「人権と教育」月刊310号(1999.10.20)
中国紀行印象記・5

東史郎私観

津田道夫


今回の中国行きでは、ほかのメンバーに比べ、私は東史郎と相対的に年齢が近かった。 (それでも87歳の東との間は17歳の開きがある)。 そんな関係もあって、飛行機では隣同士の席をあてがわれたり、 ハードスケジュールの合間合間の雑談をもふくめて、 問わず語りに語る東の話に耳を傾ける機会が多かった。 それは私の東史郎観の輪郭を明確にしてくれたし、 部分的にはそれを修正させてくれることにもなった。
ところで、われわれ東訪中団を何かと世話してくれた一人に、 南京大学歴史学教授の高興祖氏がいる。 高興祖氏は、現代史の研究者で、 南京アトロシティーズや731部隊についても研究しているが、 もう60代も半ば過ぎと思われる老紳士である。 そして日本から大虐殺を心に刻むべく参観者が訪れたりすると、 夏の炎暑のなかあちこち案内を買ってでてくれるという奇特なかたでもあるらしい。 初対面の高氏は、背広・ネクタイなど着用に及ばず、 黄色っぽいジャンパー様のものを羽織っただけの素朴そのものの人であった。
東史郎は、今次中国旅行の或る折、とくに改まった形でではなく、 私にこんな風に語ってくれた。 「以前来たとき、高興祖さんに、”東さん、 これ(南京大虐殺のこと)は20世紀文明の恥です”と言われたけど、 それには本当に参りました」。
あの謹厳・温厚に見える老学者のこの一言(ひとこと)は、いまは悔い改めている、 かつての「日本鬼兵」東史郎の肺肺をえぐるような一言だったのだろう。 高興祖氏のことだから、この言葉を多分おだやかな調子で語ったのであったと思われる。 それはおだやかな語りかけであったその分、 東には厳しい評言と受け止められたであろう。 東は、このことを何の衒いもなく、ことの次手みたいな形で私に語ってくれた。 私は、ここに反省に反省を重ねた東の、 今日における到達点があるなと思ったことである。

またこんなことも。 4月14日(水)午前には、 江蘇テレビの「地球村」という番組に東ともども出演させられた。 させられた、というのは私は望んで出た訳ではないからである。 日本でいえばトークショーといったところか。 パネリスト数名と向かい合う形で客(!?)が来ており、 その間に司会者が立って番組はすすめられるのである。
その内容の詳しい紹介はしない。 しないというより、ハードスケジュールの故、イメージが切れ切れになって、 それが出来ないのだ。 私は、たしか、20世紀の戦争には、不正義の戦争と正義の戦争があり、 帝国主義のすすめる侵略戦争は不正義の戦争であり、 植民地・従属国がすすめる解放戦争は正義の戦争であって、この観点からすれば、 日中戦争も、日本の側からは不正義の侵略戦争であり、 中国ないし中国人民の側からすれば正義の解放戦争であった。 したがって、戦争とは殺し合いであると一概に言っても、 不正義の殺人と正義の殺人が区別されると、 私にして当たり前のことを語ったつもりが、拍手で迎えられた。 それと私は日中友好ということについての管見をいささか披露に及んだ。

