹿児島市(11・27)、旭川市(11・27)、与野市(11・28)、 国立市(12・11)、秋田市(12・11)、船橋市(12・12)、 静岡市(12・12)に及び、主催は各地の「つくる会」支部、あるいは、 それに産経新聞社・扶桑社が後援という形をとり、講師としては、西尾幹二、 小林よしのり、井沢元彦、坂本多加雄、藤岡信勝、高森明勅(「つくる会」事務局長)、 高橋史朗(現「つくる会」副会長)といったところが雁首を並べているのである。

それといっしょに、各都道府県に「つくる会」のダミー組織として、 「○○(地域名)・子供の教育を考える父母の会」ないし 「○○・子供の未来を考える父母の会」の名称で、 各地の教育関係者(とくに校長、場合によっては社会科教師)、地方議員などに、 『国民の歴史』が一方的に送りづけられているという。 『国民の歴史』ばらまき運動といっていい。 では、なぜ「つくる会」の名前を使わずにダミー組織が、 このばらまき運動の名目上の主体になっているかといえば、 それには、つぎのような理由があるようだ。 「教科書選択のための宣伝については、 文部省だけでなく公正取引委員会も関与して公正宣伝・ 公正取引のためのさまざまな規制がある。 ・・・業界団体である教科書協会の加盟社はこれに拘束される。 『つくる会』の教科書は産経新聞社発行・扶桑社発売である。 産経新聞社の子会社である扶桑社は99年春に教科書協会に加盟している。 したがって、産経新聞社・扶桑社はもちろん、 編集発行者である『つくる会』もこの宣伝規制に拘束される。 『国民の歴史』のバラまきや 『産経新聞』紙上や地方議会を舞台にした他社教科書への誹諺・中傷も これに抵触するものである。 そのために、『つくる会』は直接自分の名前を使わないで、 多くのダミー組織をつくっているものと思われる」(俵義文)。

しかも、それら各地のダミー組織が、『国民の歴史』ばらまきにさいして、 同書にはさみこんだ挨拶状には、ほとんど同文のものがあり、 「(『国民の歴史』を)一読して、今まで知らなかった日本の素晴らしさを発見し、 本来の日本に目覚めるような思いがいたしました」 「このような視点で子供たちが日本の歴史を学ぶことができたなら、 どんなにか日本の素晴らしさや本来の日本に目覚めるだろうかと思いました」 などと認められるということである。(注)

(註)
これまでの論述には俵義文の「俵のホームページ」、 俵義文「歴史を歪曲する『国民の歴史』運動」(『前衛』2000年3月号)、 同「ばらまかれた『国民の歴史』」(『世界』2000年2月号)を利用させていただいた。

私が住む埼玉県ではどうか。 平成11年(つまり1999年)11月の日付けのある 「彩の国・子供の教育を考える会」の挨拶状には、こうある (「彩の国」とは埼玉県の雅称〔?〕である)。

《(前略)
突然ですが、 最近発行されました『国民の歴史』を謹呈させていただくことをお許しください。
21世紀を目前にして、子供たちの現状をみますと、 「学級崩壊」「青少年犯罪の多発化」など心が痛み、 日本の未来に対して不安を感じます。
そのような時に、西尾幹二著『国民の歴史』を一読して、 今まで知らなかった日本の歴史の尊さ、誇らしさを感じ、 目から鱗が落ちる思いがいたしました。 日本の未来に一条の光を感じます。
甚だ借越ではございますが、教育、政治、経済などの各分野でご活躍のあなた様に、 ご高評を仰ぎたく、お送りさせていただきます。
ご一読いただければ幸いに存じます。
ご芳名は「埼玉年鑑」などを参照させていただきました。
(後略)》

ついでに言っておけば、 11月28日予定の「『国民の歴史』出版記念さいたま教育シンポジウム」 (講師、西尾幹二・ペマ・ギャルボ・大原康男・高森明勅、 主催・新しい歴史教科書をつくる会埼玉県支部、後援・産経新聞社埼玉総局)のチラシも、 右に同封されていた。 このチラシには、「今、日本史が生き返る!今年最高最後の講演会」 「著者のサイン会があります!」などのキャプションが躍っていた。

