四月中旬の南京は、ちょうど芽吹きの季節だ。
メインストリートである中山路の両側に植樹されたプラタナスも、
公苑のメタセコイアの仲間も、いまを限りと芽吹きの最中である。
種が特定できぬ鳴禽のコロコロといった声も、こぼれかかるように聞こえてくる。
出発前、昨年三月末に南京に行ったという「ノーモア南京の会」の芹沢明男が、
”寒かったですよ”と助言してくれたので、私は、スウェーター、カーディガン、
厚手のコートを旅行トランクに詰め込んでいったのだったが、それが大はずれ、
ワイシャツの上にジャケットを羽織るだけで少し動くと汗がじっとりとする。
聞けぱ極端にいって、南京には春がないのだそうだ。
冬が去り、もうこれから夏に向かうというその季節に、まさに私の南京行は一致した。
だが、この芽吹きの美しい街路に見ほれながらも、
往時日本侵略軍が行った数々の残虐行為がイメージとして重なってくると、
そこに或る感情が寄せて来て、
心なごむという訳には行かぬ数日を過ごすことになった。
南京は余りに美しかった。
その分、私は悲しみの心を表出しないよう努力するところとなった。
実は、日本の一部の人には知られている『わが南京プラトーン
−−一召集兵の体験した南京大虐殺』の著者、
東史郎の完全(ということは省略箇所なしの)中国語版『東史郎日記』が、
このほど江蘇教育出版社から上梓され、その出版記念会があって、
東をはじめとする6名の訪中団が組織され、私もその末席に加えてもらい、
4月9日から16日まで、
私にとって初めての中国旅行(北京、南京)となったのである。
同時に、東はいま『わが南京プラト−ン』中の一箇所の記述をめぐって、
元日本軍兵士、橋本光治に「名誉毀損」問題で訴えられ、東京地裁、
東京高裁では東側敗訴で結論がだされていた(98・12・22)。
東側が直ちに上告したのはいうまでもないが、
この裁判は橋本が偕行社という元陸軍士官学校出身者の親睦団体に
使嗾されて起こしたもので、南京大虐殺を無いもの、
にしようという政治的意図は傍若無人であった。
そんなこともあって中国人大衆の間には、
東支援の輪か拡がっていたそういう際の訪中でもあり、
各種集会では東支援の大衆的意志表明もなされた。
ここでご存知ないかたのために、東史郎について簡単に紹介しておきたい。
東は、1937年8月、
25歳にして福知山歩兵第20聯隊第3中隊の上等兵として応召、
華北から華中へと転戦、南京攻略戦にも参加した。
東はいう。
「強姦・掠奪・虐殺、放火
・・・南京占領前後の一カ月に繰り広げられた日本軍の悪行を、私は自ら体験し、
見聞きした」(『わが南京プラトーン』への「まえがき」)。
そのときの東は勿論、「日本鬼兵」でありそのようなものとして行動した。
しかし、旧制中学時代、後の海音寺潮五郎(本名は失念した)に師事した東は、
文学青年としてそこそこ文筆もたった関係で、刻明な戦場「日記」を記していた。
1939年11月、郷里の京都府・丹後町間人(たいざ)に帰還後、
これを改めて整理し、自分の人生の記録として清書していた。
東が、なぜ検閲の厳しいなかにあって戦場「日記」をもちかえりえたかといえば、
彼は帰国途次、マラリアのため下船、南京病院に入院して、
結局一人で帰国除隊という僥倖にめぐまれたからであろう。
東は、この「日記」を戦後もずっと筐底にしまいこみ、
人目にさらすことはなかったが、
1987年「平和のための京都の戦争展」に乞われて展示、
人に知られるところとなった。
そして結局、その抄録が、1987年11月、
『わが南京プラトーン−−一召集兵の体験した南京大虐殺』
として青木書店から刊行された訳である。
その折、私は直ちに一本を購読、その加害体験をつつみかくさず公表する勇気には、
現代日本の大衆的思想風土をもかさねて考え、少なからぬ感銘を受け、
併せて侵略戦争の実相をつぶさに知ることをえた。
その後、二、三度の文通をへて、
拙著『南京大虐殺と日本人の精神構造』(社会評論社)には、
東「日記」から多くの引用をした。
私と東との関係は凡そこんなところである。