だが問題は東史郎である。 司会者が、「東先生は1987年に初めて南京を訪れて謝罪しました。 ところで、きょうこの会場には幸存者が2人来ていますか、 いまでも謝罪の意を現すことができますか」と問いかけたのである。 幸存者とは、アトロシティーズをくぐり抜けて命長らえた人(複数)のことである。 私は、いくらかヤラセっぽいな、と思いながらも、東がどうするか見まもっていた。 私の予想では、東は、自分の席から謝罪の言葉を述べるのだろうと、 そんな風に考えていた。 ところが次の瞬間、東は自分の席を立って、つかつかと件の2人の前に行くではないか。 そして、「どうも申し訳ございませんでした」−−この言葉を私は決して忘れない−− といって深々と頭を下げたのである。 しかも、彼は、なかなか頭を上げようとしない。 東はその長い白髪をオールバックみたいにしていた。 私は彼の左斜め後(うしろ)のほうから、この情景を眺めていたのであるが、 左側の髪の毛が、耳から頬のほうヘパラリと落ちるのまで見いっていた。
公衆の面前での公然たる謝罪、これは誰にも出来ることではないな、そう思った瞬間、 偕行社その他の右翼勢力に使嗾されて、 『わが南京のプラトーン』のなかの1箇所の記述をめぐって東を名誉棄損で訴え、 東京高裁での勝訴をかちとるや、 「南京大虐殺捏造裁判勝利」という横断幕の前ではしゃいでみせた橋本光治や、 元中隊長森英生の姿がイメージとして重なって寄せてきて、 この両者をへだてる人間的・思想的逕庭の巾を思わずにはいられなかった。 たしかに前記したが、北山与の場合のように、老残の身を子どもらに支えられて、 懺悔の南京行に及んだ例もある。 死に臨んで、おのれの娘に「中国人民に対してなしたる行為は申し訳なく、 ひたすらお詫び申し上げます」と書いた紙片を手渡し、これを墓に彫りつけてくれ、 とたのんで逝った大沢雄吉のような例もある(野田正彰『戦争と罪責』参照)。 似たような例は他にもあるであろう。 しかし東の場合は、大日本帝国が犯し、 日本国が犯しつづけている罪責を一身で担って、 個の場からの公然たる謝罪を継続しつづけているのである。 一人の東史郎の行為は、 大日本帝国=日本国家の罪業を永遠の曝し台に釘づけにしているのだ。 右翼からの脅迫も、また宜なるかなと思われる。
それに夫人をはじめ、子どもたちが、みな東の行いを了解し、協力的になっている。 聞けば東は、この謝罪行や、裁判について、家族に何も話してはいないという。 しかし、家族のものは理屈とは別のやり方で、おのれの夫の、 おのれの父の行いを了解し、これを支援しているのだ。 今次訪中では、息女の長島和子さんも同行し、 都合によりわれわれより3日程早く帰国の途についたのであったが、その帰りしな、 「お父さんも、何も残してくれなくていいから頑張ってね」と語りかけていた言葉が、 いまも私の耳朶に残る。
私は帰国後、或る知人に、この10年程で東さんも変わられました、と教えられた。 反省が深められ、今日の東が形づくられて来たということなのであろう。

     *

中国の民衆は、 件の民事裁判での東京高裁における東敗訴の判決を非常な怒りをもって迎えた。 それが南京アトロシティーズを無化することにも導きかねないからだ。 さまざまな集会で「東史郎、南京人民支持祢!」(東史郎よ、 南京人民はあなたを支持する!)という横断帯などで、私たちは迎えられた。 勿論、こういう支援の輪が中国に広がりつつあるのは歓迎されるし、 われわれに大きな励ましとなる。 だが、東史郎よ、私は敢えて忠言を呈したい。 中国人民の支持に頼り過ぎるなかれ。 日本人大衆、少なくとも日本の民主陣営に事柄を説明し、理解を求め、 これを東支持の側に獲得するのでなければならない。 そのとき初めて中国人民の支持運動に提携できる 日本人民の動きをつくりだすこともできるであろう。 この点、東京高裁判決の日(98・12・22)、 報告集会に集まったのは100名に満たなかった。 東史郎=南京事件裁判をめぐる関心の寡多については、日中の間に大変な落差がある。 いまは中国人民による熱烈支持にたよりすぎないようにしたい。 右の落差を埋めるために足許をかためる時ではないのか。 (99・5・11)

〔後記〕 私の「中国紀行印象記」は、5回をもって終了させていただきます。 掲載を許諾してくれた編集部の皆さんには感謝しますが、 第4回で「北清事変」が「北満事変」になっていたなど、 重大な誤植があったことを指摘しておきます。(99・10・10)


「人権と教育」編集部のご厚意により再録させて頂きました。


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