右の挨拶状には、「彩の国・子供の教育を考える会」の世話役2名の名前が明記され、 住所、電話番号も書かれていたので、私は世話役の一人に電話で、 『国民の歴史』送付・寄贈の趣旨などについて質問してみた。 件の世話役は、つぎのようなことを答えてくれた。 (1)『国民の歴史』を多部数寄贈するのは、金額的にも大変だと思うが、 いったいその金はどこから出ているのか、どこかの援助があるのか、 という質問に対しては、自分たちのポケット・マネーを出しあったのだということであった。 また、 (2)「『国民の歴史』出版記念さいたま教育シンポジウム」のチラシが同封してあったが、 この催しの主催団体である「つくる会埼玉県支部」と、 「彩の国・子供の教育を考える会」とは、どういう関係にあるのか、 という質問にたいしては、全く別組織だけれども、 たまたま「出版記念シンポジウム」が近々予定されていたので、 同封したまでだという答えが返ってきた、

右2点についての批判的なコメントは、差し控える。 読者の皆さん一人一人が、その真偽のほどについてご判断願いたい。

では、当の『国民の歴史』は、何を語り、何を語らず、何を主張しようとしているのか、 それについてつぎに、ざっとでもふれておかねばならない。

3.『国民の歴史』は何を語らんとするか

著者の「あとがき」によれば、774頁におよぶ『国民の歴史』は、 「『新しい歴史教科書をつくる会』の委嘱で、私単独執筆で出され」た。 「つくる会」の運動とは、「じかには関係ない」が、しかし、 新しい歴史・公民の教科書をつくるうえで「『捨て石』を投じているのだ、 という覚悟をもって」書いたので、この点では右運動とその覚悟を同じくしていると、 著者はいう。

ただ、本書は「ある程度まで通史仕立て」になっているものの、 とくに「古代と現代に関心が多く向けられ」た「テーマ別論集」である。 それは西尾によれば、今日重んじられている「古代と現代に関する歴史観」に西尾が 「いちばん強い疑問を抱いてきた結果」の反映以外でない。 そこから読者は「テーマ別論集」になってはいても、 一貫した西尾のイデオロギーとしての「国民の歴史」観を読みとることができる。 以下、いくつかの側面から、『国民の歴史』の問題点を批判的に剔出して行きたい。

(1)ケアレスミスかデマゴギーか

まず、はっきりとしたケアレスミスの指摘からはじめる。 『噂の真相』2000年2月号の 「『国民の歴史』出版で見えた『つくる会』の末期症状」という記事はいっている。 「例えば同書の93ぺージ、日本は4世紀には朝鮮半島に進出し、 積極的な行動を展開したなどと書いているのだが、その根拠は何と『任那日本府』。 任那日本府の存在が眉唾であることくらい、 学者どころか受験生の間ですら常識であるというのに、だ。 また、 235ページには『外国の使節はまず平城京の羅生門をくぐり』という記述があるのだが、 羅生門かあ、中学生の時に読んだよ、ってそれは芥川龍之介の小説で、 平城京にあるのは羅城門である。 他にも『化石人骨』を『人骨化石』と間違えたり、 日本語がアルタイ語系に属している事を知らなかったり、 考えられないケアレスミスが相次ぐ」。 −−だが、似たようなミスは、これにとどまらない。 西尾と同様、「歴史の素人」−−もっとも「歴史」の真の「専門家」とは、 どういう人なのか私には、よくわからないのだが−− である私が通読したかぎりで目にふれた3つ、4つのことを、 アトランダムに右に書き重ねておく。

(a)日本は「戦争には敗れても地上軍に土足で踏みにじられた経験をしていない」 (122頁)。 あの凄惨を極めた沖縄戦など、西尾の眼中にはないのだ。 (b)また、唐末、円仁の『入唐求法巡礼行記』での仏教迫害の記述に及んだ後、 こんなふうにいっている。 「異教をこれほどに否定し、弾劾するふうは日本にはない」(289頁)と。 西尾は、江戸期のキリシタン迫害や、 明治以降の無政府主義者・コミュニストの迫害の問題を避けているのだ。 (c)「日本の戦争の孤独さ」の章になると、驚くなかれ、こんな託宣が述べられる。 「大東亜戦争」中、 「日本が東南アジアの占領地を帝国の一部であると主張したことなど一度もない、云々」 (601頁)。 冗談ではない。 41年12月11日、つまり米英蘭との開戦の12日後、 米領ウェーキ島を占領した日本は、その戦略的重要性からこの島の領有を宣言、 これを「大鳥島」と命名した。 明けて42年2月15日、シンガポール(当時英領)を攻略した日本は、その翌々17日、 同じく領有を一方的に宣言、これを「昭南市」と改名して軍政を敷いている。 さらに、43年5月29日の大本営政府連絡会議の決定として、マライ、スマトラ、 ジャワ、ボルネオ、セレベスについて、 これを「帝国領土ト決定シ、重要資源ノ供給地トシテ、云々」とある。 何が「東南アジアの占領地を帝国の一部であると主張したことなど一度もない」か、だ。 (d)さらに、 602頁には「日本が近代までに神道を外国侵略のダイナミックな尖兵につかった例は、 一つも見かけられない、云々」というに至っては、また何をかいわんやである。 ソウルの南山(なむさん)には、植民地時代、 天照大神と明治天皇を合祀した朝鮮神宮があり、 釜山の竜頭山(よんどさん)公園にも同様のものがあり、旧「満州国」にも、 南方地域にも似たような神道施設がつくられ、住民馴化に一役買わされていたのは、 誰も知るところである。

