「人権と教育」月刊309号(1999.9.20)
中国紀行印象記・4

盧溝橋と宛平県城

津田道夫


忙中閑あり。 4月10日は午前中、『花岡事件』の出版記念会があり、午後は夜の観劇まで、 中国人民抗日戦争紀念館の応接室で私などは待機することになった。 同行の西村秀樹が、「津田さん、ここ宛平県城ですよ」と教えてくれる。
「ええッ、ここが宛平県城の跡かい」
「跡でなく宛平県城そのものです」
1977年、盧溝橋の近くに抗日戦争紀念館が開館したのは知っていたが、 それが宛平県城につくられていたなんて。 全く迂闊なことであった。
「ここが宛平県城なら、盧溝橋の橋は、もうすぐそこって感じだろ。 見に行きたいなあ」。
と、こんなやりとりを傍で聞いていた河北大学外国語学院の張友棟氏が、 「それなら、案内しましょうか」と申し出てくださる。
張友棟氏は、日本へ留学した経験もあって、 日本語が堪能な老学者といった風貌のかたである。 早速、コートを引っかけ張氏の案内で出かけた。 ここでちょっと説明をしておけば、「盧溝橋」というのは、 永定河にかかる有名な橋の名称であるのといっしょに、 この橋から見て永定河右岸よりの地区名にもなっている。 では、なぜ私が盧溝橋にこだわるか。

     *

1937年7月7日午後10時40分ごろ、 前年の増兵にともなって豊台に駐屯していた 支那駐屯軍歩兵第1連隊第3大隊にぞくする第8中隊(清水節郎中隊長)が、 この橋の右岸荒蕪地で夜間演習をしていたところ、 中国29軍の陣地のある龍王廟の方向から数発の実弾がうちこまれてきた。 空砲だったら破裂音のみであるのに、破裂音につづいて銃弾の擦過音がしたので、 それは実弾以外にないと判断された。 清水中隊長は部隊を一箇所にまとめて、事態を豊台の第3大隊長、 一木清直少佐に報告、 一木はさらに北京(当時、北平といった)の第1連隊長牟田口廉也大佐に電話連絡、 牟田口は一木に戦闘隊形をとって中国側と交渉するよう命じた。 かくて午前3時ごろ再び銃撃音が聞こえたのをきっかけに一木大隊は中国軍を攻撃、 以後、小ぜり合いが散発するなか、日中双方で事態収拾の努力もつづいた。 しかし結局、日本から第5(広島)、第6(熊本)、第10(姫路)師団の派兵と、 それに先だつ日本政府の「重大決意」の表明(7月11日)などがあり、 事件は拡大する方向をたどった。 そして、26日の広安門事件を契機に、28日は、日本軍の総攻撃が開始され、 宛平県城も完全に占領されるところとなる。
以上は軍事衝突拡大の経過であるが、政治的には、「満州事変」以後、 日本軍部の「華北分離工作」(蒋介石による全国統一運動から華北を分離し、 ここに反共・「自治」の政権をつくって、 それを「満州国」と中国本部との緩衝地帯にしようとの策謀)が継続され、 これに反対する北京を中心とする学生・労働者の反対運動・反日気運は 未曾有の昂揚を示していた。 それより前1900年の「北清事変」に日本も出兵したことによって、 日本は華北の地に駐兵権をえていたが(支那駐屯軍)、1936年6月、 この支那駐屯軍を1771名から5774名へと約3倍に増強するという暴挙に及んだ。 かくて北京を中心に、抗日愛国の感情に燃えたつ中国軍と、 その侵略的意図をかくすところのない日本軍が混在する状況が現出していたのである。
盧溝橋における数発の銃声は、たしかに偶然の出来事であった。 しかし、以上の政治的緊張の一帰結として、 それが以後8年に渉る中国全面侵略戦争の引き金になった点では、 これは必然の問題であった。
盧溝橋−−それは日中全面戦争のきっかけをつくった地名であり、私などには忘れよう にも忘れられない地名となって、したたかな記憶をとどめているのだ。

     *

抗日戦争紀念館から通りに出て、 西に歩くとその先がマルコポーロ橋こと盧溝橋である。 北京の空気は何となく埃っぽく、乾いていた。 後から行った南京とちがって4月中旬、まだ街路樹は芽吹く気配はなく、 裸木をさらしている。 その先に圧倒的に重量感を誇る宛平県城の城楼が望まれる。 クルマがかなり乱暴な運転で走っていて、あぶない。 と、もう盧溝橋である。
この永定河にかかる古い石橋は12世紀金の時代につくられ、明代の修復で、 橋の両側の石の欄干に300あまりの大理石の石柱をたて、その柱頭には、 表情・姿勢がすべて異なる獅子がおかれた。 恐い感じのもの、可愛いもの、チャッカリした感じのもの、それこそさまざまだ。 ちょっと川越市・喜多院の五百羅漢の豊かな表情が思い出される。 橋上に立って左右を指点するが、永定河の水は枯れ、 河原がクルマの練習場になっているのには、いくらか興ざめであった。 何でも上流にダムができたとか。それでも夏には水が流れるらしい。 橋上から左を眺め、62年前の7月7日、清水中隊が夜間演習に及んだのは、ああ、 あのあたりかと見当をつけるがはっきりしない。
いま盧溝橋入口にはサクが設けられ、 一般市民が入場料を払って入る北京の観光名所の一つになっているのらしい。
橋のたもとに、 清の乾隆皇帝の筆になるという「盧溝暁月」と鐫(き)り刻まれた石碑が立っている。 かなり高い石碑で5、6メートルはあろうか。 私が訪ずれたとき、若い夫婦ものが、 男女2人の子どもをこの石碑の前に立たせて写真撮影をしていた。 盧溝橋は、つまり、いまそういうところになっているということなのであろう。
北京に行ったら、何としても盧溝橋を、と念じていた思いは、 ひょんなきっかけで叶えられた。(99・5・14)


「人権と教育」編集部のご厚意により再録させて頂きました。


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