そこで東「日記」の評価ということになる。 というのも、『わが南京プラトーン』の日本での出版当時から今日にいたるまで、 私の周辺で虚構らしきものがあるというウワサが仄聞されたからである。 私は、今回の訪中で、東「日記」の信憑性について中国側の関係者にも質問してみた。 中国の学者もかなり綿密・詳細に時間をかけて検証に及んだようで、 たとえぱ東が転戦した地方地方の人びとの習慣に至るまで事実と一致していて、 十分に信頼しうるものであるとの回答をえた。 したがって、わが周辺でささやかれた東「日記」=虚構説は、 中国人学者の努力によっても粉砕されたことになる。
話を戻す。
今次の中国旅行は、私にとって楽しいとはいい難いものの、たいへん有益であった。
楽しいとはいい難かったとは、ハード・スケジュールに過ぎたこともあるが、
62年前の日本軍による−−つまり私の兄や父の世代による−−
アトロシティーズのイメージが、旅行期間中ついてまわったことにもよる。
有益であったとは、思想的に収穫が大きかったことによる。
そこでこの中国紀行印象記では、時間的な順を追うのでなく、
印象に残ったことどもをアトランダムに記して行きたい。
まず案内してもらったのは清涼山遇難同胞紀念碑。 日本軍による南京占領当時、国際安全区がつくられたが、 その西側に清涼山公園があり、石畳を進んで行くと、正面に紀念碑があって、 一日本人訪問者を厳然と見降ろしている。 台石のうえ、下のほうが三方に広がり、タテ約2.5メートルの紀念碑は、 音もなく静かなたたずまいで聳立していた。 この紀念碑を中心に、あたりは公園になっていて、 ここでもメタセコイアかその仲間とおもわれる落葉杉の芽吹きが盛んだ。 鳥の歌声もこぼれるほど。 風がなく、木の枝のそよぎも感じられない。静寂だ。 そして、ここが実は62年前の虐殺現場、阿鼻叫喚の地なのである。 静寂さに、虐殺イメージが重なって来て、さまざまな感慨が群がって突き上げてくる。 叩頭することひとしきり、眼を静かに上方へ上方へと移して行くと、 メタセコイアの枝にかかる鵲の巣が眼に入った。
つぎは、中山路に出、さらに中山北路をすすんでユウ(手ヘンに邑)江門を抜けると、
ややあって中山埠頭である。
揚子江に面するこの一帯を下関(シャーカン)というが、
ここで1万数千に及ぶ中国軍民が虐殺された。
揚子江を渡って対岸に逃れようとして、機銃掃射をうけたのである。
イカダなどに乗って揚子江に出たものには江上に日本海軍の駆逐艦がまっていて、
これまた機銃掃射。
そこに建つのが、中山埠頭遇難同胞紀念碑。
帽子をとって叩頭していると”トンスーランだ”といったささやきが聞かれる。
トンスーランは東史郎の中国読み。
私は髪が長く白髪であるため、一瞬東史郎と見紛うところがあったのであろう。
この辺り揚子江は河巾2キロ、青味がかった灰色、ないし、
灰色がかった青い水をたたえて、ゆったりとした流れを流れている。
荷物船ないし遊覧船とおぼしきものも見える。
ああ、日本侵略軍は、このゆったりとした長江の流れを紅に染めたのであった。
さまざまな想念が忙しく往き来する。
幾万の血汐で染めし赤き川
夕陽に映えて静かに流る
”虐殺中隊”と仇名された福知山第20聯隊第3機関銃中隊の元分隊長、
北山与(あとう)が、後年、老残の身を子どもに支えられ、
長江のほとりに立って懺悔の心を表出した短歌である。
あと、中山北路を南京城内の方向へとって返して、 こんどは侵華日軍南京大屠殺遇難同胞ユウ江門叢葬地紀念碑。 ここも公園になっていて、同様緑が美しいが、ただこの紀念碑は、 2段の台石のうえに横長にどっしりとした構えになっている。
と、そのあたりで、改めて気づいたのであったが、これら紀念碑の建立年が、 すべて一九八五年となっていることである。 そういえば、大虐殺記念館も、1985年オーブン。 漸く歴史が風化しかけて来たため、 若い世代に歴史の教訓を伝え残そうとの中国側の意図もあったであろう。 しかし、日本にそくしていえば、1982年、例の第二次教科書問題が起こり、 南京大虐殺=まぼろし化工作も表面化してきた まさにその時期に当たっていたことも銘記すべきであろう。
そのあと運転手さんの厚意もあって、クルマを孫中山記念館にまわしてもらい、
孫文の執務室跡なども見学、往事を偲ぶこと一しきり。
昼は、玄武湖のほとり、紫金山を望むレストランで饗応にあずかる。
何れも南京戦ゆかりの地である。 (99・5・4)
「人権と教育」編集部のご厚意により再録させて頂きました。