このようなところは、もっとあるかもしれない。 「歴史の素人」である私が、800頁弱の大冊をサッと一読しただけで、 こんなふうなのだ。 西尾の姿勢は、あるものを見ようとしないということで、 ここに隠された意図の存在を見ざるをえない。 (a)については、日本=単一民族国家説の焼き直しによる沖縄、 アイヌないがしろ意識の現れだし、 (b)については、 日本は縄文の昔から「森林と石清水(いわしみず)の文化」を継承した、 たおやかな「ぬるま湯の風土」「温和なる国民性」を強調したいがための詐術であり、 (c)については、 「大東亜共栄圏」思想や「大東亜会議」(43年11月)の合理化の帰結で、 41年12月8日以降の米英に対する戦争を、 「道義の戦争」と描きださんがための作意以外でない。 (d)についていえば、朝鮮半島の植民地化が歴史の必然であり、 朝鮮民衆はそれにより利益をえた、とするアナクロニズムの結果と認められる。

ここまでくると、 ケアレスミスの範囲をこえて西尾の意図されたデマゴギーとしかいいようがない。 ここに西尾の「国民の歴史」=完全捏造史観が顔をのぞかせているといえる。

(2)「万世一系の民族文化」史観

『国民の歴史』の日本史像は異様というほかない。 それは日本単一民族国家説(中曽根康弘)の再版ともいうべきもので、 (a)1万年に及ぶ縄文時代の 「森林と石清水の恵み」による文化的アイデンティティーを基礎に、 そこから固有の文明が形成されたとする 「万世一系の民族文化」史観ともいうべきもので際だち、 (b)旧来の教科書などにあった古代・中世・近代(場合によっては近世が入る) という時代区分を否定して、日本史を全体として、縄文時代にはじまり、 天皇中心の国家体制が崩れる16世紀後半までを「古代」とし、 織豊期から高度成長期までを「近代」とする奇妙な時代=2区分法が押したされている。 いくらか詳しく批判的な特徴づけをしてみよう。

西尾によれば、日本文化は、広く東洋文化の一分枝といわれてきたが、それは正しくなく、 東洋文化どころかユーラシア文化と対立して、独白の文化史をきずいてきたことになる。 それが縄文にはじまる、云々であるが、それでも、西尾とて、 大陸の政治・文化の日本列島への浸透、渡来人の問題を無視する訳にはいかない。 しかし、それは日本人による抵抗と反発をともないながら、受け入れうるものと、 受け入れられないものとの選択が主体的になされて日本化され、 とくに唐末以後は朝貢関係もなくなったというのである。 とはいえ、思想・文化・経済などにおいて 時代が下るにつれ交流が濃密になってきたことを無視する 『国民の歴史』の論述には無理がある。 この無理は、「漢意(からごころ)」を拒否して日本民族 (このなかに沖縄人やアイヌ人が入るのかどうかは伏せておいて) の普遍文化への憧憬を”思想化”したところに現出させられたと見られる。 彼が「日本列島の支配領域が『天下』であるという国家意識」(11頁)の形成、 「中華秩序からの離脱」「束アジア世界における政治的な自立」(13頁) をことさらに強調するゆえんであろう。

そして、こうした文明を基礎にして、 絶対神つまり「天」の下にある大陸の王権とは異なる、 政治的権力と分離した宗教的権威としての王権が、 早期に成立したといい(西尾の表現によれば権=権分離)、 この律令制のなかに「象徴天皇制」の淵源を見ようとするなど 牽強付会としかいいようがない。 記紀神話は、この民族の原体験の鏡として理解するべきロマンであり、 戦後歴史学のなかで重視された『魏志倭人伝』などは日本を見下した論述で際立っていて、 その資料的価値などないと難詰するのである。 「『自虐史観』の悲劇は、古代史においてこそ頂点に達している」(116頁)と。

いずれにしても、この「万世一系」の自民族中心主義では、日本人、 日本民族といわれても、それが極めて漠然とした表象のなかに融け込んでしまって、 沖縄人やアイヌ人は、はじめから論述から排除されてしまっているのである。 同様の排外主義思考は、 西尾が「近代」の初めにもってきた豊臣秀吉による国内統一を 近代主権国家の成立とみるのと併せて、彼の朝鮮侵略の意図を、 「日本人の近代意識の最初にして最大の自己表現であった」(376頁) とするところなどにも現れている。 しかし、これは明帝国の衰退による前近代的な束アジア秩序の変動と、 それに対応した秀吉の冒険主義的策略とみるべきで、 近代の問題に直結するようなものではない。

西尾的な自民族中心主義は、明治維新以後の韓国併合や中国侵略をどう見るか、あるいは、 その論述をどう欠落させているかに、もっともよく現れているのであるが、 それをつぎに簡単に見て行く。

(3)歴史の必然としての「目韓併合」?

西尾による近現代史を読みすすめて行くと、たとえば、こんな奇妙な論述にぶちあたる。

《日本はなぜ中国と戦争をしてしまったのか。 これはじつに不幸な戦争であったということはさんざん言われてきた。 まさにそうである。 日本は中国や朝鮮と手をとり合って欧米と対決するのが自然であり、 多くの不幸や誤解を回避しうる道であったことはあらためていうまでもない。》 (566頁)

ところが、朝鮮は目覚めず、中国は清朝末期の官僚主義と混乱で、 日本がこれと提携しうるような状態になかった。 西尾=歴史改ざん史観からは、日本が朝鮮を植民地化したのも、 中国侵略戦争を進めたのも、結局、朝鮮や中国の責任だということになってしまう。

まず朝鮮植民地化は、どういう経緯による「必然」であったか。 日本が近代化を目指しはじめたころ、アジアの情勢はどうだったか。 そこには英・口・仏・蘭・米・独などの列強の武力脅威があり、 野盗が原野を走り回っていたに等しかった。 中国はたよりにならないのに中華秩序に固執し、 朝鮮はその属国として東夷思想(夷とは日本)にとらえられていた。 しかるに朝鮮半島は、 日本にとって清やロシヤからの脅威のいわば「吹き抜け通路」であった。 そこで日本としては、朝鮮に独立と、近代化の必要を悟らせる必要があった。 ところが、清朝も朝鮮も無力だったくせに、東夷思想、中華思想でこりかたまり、 「侮日感情」には甚だしいものがあった。

こういうとき「日本は半島から清国の勢力を一掃し、 朝鮮を独立国にするための戦争を決意した」(528頁)。 それが日清戦争である。 日露戦争にしても同様の発想から発動された。 西尾は、いろいろ語っているが、結局、1910年の韓国併合は、 ここまでくると当時としてはむしろそうならなかったら不思議といわれそうな、 世界からは当然と見られた措置であり、 まさに「国際的リアリズム」の観点から評価されなければならないという。 だが、「世界からは当然と見られた措置」といわれる「世界」が、 帝国主義列強であるのはいうまでもない。 日本が「朝鮮を独立国にするため」にたたかったというが、 明治初年以降の征韓論の存在も、1890(明治23)年11月、 第1回帝国議会における首相、山県有朋の、 国家の独立維持のためには主権線(日本国土)だけでなく、 利益線(隣接地域つまり朝鮮)をまもらなければならない、という決意表明も、 西尾は落としてしまっている、 (この朝鮮=利益線論は、昭和になってから松岡洋右による満蒙=生命線論として、 その再版が唱えられる)。 ここにあるのは侵略主義的な国家エゴイズム以外でない。

私見では、日清戦争は、朝鮮に対する権益をめぐる日本と清国との戦争であったが、 同時にそれは、朝鮮民衆の反日義兵闘争−−それは半島各地でたたかわれた−− にたいする弾圧でもあった。 日露戦争(1904〜5)をはさんで、 日本帝国主義による朝鮮半島への利権の拡大から韓国併合への過程をみるとき、 この後者の側面は決して過小評価されてはならない。

西尾は、「朝鮮民衆は日本統治の時代になって、 日本警察による(それまでの支配層だった)両班(やんばん)取り締まりに大いに感謝した」 (517頁、カッコ内は引用者)とか、 「いま韓国が採用している文字、ハングルは、十五世紀につくられた人工語だが、 それまで漢字漢文を正書とする両班(貴族階級)から軽蔑され、 相手にされない文字であったがために、実用化に至っていなかった。 日本総督府時代が初めてハングルを普及させ、小学校教育に導入したのであることを、 今の韓国の人はどれくらい知っているのであろう」(708頁)などと、 いい気な調子になって書いているが、 日本における凶暴な軍事的・警察的植民地支配の実態にも、その後の日本語強制にも、 創氏改名という日本風の姓名の強制にも、従軍「慰安婦」問題にも、全くふれていない。 ふれられないような歴史像を前提とした論述に、 『国民の歴史』全体がなっているということなのである。

(4)「『南京』はホロコーストではない」?

どこかで聞いた表題であろう。 そうなのだ。 第1節でふれた99年12月15日の自由主義史観研究会主催の 国際市民フォーラムヘの抗議集会が、 まさに「『南京』はホロコーストではない」をテーマにしたものであった。 西尾のこの本も、まさにこの命題を前面におしだしている。 だが、それを問題にする前に、西尾の第二次大戦観、 15年戦争観(これは西尾の語彙にはない)について僅かに見ておくことにしよう。 それは極めて独特の戦争史観で際だっているのだ。 まず、西尾は、第二次大戦と「大東亜戦争」を分けて見せる。 第二次大戦というのは、いわばキリスト教世界であるヨーロッパの内戦みたいなもので、 それは後者と関係はないと。 そして、「大東亜戦争」についていえば、アメリカが先に日本を仮想敵国にし、 双方の緊張が昂まるなかで開戦に至ったというのである。 (西尾は「アメリカが先に日本を仮想敵国にした」というテーマを2章、 50ページにわたって書いている)。 西尾の戦争史論述で完全に欠落させられているのは、1931年にはじまり、 37年に全面化した中国に対する侵略戦争ということである (1931年以前にも問題はあるが、本論では紙数の関係で省略させていただく)。 中国侵略戦争を欠落させた現代史叙述など、凡そ考えられないのだが、それが無いのだ。 そして、中国問題は、日米間の懸案として「対中国問題」として出てくるだけなのである。 歴史改ざんも、ここに窮まれりというほかない。

私は、日露戦争以後、日本が帝国主義列強の仲間入りをし、同時に、 イギリスにかわって帝国主義的進出をはじめたアメリカが、 日本=脅威論にもとづく一連のキャンペーン、政策をとってきたのを認めないのではない。 たとえば、1920年代の日本人移民排斥問題、 1900年前後から太平洋上のアメリカの戦略的フロンティアが西漸してきたこと、 そして何より黄禍論にもとづく日本人差別キャンペーンなど、そして、 中国をはじめとする地域での帝国主義的利権主張など (こういうことを西尾は声を大にして強調する)がそれであるが、 これに対して日本側が警戒感を露(あらわ)にしていったのも事実である。

しかし、日本は、すでに深く中国侵略にコミットしていた。 この犯罪的性格に頬かぶりして、アメリカは、日本を孤立させ、 蒋介石と日本の問の対立を画策、中国に軍事物資を送ってこれを支えたから、 「日本は実際に日米の開戦が始まる前に アメリカの武器を相手にたたかわなければならなかった」(581頁)というのだ。 ここでは、日本の中国侵略戦争も、中国の抗日戦争の独白の役割も視野の外におかれている。 実際は、中国侵略の泥沼にはまり込んだ日本が、 戦略資源を求めて南方に進出していったことが、米英との緊張を高めていったのであるが、 ここのところが西尾の認識からすっぽり抜け落ちているのである。 あの戦争で最大の被害を蒙った中国を軽視すること甚だしいものがある。

かくて西尾の立場からすれば、第二次世界大戦が、 いくつかの局面局面の戦争をふくみながらも、 世界的規模でのファシズム・対・民主主義の戦争であったなど出て来ようもない。 (勿論、連合国側、アメリカやソ連にも帝国主義的要素・行動があったのを認めるに、 私は吝かではない)。

そこでさて南京大虐殺問題である。 西尾は「ホロコーストと戦争犯罪」という一章を、 わざわざ設けてこの問題を考察している。 彼によれば、ヒトラーによる大量殺薮は、戦争とは関係のない「文明の破壊」である。 そして、 ナチスによる「犯罪の本質」「ホロコーストとジェノサイド」に多くのページをとり、 そのうえで「通例の戦争犯罪」に及ぶのである。 そして、 『TBSブリタニカ百科事典』から戦争犯罪の内容如何の説明を長々と引用してくる。 それから、「戦争を行って、 通例の『戦争犯罪』をしないですむ国はない」と断言する。 これは、その通りであろう。 しかし、南京大虐殺−−西尾は、この言葉が嫌いらしく避けている−−について、 こんなふうな託宣が述べられるのだ、

《昭和12年(1937年)、 まだ日米戦争の始まる4年も前の南京陥落時に何が起こったにせよ、 右に示した、 通例の戦争犯罪の枠内の出来事を決して越えないことはあまりにも明らかである。》 (737頁、カッコ内と下線は引用者)

西尾の論理はこうだ。 (a)ホロコーストは戦争とは関係ない、 (b)「通例の戦争犯罪」なら、どこの国も犯している、 (c)南京も、それを越えるものではない、 (d)だから、南京大虐殺は虚構にほかならない、という訳である。 あの集団虐殺、掠奪、強姦、強姦=虐殺の実態に何としても目をつぶりたいのは、 西尾も藤岡も東中野も同じである。 西尾は、どうやらよく本を読む人であるらしい。 そこで私の著書『南京大虐殺と日本人の精神構造』(社会評論社) でも一読することをおすすめしておく。

こうみてくると、西尾については思想表現者としての良心を疑いたくなる。 これは、歴史改ざんの極致というべく、デマゴギーの体系以外にないのだ。

たしかに『国民の歴史』を読まずに、私の批判的概括だけを読まれた読者は、 西尾のいうことなど問題にもならぬと思われるかもしれない。 そのとおり問題にもならないのだ。 だからといって、われわれが放って置いていいものだろうか。 私は、そうは思わない。 西尾は以上のような骨組みを、さまざまな素材、 主題にまぶして一つの歴史物語を構築しているのだ。 したがって、日本人に誇りをとり戻すのだ、などという仕掛けを承認してしまうと、 この物語の世界に吸い寄せられてしまいかねない妖力がある。 私どもが「万世一系の皇国史観」や「八紘一宇」イデオロギーにからめられていたのは、 そう大昔のことではない。 それに西尾が、アメリカや自民党にずけずけ物を言うポーズをとっているのも 俗受けする要素にはなるであろう。 この歴史改ざん派の運動も、 大衆的ショック療法として案外力を発揮することにもなりかねない。 彼らの「歴史学習運動」に対置された大衆思想運動が 緊急のこととしてすすめられなければならない。

4.歴史改ざん運動は力になりうるか

『国民の歴史』ばらまき運動をふくむ、ごく最近の反「自虐史観」キャンペーン、 歴史改ざんキャンペーンは、では、どのような効果をあげているか。 あるいは大した効果はあげえないでいるか、統計数字的な手法によるのでなく、 私の身辺見聞にひっかかって来たケースを元に推量してみよう。

友人の若い教師2名にまず御登場願う。 実現する会の宮永潔は、与野市(埼玉県)K小学校の教師だが、校長が、 送りつけられてきた『国民の歴史』を職員室の本棚に無雑作に差し込んでおいたのをみて、 「それもらっていいですか」というと、「どうぞ」との答え、 もらってきたが読んではいない。 同じく山田英造は同市S小学校の教師。この1月になって校長に、 これこれのものが送られて来ていないか問うたところ、 まだ梱包も開けずに他の文書類といっしょに積み重ねられていた。 その間、凡そふた月。 いっしょに包みを開くと、『国民の歴史』が出てきたという始末。 「これ、日中戦争についてぜんぜん書かれていないようですよ」 「そりゃ、ひどいね」といった塩梅であったという。 一方的ばらまき運動については、この種のケースも多いと見られる。 東京練馬区の石神井公園団地(約400戸〉では、 全戸の郵便受けに投げ込まれていたというが(俵義文情報)、 いったい10人に1人も読んでいるであろうか。 なかには、”こんなものが投げ込まれていたけど、どうすればいいか”と、 管理人に申し出て、管理人は管理人で、 ”いらないならゴミで出したらいい”と答えるケースもあったと聞く。

こんなケースがある一方で、だからといって、 この歴史改ざん運動が力をえていないといい切ることはできない。 その波は私などの身近にも浸透しはじめているのだ。 やはり実現する会の石川愛子は、この2000年正月、 福島県会津地方の実家に帰省していたところ、割と本なども読む二歳年下の従弟が、 『国民の歴史』も読んでいて、 「おれたちはああいうことは学校で教わらなかったなあ」と言ったという。 石川は読んでいなかったので適宜応対したらしいが、 「愛子ちゃんなら、そういうと思った」と返ってきた。 いずれにせよ石川は、 この歴史改ざん運動の波が彼女のごく身近にまで寄せてきたのを実感したらしい。

北本市(埼玉県)の市丸みさ子は、 保守系だが市政批判では意見が一致することの多い市会議員と友人で、 この人も『国民の歴史』を読んでいたが、 議会報告(ハガキに細かく書かれている)を兼ねた年賀状がきて、 それを見せてもらったところ、その一端にこうあった。 いわく、「教育問題・・・ マスコミも中学歴史教科書の自虐史観に基づく偏向した内容に注目し始めました。 『新しい歴史教科書をつくる会』の活動も目に見えて活発化しています。 自虐史観が外交にまで深刻な影響を及ぼしていることに気がつかなければなりません。 客観的な事実を踏まえて、 我国の歴史を見直すことが青少年のみならず国民全てが自信を取り戻す糧となるはずです」 (下線は引用者)。 また、この3月7日の埼玉県議会の一般質問で、自民党の渡辺利昭議員は、 16年前から毎年夏に開かれている「平和のための埼玉の戦争展」にたいして、 「特定イデオロギーによる自虐史観に満ちたもの」であると攻撃、 知事に同展後援を見直すように迫ったという(赤旗、2000年3月9日)。 以上は、私がキャッチしえた埼玉県内での2例にとどまる。 だが、全国的にみると、似たような動きは、あちこちに見られるらしい。 私は何がいいたいのか。

自由主義史観研究会代表の藤岡信勝が造語した「自虐史観」という表現が、 ここ1、2年の間に、地方議員クラスの一定部分に浸透し、あるいは、年賀状のなかで、 あるいは、 議会質問のなかでかなりの頻度で使用されるようになってきているということなのである。 表現がひとり歩きするはずはないから、いまのような「時代閉塞」状況のなかで、 「自虐史観」批判キャンペーンの思想が、この層に浸透してきているということであり、 併せて、こういう地方議員が「自虐史観」攻撃の声をあげても、 票に影響しなくなっているということであろう。 つまり右のような年賀状や議会質問をゆるす大衆思想の右傾化を、 それらは象徴しているということなのだ。

そして、『国民の歴史』ばらまき運動に象徴される歴史改ざん大衆運動は、 産経新聞や『正論』、 また『諸君』など右派ジャーナリズムとも結びついて一定の大衆を組織しつつある。 たとえば、『正論』には、「編集者へ・編集者から」という欄があって 読者の生(なま)の声が毎号二十数頁も収録されている。 その編集態度には読者との直接的な結びつきを作り出そうとのかなり積極的な姿勢が認められる。 一部の高踏的な「高級誌」にはない、こうした泥くさい編集姿勢は、 それじたいが歴史改ざん運動の組織者の役割を果たすものであろう。 勿論、右の投稿欄への投稿者は、この雑誌の編集姿勢に沿うものであり、 そこに編集側の取捨選択も働いているのであろうが、それが読者と編集者、 読者と読者との右派的心情をベースにした情緒的共鳴現象を つくりだしているのではないかと推測される。

いま、雑誌『正論』の3月号、4月号の「編集者へ・編集者から」欄から、 『国民の歴史』や「自虐史観」などに関説した投稿をアト・ランダムに最小限拾い出してみる。 「『国民の歴史』、私も今やっと読み終わったところです。 素晴らしい歴史観、興味と感動の連続で深い感銘を受けました」 (崎寿郎、三重県、79歳)。 「歴史的背景のある事象を判断するとき、 現在の一面だけを捉えて結論を出すと大きな誤りを犯します。 西尾幹二著『国民の歴史』をお読みになれば、なお一層の理解を深められると思います。 そして『国民の歴史』が驚異的な売れ行きを示していることこそ、 声なき一般日本人の民族意識が健在であることの証明であると私は思います」 (宮崎元、68歳、東京・中野区)。 女性の投稿者もいる。 「産経新聞で、出雲井晶さんの絵本『にっぽんのかみさま』刊行を知り、 (数日前)すぐ書店に予約。 今まで出雲井さんの本は、2週間から1か月かかって届いていましたので 心配もせずに『国民の歴史』を読んでいました」(村野井なをみ、50歳、摂津市)。 自ら「ガダルカナル戦の生き残り」と称する老人は、こう書く。 「(『国民の歴史』には)今までに教わったこともない歴史観を教えられて、 目の覚めたような境地です。 既に人生の終局を迎えている私でありますが、 初めて手にした格好の教科書として実に有難く読み進めています。 ・・・この本は全国民必読の書だと思います」(寄本博平、82歳、高山市)。 この投書には「編集者から」の謝辞が述べられているが、 そのなかで「ベストセラー『国民の歴史』といえば、昨日、 電車の中で女子高校生が読んでいるのを見かけました。 『ありがとうね』と声をかけたくなりました、」とある。 実は、私も京浜東北線下り電車に掛けていて、 前に立った30歳前後のサラリーマン風の男性が『国民の歴史』を開いて読んでいるのを 一度だけだが目撃した。

引用をつづける。 30歳の白衛官は、こう書く。 「日本の戦争責任を追及する世界各地の反日グループが東京に集まり、 『戦争犯罪(正しくは「戦争責任」、引用者)と戦後補償を考える国際市民フォーラム』 が12月、社民党本部などで開催された。 平成12年は米中を中心に『対日賠償要求』が一段と激化する様子であり、 きな臭い一年になるであろう。 日本のサヨク、進歩的知識人、マスコミがこれに悪のりするのも相変わらずの光景である」 (大原貞暁、北海道美幌町)。 「・・・然り結果的には幾百年欧米列強の支配下にあった植民地が消滅したのである。 我々日本人は遂に大東亜解放の世紀の偉業を完遂し大東亜戦争の目的を達した。 心密に自信と誇りを持ってもよいのではないか。 ・・・歴史勉強の最良の書として『国民の歴史』『大東亜戦争への道』 『世界からみた大東亜戦争』その他数多く出版されている。 趣味の軍艦名研究も結構なことだが近代日本の歴史勉強は もっと素晴らしい血わき肉おどる心の躍動を感じる」(井谷開作、77歳、鎌倉市)。 また自ら「新しい歴史教科書をつくる会」秋田支部員を名のる入物は、こう書く。 「初めは、誰も相手にしない、とるに足らないような話でも、 放っておけばドンドンあれよあれよという問に大きくなり、 『歴史的事実』となって教科書に登場することは、”従軍慰安婦”、 ”南京大虐殺”で経験済みです」(藤原信悦、52歳、秋田市)。

以上のところには、旧来の進歩派歴史像を転倒させた改ざん史観、 民族ナショナリズム史観、「大東亜戦争」肯定史観、 『国民の歴史』像にたいする情緒レベルの共感と、 「声なき一般日本人の民族意識」の分有感情などの圧倒的な流れが認められる。 これまで発言することのなかった人たちが発言をはじめた感もある。

かくて、この歴史改ざん運動では、自由主義史観や「自虐史観」批判派の「知識人」と、 これに共感する市井の日本人大衆と、右派ジャーナリズムが、 相互に補いあうかたちで一つの流れを形づくってきているのである。 これを私は、前論「145国会と草の根ファシズム運動」で、 まさに「草の根ファシズム運動」と呼んだ。

ところで、本年1月4日、障害者の教育権を実現する会事務所での新年会の席上、 そこに出席してくれた文芸評論家の菊池章一は、私の右呼称について、 「ファシズムと言ってしまってはまずいだろう」という意見を述べた。 その席では私なりの説明をしたつもりだが、何分、新年会の席、 がやがやしていてコミュニケーションがうまく行かなかったのと、他の読者にも、 なぜ「草の根ファシズム運動」なのかを概念的に明らかにしておく必要を認め、 なお数言させていただく。 右のように規定したのは、歴史改ざん運動が、 既存の大衆的・歴史的価値を根本的に転倒させ、 日本人大衆の一部の意識底層部分に一貫して流れていた 自覚されざる価値に訴えようとして、にぎにぎしく登場して来たことが、 第一にあげられる。 ヒトラーも、ワイマール共和国時代の議会制民主主義の無責任性にたいして、 ゲルマン的民主主義としての実力民主主義を対置して、結局、 指導者原理に至りつくようドイツ人大衆の意識・感情を誘導したのであった。 そして、第二に、現今の歴史改ざん運動は、日本版「歴史家論争」の枠を越えて、 思想運動と大衆運動を結びつける形で現出させられている点があげられる。 このことをこそ私は、本稿第1章、第4章で、 いくらかの具体素材をあげて批判的に分析してきた。 彼ら歴史改ざん派は、 戦後的=民主主義的国家像の大衆的転倒をもねらっているかに見える。 これ、「草の根ファシズム運動」となしたゆえんである。

私は再び繰り返しておく。 これを迎え撃ち、侵略戦争への反省と、その罪責を明確化して行くべき大衆思想運動は、 かなりの困難を伴なうであろうことを。 それは、 日本国憲法第9条を世界におしひろげて行く人権国際主義の運動とも不可分であろう。 というより一本により合わされたものとしてつくりだされなければならぬであろう。
                           (2000年3月10日)


「人権と教育」編集部のご厚意により再録させて頂きました。


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